3.「ある冬の日」下
夜も深まる時間、膝を抱えて眠っていた未来は、怒鳴り声で目を覚ました。
顔を跳ね上げさせる、泣き喚いてそのまま眠ったんだ、此処は何処だと見渡せば、お母さんの家の裏口だと分かる。
家の中からは言い争う声と、何かが倒れるような音が聞こえた、次いで悲鳴も。
「やめて、お願い!!」
お母さんが叫んでいると気付いた瞬間、未来は立ち上がって家の中へと続く扉に向かった。開こうと思ったが開かない、誰かが扉を押さえているのだ。
震える体を動かして、未来のことを背に庇った誰かがいる。
「……人間の子どもと同じように奴らを扱うのを今すぐに止めろ。
騎士ってのは人間を救う道具の一つ、万能どもを殺す為だけにある兵器だ」
聞こえてきたドグの声は悲しみを覚えるくらい冷たかった。
扉越し、追い詰められた誰かと心音が重なる、未来は痛いくらい鳴る心臓を押さえて後退る。
「……あ、あの子には戦う力がないの、知っているでしょう!」
「知ってる、だから今まで雑用をやらせていた、だが今じゃ騎士はアレが最後だ。
天使の餌にでもして時間稼ぎしてる間に、住む場所を移そうって話だよ」
誰かが殴打される音が声と共に響く、誰が殴られているかなんて分かりたくなくて首を左右に振った。
何度も何度も聞こえる音と揺れる扉を見ながら、未来は立ち尽くしていた。
お母さんの声は弱々しくなっていく。
お母さんが弱るほど音は強く響き渡る。
「にげて──」
未来が微かに聞こえた言葉の意味を理解したのと同時に一際、大きな音がした。
硬いものが砕けた音、恐怖に震えながら、それでも脳に残る変に冷静な部分が告げる。
ああ、この音はもう致命傷だ。
扉が壊れて倒れてくる。
血塗れになったお母さんと一緒に。
──とある冬の日。
「どんな手を使ったんだ、お前?」
夜明け前の空の下、月もない薄曇り。
「エリナが壊れたじゃねえか、俺のお気に入りだったのに。
馬鹿で素直な良い女だったのに」
お母さんの頭から血溜まりが広がる。
死んでしまったその人は、もう二度と笑わないし喋らない。
「騎士は人類の為に死ぬ生き物だってのは常識だろ、なあ」
「お前もそう思うだろ」
血塗れの斧を片手に下げた人間が、未来の目の前に立っていた。
人間だ、人間だと判断している、未来の騎士の部分がそう言っている。
恐怖とも怒りとも付かない感情に震えが止まらない、未来は男の顔を見上げた。
夜闇の中でも、騎士の目には男の表情が良く見える。
獲物を見つけた獣が凶悪に笑っていた。
騎士とか人間とか本当のところはどうでも良いのだ、弱いものを弱いままに壊すことを楽しんでこの男は笑っている。
お母さんの体を蹴り転がし、脇に退けて一歩ずつ、男は近付いて来る。
未来は後ろへ下がるけど、すぐに背中が壁についた。
正常な状態ではない騎士の頭に、人間の声が届く。
「命令だ、盾になって死ね」
頭の中で火花が散った。
告げられた言葉は感情と名のつく全てを放棄させ、何よりも優先されるものとして、騎士の行動を支配する。
……めいれい、命令だ、考えるのは止めにしよう、何もかもから目を逸らし自分を全て鈍らせてしまえ。
はいと答えれば良い、わかりましたと頷けば良い、それしか許されていないのだから。
人を守護し、安寧に導くのが騎士の務め。
その為ならば喜んでこの身を差し出す。
何も感じなくなれば、楽だ。
この先、生きるとしても死ぬとしても。
無駄なことばかり考える脳なんて、いっそ無くなってしまえばいい。
握り込んでいた両手から力が抜けた。
未来が大切だと思うもの、綺麗だと思うもの、ぜんぶが灰になる。
「お前はとろい、だけど従順だ。
犬猫みたいに飼ってやりたいところだが、能無しを置いておく余裕が本気で無くなっちまってな」
男の右腕が未来へと伸びた、身動きの出来ない死んだ目をした子どもの体へ。
「死ぬ前に、俺が壊して遊んでやるよ。
畜生よりも可哀想だなぁ、お前たちは」
目の前に立つ人間は、一体何を喋っているんだろう。
いつの間にか何の音も聞こえなくなっていた、未来は現実から逃避する。
夜空は暴力も惨めさも、血溜まりの中に転がる死体のことも平等に見下ろしていた。
この広い空の下で生きて来たはずなのに、未来から見える世界はこんなにも狭い。
……絶望するには今の未来は冷静すぎた、頭が真っ白になることも発狂することも許してもらえない。
戦って死ぬ以外で愛される方法がない。
上手くはいかないなぁと未来は溜息を吐く、男が何か言って肩を掴まれ体を揺すられても、未来は現実から目を背け続けた。
……月のない夜空にだけ目を凝らす。
暗雲すらも綺麗だった、この惑星は優しくなどないけれど煌めきに満ち溢れている。
ただ夜空を見上げているだけでも簡単に、美しいものが見つかるのだから。
未来は眺めた彼方から、一条の星が落ちて来るのを見た。
黄金色の尾を描く流星を目で追いかける。
なんて綺麗な輝きだろう、そう思った途端、脳の端に追いやられた自我の中を焼き焦がすほど強い願いが巡った。
物心ついたばかりの頃に見上げた空の青さを思い出す。
寒い夜に浮かぶ月の恐ろしさを、薬の臭いが漂う路地裏を照らす夕焼けを、朝露を溢す葉を見上げていたあの日のことを。
そうだと未来は呟いた。
一度で良いから触れてみたかったのだと。
汚くて惨めな未来には、いつも手が届かなかったもの。
生まれてから未来はひとりぼっちで、それでもこの惑星を嫌えなかったのは。
──この美しい箱庭に、触れてみたいと思って生きてきたからだ。
未来は右手を持ち上げてみる、黄金色の流星に向かって。
たとえ届かなくても伸ばしてみたい、そう思ってしまうほどの煌めきに。
黄金色の流星は、未来に向かって落ちて来た。
それは初めて得られた惑星からの返答だ。
目を見開けば逃避も終わる。
体に感覚が戻って来る、聞こえなくなっていた声が耳に届く。
黄金色の流星は速度を上げて未来に近付き、夜空を駆け抜け落ちて来る──!
「おい、聞いてんのか……ッ!」
男の右腕が振り上げられ殴打される直前に、限界まで伸ばされた子どもの指に、黄金色の流星は到達した。
熱と光が爆発し、辺りを真っ白に染め上げる。
輝きは未来の指先から腕を伝わって、身体中を駆け巡っていった。
さやがくれた灯りのような、心地よい熱が未来の冷えた体を温める。
──星が、弾けた。
溢れ出した誰かの鮮血が、舞い上がる。
◇ ◇ ◇
「は……?」
現実が理解できなかったドグは、理解できないまま地面に崩れ落ちた。
目の前に立つ騎士を殴り飛ばそうとしていたところだったのに、眩い光に視界を奪われた直後、立っていられなくなったのだ。
何が起こったのかと確認する為に立ちあがろうとしたが、動けない。
足元を見る、夜の暗さのせいと、目が眩んだあとでもあるからか良く見えなかった。
手で足を探れば、粘着質な何かが掌にこびりつく。
むせ返るような臭いにドグは、これは血だと理解した。
自分の血だ、だけど何処から。
「がっ、あぁ……?」
遅れて濁流のような痛みと熱さが押し寄せてくる。
それらを処理しきれない男の体は、仰向けに倒れた。
己の両足が切り落とされているのだと、理解するしかなかった。
能無しの騎士はただ棒立ちしているだけで、何をした様子もない。
ならば、だれがこんな出鱈目を──。
「あ、?」
思考の続きごと刺し貫かれ、男の体が宙に浮く。
血を滴らせるだけの塊になった男は、ぐらつく視線を下げた。
もたげた首が揺れて、口から血が溢れ出す。
視線の先には、黄金色に輝く瞳の子どもがいる。
無表情のまま、白く柔らかな幼い手が男に対して向けられていた。
今更になって体が恐怖に支配されていくのを感じながら男は考える。
この生き物はなんだ、さっきまでは紛れもなく騎士だったのに、今は違う気配がする。
これでは、これではまるで、
「……神、だ」
口が勝手に、自分でも意味の分からないまま目の前の存在をそう呼称した。
本能に刻みつけられた天敵、人類を襲い、脅かし、悍ましい天使を使役する種族。
それが突然、目の前に現れたのだと。
男の脳が事態を認識した瞬間に、腹を串刺しにしていた物体が引き抜かれた。
地面に落ちる死体、そんなものには目もくれず、闇を見据える幼い彼女。
黄金色の光が満ちた瞳には、幼気な少女の面影など何処にもない。
華奢な指が数を数えて曲げられる。
その動きに合わせて虚空から、彼女が身に纏う光と同じ色をした槍が生まれた。
男を刺し殺したものと合わせて全部で六本、広げた翼のように光の槍を携えて。
正体不明の存在は歩き出す。
……この集落にはまだ、生き残っている人間がいる。
生かしてはおけぬ、決して逃すものか。
「行こうか」
誰にともなく呟く声は、到底十歳の子どものものとは思えない。
例えるなら、それは。
──世界を統治する、偉大な王の声だ。
◇ ◇ ◇
寒い、と思って目を覚ます。
瞼を開ける前に、両手足がついているのを確認した。
手の指も足の指も全て揃っている、爪も剥がれていないし痛くない。
五体満足なのを確認してから目を開く。
朝だ、と寝ぼけた頭で認識した。
眠たくてたまらない、だけど仕事をしなくちゃ、生きていく権利を得る為に。
与えられている命令は何だっただろうかと、未来は考え込んだ。
いつもならすぐに思い出せるはずなのに、ちりちり、と頭の片隅が痛い。
何かが焼き切れてしまったようだ、おかしいなぁと思って、起き上がる為に床に手をつき濡れた感触に未来は驚いた。
「なに?」
気持ちの良いものではない、床についた右手を持ち上げて見ると掌が濡れている。
真っ赤な色に濡れている。
滴る赤を眺めていた未来は、血の臭いで我に返った。
見慣れた家の床で、未来は寝転がっていたのだ。
花瓶や家具が倒れていて、誰かが暴れ回った後みたいな部屋の中でひとりだけ。
自分だけが、血溜まりの中に倒れていた。
「わたしの血じゃ、ない……?」
『──ああ、そうだとも。
それはお前の血ではないよ、娘』
血溜まりの中心にいる未来に、声を掛ける者がいる。
聞き慣れない声に話しかけられて、未来は慌てて辺りを見回した。
聞こえて来たのは女の声だが、部屋の何処にも人影は見当たらない。
『状況が理解できていないようだから、まずは話をしてみないか。
私はお前を害する者ではない、そしてお前を害する人間たちは皆、私が排した』
「はいした……?」
落ち着いた声は耳の中に充満していく。
聞いたことはないはずだが、誰かの声に似ている気がして。
「あっ……」
未来は、光の塊が浮いているのを見た。
眩いほどの黄金色だ、不安定に形を変えながら光は少女の問いに答える。
『殺した、ということさ』
光は宙を泳いで、未来の視線を裏口の方へ誘導した。
壊された扉、家と地面の境に出来た血溜まりに見知った人間の死体があった。
体の真ん中から二つに裂かれた死体を、未来は呆然と見つめる。
未来を支配する世界の全てが、そこで死んでいた。
『お前を害する人間たちは皆、私が皆殺しにした』
美しく輝く星は言う。
次に聞こえたのはひゅぅと、風が吹くような音。
自分の喉から鳴った音だと未来は気付く、おかしな音、変な音。
生きている人間は何処にもいないと、騎士としての本能が未来に告げていた。
「流れ星……」
未来は自分の両手を見下ろす。
血塗れの手は確かに自分のものだ、夜空から落ちてきた、一条の星に触れた手。
目の前が真っ白になった後、陽光の中にいるような優しい夢を見ていた。
そんな感覚の名残りだけがある。
「……あなたは、だれ?」
不可思議すぎる存在との邂逅に戸惑いながら、時間が経つにつれて冷静になり、未来は黄金色の光に問い掛けた。
『私の名はオクティナ、お前たちが神と呼び恐れる存在と同一のものだ。
自分の名前と種族が神であること以外、記憶を失っていてね』
黄金色の光はすぅっと未来に近付いてきて、体の中へ入り込んで来る。
肌の上から浸透し心臓へと光は吸い込まれていった。
吃驚して、未来は思わず胸の辺りを抑えたがなんともない。
光と一つになった瞬間に、聞こえてくる声が誰に似ているか分かった。
自分だ、自分の声とそっくりなんだ。
もうひとりのわたしが、わたしに話しかけている。
『お前自身というわけではないよ。
私はあくまで体を借りているだけ』
考えていることが分かるのか、声は体の内側から答えてくる。
声が響き渡るたびに、淡い光を放つ自分のことを未来は見下ろしていた。
『魂だけで彷徨いながら、気紛れに騎士を助けて回っている、それが私だ。
必要であれば人も神も天使も襲うが……騎士だけは襲わない』
相手の考えていることが手に取るように分かるのは、どうやら黄金色の光──オクティナだけではないようだ。
未来もまた、オクティナの言うことに嘘がないと気付いていた。
何だか自分にもうひとり、重なっているような感じがする。
重なるそれがオクティナなのだとすれば、未来は自分のことのように、彼女の感情を理解することが出来た。
不可解で説明は出来ないが、確かに存在しているものとして未来は彼女を感じ取れる。
『お前は嬲り殺されていたかもしれないし、天使の餌になっていたかもしれなかった』
「……だから、みんなころした」
『私はお前を助けることにした。
助ける為にはこの虐殺が必要だった』
翡翠色の瞳を見開いて、未来は鸚鵡返しに言い慣れない言葉を口に出す。
「……たすける、たすけてくれた?」
『そうだとも。
助ける為に私はお前の魂と一つになった』
善悪どちらも感じられない声で、オクティナは未来に語って聞かせた。
『お前が眠れば私も眠る、お前が起きれば私も起きる。
怒りも憎しみも共にし、お前を害する全てを殺す』
『信用しろとは言わないし、出来るとも思えない、でもね、人間ではない娘よ。
私はお前に生きて欲しくて助けた、それだけは真実だよ』
未来は自分の中の、自分ではない存在に意識を向けてみる。
自分ではない何かは変形しながら、少女の心臓を守っている。
『お前は自由になった。
己が望みの為に生きて行くと良い』
オクティナが語る言葉の意味を飲み込むのには時間が掛かった。
幼い心が受け止められる範疇を軽々と超える出来事が、あまりに起こり過ぎている。
それきり黄金色の神様は黙って、未来は恐ろしいほど凪いでいる心境の中で考えた。
自分の頭で考えるのは苦手だ、自分が何をどうしたいか、とか分からない。
お母さんが死んだ、共に生きていた騎士たちも全員が死んだ。
そして集落に暮らしていた人間たちも皆、死んだ。
生き残った未来を助けてくれたという存在は実体の無い光の塊。
驚きとか悲しみがないわけではないと思う、何も感じていないわけでは決してない。
感情も自分の気持ちも考えも、遥か彼方にある。
辿り着くのにはたくさんの時間が必要で。
「オクティナ」
呼び掛けてみると、体の内側から黄金色の光が溢れ出した。
『なんだ』
「わたしはね、未来っていうんだ」
未来は、自分の内に宿ったらしい存在に自己紹介をする。
虚を衝かれたようにオクティナは黙ったが、そうかと声が返ってきた。
『未来か』
「うん、それでね。
……悲しむべきなのか怒るべきなのか、それとも喜ぶべきなのか分からないんだ」
未来は一生懸命考えて、時間を掛けて、自分が言いたい言葉を探す。
頭の中から言葉を拾い上げるのは大変なことだ、でもその大変を乗り越えた先に何かがある気がして。
「分かるのは、あなたが……オクティナが嘘をついていないということ」
綺麗に重なりすぎた魂は、身に宿る存在の真意を嘘偽りなく伝えてくる。
言語化することが出来ないような深層で、未来はオクティナの存在を受け入れた。
「わたしは、オクティナを信じるよ」
未来の言葉を聞いたオクティナは、数秒の間、黙ってから返答する。
『私の言ったことは信じ難いものだろう。
……助けると同時に奪ったものもあるはずだ、そんな私をなぜ信じられる?』
なぜ、何故か。
理由を聞かれると困ってしまう、分からないものの中からまた正解を見つけなければ。
口籠もって、息を吸ったり吐いたりしても未来の頭には上手く言葉が浮かばない。
なぜ信じると決めたのか。
それは、それは──。
「信じてみたいと思ったから」
結局、理由になっているような、いないような、曖昧な言葉が未来の口から溢れ出た。
強いて理由を挙げるなら直感だ。
誰も自分の心臓を疑わないように、未来はオクティナを信じると決めた。
胸に手を当てると、心臓の脈打つ音が二つ重なっているのが分かる。
それは未来にとって不快なことではなくて、あるべき場所に大切なものが戻って来たような感覚だった。
真実も正解も自分のことも何一つ、分からない未来は、慎重に言葉を選び出し溢れる光に伝える。
「助けてくれて、ありがとう」
オクティナはもしかしたら未来自身よりも、彼女が何を考えているのか分かるのかもしれない。
脈絡のない曖昧な言葉を聞き届け、オクティナは初めて感情らしきものを表す。
『こちらこそ、信じてくれてありがとう。
──お前の魂は私が守るよ』
照れているような、笑っているような、嬉しそうな声だった。
その日、未来には新しい友達が出来た。
記憶も体も失くし魂だけになった神様、オクティナの光は未来の心臓に溶けている。
誰かに説明のしようもなければ、正体も未確定な存在である彼女と未来は。
長い間、共に生きていくことになる。
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