23.「正義の王」


「ねえあなた、この子の名前は何にする?」


 聞こえるはずのない声に問い掛けられ、夢だと気付いた。

 古びた記憶を思い起こす暇など無いというのに、脳というのはこれだから。


 内心でどう思おうが関係なく、夢は深度を増していく。


「私が考えるのか?

 名付けならばリーゼ、君の方が……」

「もちろん、私も考えるけれど。

 あなたがこの子のこと、どう呼びたいか知りたいの」


 大きく膨らんだ腹を撫でながら、記憶の中で妻が笑っていた。

 これは果たして本当にあった過去だろうか、この笑顔を求めて彷徨った年月が記憶を改竄していてもおかしくはない。


「お母様が言うには男の子ですって。

 ねえ、何て呼びたい?」


 問い掛けは穏やかで優しく、自分の中の雑念全てを溶かしてくれる。

 望まれた通り、産まれてくる子の名前を考えた。


 ……本当は、子に興味などなかったのだと、自分の本質を知った今ならば分かる。

 人として産まれたくせに情動に対する理解がない、そんな自分の事を妻は人間と呼べる存在にしてくれた。


 君と生きる自分なら、親になれるのではと思っただけだ。


 君と共に在ることが前提だった。

 君と共に育てていく子の名前を、私は考えたのだ。


「そうだな──」


 夢の中、何も知らない愚か者が口にした名前を聞いて妻は微笑む。

 ほら、やればできるじゃない。

 そう言われたような気がして、この記憶が嘘じゃない事を体の何処かが願っていた。



 ◇ ◇ ◇


 

 ──1855年、冬。



 白光は常と変わらず、目が眩むほどの輝きの前にカインズは立っている。

 聖王の王石柱レムナント、その端末。

 人類圏の安寧を守る機構に向けて、彼は己の杖を掲げた。


「──王権レガリア解放。

 人に齎された神秘、目覚めの時を希う」


 カインズの声を受けて、端末は明滅する。

 揺蕩う光の向こうから何者かが此方を見つめる気配がした、誰であるかは明白だ。


『情報精査、開始』


 聞こえてきたのは女の声だった。

 ともすれば少女にも思え、幼さと純粋さを音にしたような、無垢な声だ。


「今こそ、我々は正しき流れに戻る時。

 悪を裁き正義を執行する、その為に王権を行使することをお許し願いたい」


 続く言葉に光は明滅を繰り返す、思案している最中のような輝きの後、彼女は言った。


『……私たちが箱庭に齎した神秘、王権レガリア

 人類が唯一、騎士を為の方法』


 ひとつ、ふたつ、弾けた輝きが粒になって空間を漂う。

 原初の時代から箱庭を見つめ続けている意識の一つが、微睡から人の眼を見据えた。


『情報精査、完了。

 ──人類の安寧と更なる進化に向けて、聖王は断定する』


『あなたの夢は何をしたって叶わない。

 そしてあなたを裁くのは……私じゃない』


 彼女が放った言葉の数々を、カインズはただ聞き届けた。

 意味を理解出来たわけではない、しかし千を超える時を前にして竦んだわけでもない。


 そもそも対話することを求めて言葉を発した訳ではないのだ、それは互いに同じこと。

 生き物の枠から飛び出して惑星の一部と化している存在は沈黙し、端末に満ちる白光が強まった。


 本体から端末へと伝達される原初の聖王の意思、迸った輝きがカインズの掲げた杖へと宿る。


『──王権レガリア解放を許可。

 「愛した者の為だけに生きる者」、あなたの選択はある意味では正解だ』

 

 杖の柄に纏わりついた輝きが、白光の塊となって花開く。

 原初の聖王が持つ権能、神が振るうものと同等の力。

 王石柱レムナントからその一部を貸し与えられた人の王は、輝きを一瞥し端末に背を向けた。


 それきり、原初の聖王は沈黙する。

 ……結末を察しているようでもあり、まるで現代に興味が無いかのようにも感じられる静寂。


 男には進むと決めた道がある、正解だろうと間違いだろうと関係なく、やり遂げると決めたことがある。


 妻が描いた理想、遺された夢を叶える為。

 未だ未成熟な情動の中で男は一人、死者に託された思いに応えようとしているだけだ。


 正義の王は杖を振るった、瞬間輝きが空間を走り、聖王領域を駆け抜ける。

 原初の聖王が備える権能そのものが光となって、騎士たちの元へ届く。


「絶対王令権、解放。

 全ての聖王騎士に告ぐ──」




 ◇ ◇ ◇



 『戦闘行為を停止せよ』



 背後から頭を殴られたかのような衝撃に、紗世は倒れ込んだ。


「なっ……」


 右手から細剣が離れ血溜まりの上を滑っていく、今離したら駄目なのに、剣を握るどころか立つことすらままならない。


 何か強大なものに、全身を鷲掴みにされたような気分だった。


 耳鳴りが鳴る、その向こうから響く声。

 重圧で潰れそうだ、指先を少し動かすだけで体中に走る激痛は今まで経験したどんな怪我より酷い。

 上手く息が出来ない、それでも紗世は意地で頭を起こし辺りを見渡す。


「あ、あぁ……」


 部下たちも皆、平等に膝をついている。

 無理やり頭を垂れさせられているような光景は酷く悪趣味で、これは敵の攻撃手段の一つか何かかと考えた。


 降り続ける臓物の雨から逃れるように、防衛隊は後退を余儀なくされている。

 這って、転げて、響き続ける声に苦しめられながら騎士たちはもがく。


 本来ならばもっと善戦出来るはずだ、それだけの実力を持った聖王騎士団の精鋭でこの防衛隊は構成されている。

 そんな彼らの力を、性能の八割を響き続ける無垢な声が奪い去っていく。


 空の裂け目から這い出した巨神は、直立し此方をただ眺めていた。

 眼下で蠢き続ける有象無象を映す単眼は、一度も瞬きをしない。


 このまま退がり続ければ聖王結界にぶち当たる、人類圏はすぐそこだ。

 一度、侵入を許せば巨神は騎士も人間も関係なく手当たり次第に殺すだろう。


 他の騎士団からの支援や、第一階級騎士の投入があったとしても、きっとそれを待つ間にライオス王国は更地に変わる。


 今ここで、自分たちが食い止めなければならない惨状だった。

 転げている場合ではないというのに、誰もが立ち上がれない。


 『戦闘行為を停止せよ』


 紗世は響き渡る声を再び聞いた。

 女か、少女か……そんなことはどうでも良い、聞き覚えのある声は言う。


 『戦闘行為を停止せよ』


 何処で聞いたことのある声なのか、思い出すのはすぐだった。


「……聖王」


 12歳になった日、紗世を選んだ王石柱レムナントと同じ声。

 原初の聖王がこの状況を作っているとでもいうのか、神を目の前にして騎士たちが膝をつく、こんな悪夢を──。


 もしそうだとしたら、最悪だなんて言葉では済まない。

 祖に見捨てられたのだとしたら、私たちはどう生きていけば良い。


 冬の寒さとは別の冷たさが自らを生かす根幹を凍らせるのを紗世は感じた。

 自分独りが死ぬならまだ良い、だけど此処には部下たちがいて、背後には守るべき人類が、友達が、家族がいる。


 自分がどういう生き物なのか、紗世は当たり前すぎて忘れていた事を思い出した。


 私たちが死ぬときには、何の理由も無い。


 日常の中に死が組み込まれている、そういう種族に生まれたのだと理解していた癖に、頭の何処かで今日も生きて帰れるんだと思っていた。


「馬鹿だな、そんな訳ないのに」


 現実に突き付けられた自分の価値を紗世は改めて自覚する。

 悔しくて悲しくて堪らなかった、好きで騎士に生まれた訳じゃないのに、自分が此処で死ぬのは当然だと判断する己の本能が憎い。


 感情よりも機能が勝る、その事実こそが自分が人間ではない兵器であることの何よりの証明だ。


 神の気紛れでまた大勢が死ぬ、その中のひとりに自分が入っていた。

 考えてみれば単純な話だ、私たちは運が無かったというだけ。

 ただそれだけの理由で、死ぬ──。



 下を向く騎士たちの耳に、ざり、と砂を踏む音が届いた。

 誰かがまた転げたのだろうと思った、這いずって、地面を掻いているのだと。

 だけど音は続いた、ざりざりと、何度も響いて、少しずつ離れていく。


 離れていくのだ。

 前へ前へと、足音が聞こえる。


 紗世は我に返って必死に顔を上げた。

 真横には跪く部下たち、皆が一様にただ一つの背中を見上げている。


 血煙の漂う前方に目を凝らせば見えた。

 最前線よりも、更に前に立つ青年の姿が。


 途端に絶望している暇はなくなって、彼女は声を上げる。


「先輩……!」


 歯を食いしばって、紗世は前へと這う。

 あのひとがまだ立っているのなら。

 私たちが膝をついて良いわけが無いのだと、深層に火が点いた。


「このッ……!」


 無理やり体を引き起こし、ふらつきながらも前へ出る。

 紗世がそうする間にも彼は進んでいた、地を踏んで、握り締めた左手から血を流し、決して愛剣は離さずに。


 騎士たちの姿を、空より降りた神は首を傾げて観察している。

 まだ奴が何もしないでいるうちに立て直さなければ生き残れない、紗世は己の細剣を拾い上げた。

 周囲の部下たちも彼に続く為、顔を歪めながらも立ち上がる。



 『戦闘行為を停止せよ』


 声は響き続けている、立っているのが精一杯で、それでも前を行く背中があるから足を運べる。



 『戦闘行為を──』


「総員、聞け」


 彼の言葉は短く、聖王の声を遮るように聞こえた。


 誰もが天才と称え、誰かが聖王の成り損ないと嗤った背中を皆が見ていた。


 ……この場にいる紗世を始めとした防衛隊の面々、桐谷雄大を追いかけ続けてきた部下たちは、他の騎士たちが抱くものとは少し違う印象を彼に持っている。


 多くの友と部下を看取りながら、多くの命を救ってきたあの背中は、決して器用な性質たちではない。

 ただひたすらに、底抜けなまでに優しくて諦めが悪いだけなのだ。


 血塗れの手を握って貰った、身を挺して守って貰った、彼の指示が戦局を分け生き残れた者もいる。

 彼の課す訓練は厳しいが、代わりに独りも置いていかないと皆が知っている。


 桐谷雄大は聖王になる──ここにいる誰もがそう確信していて、させるだけの物が彼にはあった。


 彼が抱える苦悩や焦燥を部下たちは知らない……抱いているのは憧れと理想だけ。

 だからこそ、誰より理解している。

 ──このひとが出す指示はいつだって、正しいと。


「ここは俺だけで構わない、撤退しろ」


 出された指示を聞いて、部下たちは一瞬だけ放心した。

 頭の中で言葉を反芻すると、埋め尽くすように感情が湧く。


 ──連れて行ってくれるんじゃないの、まだやれる、戦える、死ぬなら共に。


 瞬き一つの間だけ、様々な思考が戦場を錯綜した。

 それ以上の時間を割くのは許されない。


 自分たちは生き残れと言われたのだ。

 死んで当然の兵器であるのに、そう願ってくれた騎士が、目の前に立つ憧れだった。


「総員後退、這ってでも退がれッ!!!」


 誰よりも先に彼の言いたい事を理解して反応したのは紗世だ、彼女の声に従い、聖王騎士たちは動き出す。

 体の動きを阻害する声は今も頭の中に響き続けている。


 死に物狂いで彼らは戦いから逃げ出した、騎士として許されてはいけないことだと知っていて。


 でも、騎士である前に彼らは命だ。

 取るに足らないちっぽけな、そこらの子どもと何も変わらない少年少女なのだ。


「まあ、私は退がりませんけど」

「言うと思った」


 偉すぎる後輩が、強がりな聖王候補の隣に並ぶ、笑い合う彼らの前で巨神は傾けていた頭を元に戻した。

 ……観察は終わりらしい。


 噛み締めた唇から血が垂れる、それを自覚しながら雄大は構えた。

 紗世が細剣を身の後ろに引く、己が修めた流派において最速の突きを放つ為に。


『キャキャキャ……ぁハハッ!!!』

 

 ご機嫌な赤子の如く笑いながら、己の足先まで届く長さの両腕を巨神は広げた。


 ……天候神系、炎神系、風神系、神の種別は様々だが、こいつがどれに該当するかなど今のふたりには判断出来ない。


 やるべきと決まっているのは、後方の部下たちが退避する時間を稼ぐこと。


「篠塚、出来るだけ未来みたいに動いてくれる?」

「はあ?……それ本当に出来ると思って言ってます?」


 紗世は呆れて笑った、あんな奇才と同じようになんて出来るわけない、何を言っているんだと、でも。


「出来るよ」


 そうやって、簡単に言い切ってしまうところは嫌いじゃない。

 やってやろうじゃないかと紗世は踏み込む、そうだ……どうせ目指すなら。


「最速、最短ッ!!」


 繰り出した剣先は万能へと向かう、甲高く鳴った風を裂く音こそ、開戦の合図だ。

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