2.「ある冬の日」中


 真冬の川にバケツを入れて水を汲む。


 同じことを繰り返すだけの仕事は未来の気分を落ち着かせた。

 小屋まで戻って、新しいバケツを二つ持ってまた川に行く。


 昨日使われて空になったバケツの分だけ、新しく水を汲んで小屋に足していくだけの作業は単純で、未来を思考の渦に落とした。


 ……昨夜聞いた音と光景は、未来の脳から離れてはくれない。

 お母さんにどんな顔をして会えば良いのか分からない、未来は困り果てた。


 お母さんは男たちに逆らえないのだ。

 未来を含めた騎士の子どもに優しくしてくれる人間だけど、助けてはくれない。

 せめてこれくらいは、と思ってお母さんは未来たちに食べ物をくれるのだろうか。

 殴られたり、蹴られたりするのを止めることが出来ない代わりにと。


 未来は自分が今まで、どんな気持ちでお母さんと話していたのか分からなくなった。

 考えている内に午後になって、空のバケツもなくなって仕事は終わる。


 何もすることがなくなってしまった。

 小屋の前で立ち尽くす、そんな未来に駆け寄る者がひとりいた。


「ここにいたんだ未来、大変なんだよ」


 呼び声の主は、背の高い騎士の少年だ。

 年長な彼は、過去に未来を人間たちの暴力から庇ってくれたことがある。

 未来は少年の慌てた様子に首を傾げた。


「ひなた、どうしたの?」

「……さやが、戻ってきたんだけど」


 答えは酷く言い難そうに告げられる。

 とにかく来てと、ひなたに言われて未来は動き出したけど。


 嫌だ、と思った。

 まだ状況も理解できていないのに。


 


 ◇ ◇ ◇



「やっぱり北門の辺りに出たか、今回はコイツが役に立ったが……キリがねえな」



 ひなたと共に集落の広場へと未来は駆け込む、辺りには血の臭いが充満していた。

 遠巻きから見ている子どもたち、腕を組んで口々に文句混じりの言葉を交わし合う男たち、怯えている女たち。


 お母さんが顔色を更に悪くして、地面に膝をついている。

 その腕の中には、血塗れの子どもがいた。


 いつも、顔と髪を隠している布切れが真っ赤に染まっている。

 辛うじて生きている、そんな様子のさやを見て未来は膝から崩れ落ちそうになった。


 まだ、胸元の石は灯っている。

 だから大丈夫だと自分に言い聞かせて、未来は何とか両足で立つ。


 男の一人が、未来の目立つ金髪を見つけて口を開いた。


「……おい、そこの。

 お前が次から北門の見張りに行け」


 男の指は未来のことを間違いなく指し示している。

 返事も出来ずに呆然と立ち尽くしていると、未来に水運びを命じた男が声を上げた。


「ダメダメ、そいつは能無しなんだ。

 役になんか立ちゃしねえよ」

「あー、そうだったそうだった。

 おいドグ、いつまでコイツを置いておく気だ、能無しなんざ飼う余裕はねえだろ」



 ドグ──未来に命令を下し、子どもたちを攫ってきて、この集落を取り纏める存在でもある男は吐き捨てるように言った。


「肉壁は一つでも多いほうがいいだろ。

 それに捨てるにしたって面倒だ、騎士は死に難いから殺すのも手間だし、かといって下手に逃して「人類圏」の軍人どもにこの場所がバレるのも避けたい」


 男たちを黙らせて、ドグは遠巻きに広場を見ている子どもたちの方を一瞥する。


「そこのお前とお前、来い。

 今夜からお前らで北門を見張れ」


 反論の声は何処からも上がらなかった。




「おい能無し、コイツの面倒を見ろ。

 まだ死んじゃいねぇ、炎の神技は役に立つ……いつもの仕事も忘れるなよ」


 一方的に言い捨てて、未来が返事をする前にドグは去っていった。

 命令に従うために、未来は震える足を動かしてさやの方に近寄って行く。


 微かな息を感じられた、さやは確かに生きてはいる、お母さんが青白い顔で言った。


「……うちに運びましょう、手伝ってくれる?」


 お母さんと協力して、未来はさやの体を抱え上げた。






 お母さんの家の中、部屋の脇にさやを寝かせる。

 幼い体は右肩から裂けて、左の脇腹まで走った傷口は黒くなっていた。

 血は止まり始めているようだけど、裂傷が塞がる気配はない、未来は薄く目を開いたさやに話しかけた。


「治せないの?」

「……やってはいるんだけど、ね」


 さやは苦しそうに答え、笑っていた。

 諦めているような、何か察しているような、そんな笑顔。


 騎士の体が備える再生能力は千切れた腕すら生やす、本来ならこんな傷なんてことない。

 上手く再生出来ていないということは、傷を蝕むこの黒いものが悪いのだろうか。

 天使に襲われたせいでこうなったのか、別の要因があるのか、未来には判断することが出来なかった。

 

 本や噂でしか未来は天使も神も知らない、実物と相対したことがないからだ。

 能無しだから戦いから逃げてばかりいた、脅威である事は分かっていても実を言えば殆ど、神や天使の知識を未来は持たなかった。

 騎士のくせに、いつか言われた言葉が蘇る。


「ねえ、未来」

「なぁに?」


 さやの呼び声に未来は応えた。

 血塗れの手が伸びてくる、反射的に握り返せばまた、ねえと聞こえる。


「いっしょに、いてよ」


 寂しそうな、泣きそうな声に懇願されて、未来は頷いた。

 一緒にいるよ、そういう命令だもの、口にしようとした言葉は何故か出なかった。


 一緒にいてあげたいと、思ったのかもしれない。

 自分が何を考えているのか、未来には良く分からない。



 その日の夜、お母さんの家が男たちの溜まり場になることはなかった。

 未来は約束通りさやの側にいて、隣で眠りにつき、時々起きて水を飲ませる。

 水はお母さんが分けてくれた。


 夜が過ぎて朝になって。

 さやが息をしていることに安堵して、未来は起き上がる。


「水を汲みに行くね」


 語りかけてもさやからの返事はない、未来は音を立てないように家を出た。




 真冬の川は白い、そして夏よりも底が見えない。

 いつものように川と小屋とを往復しながら、未来は吹き荒ぶ風に震えた。


 さやが元気になるためにはどうしたら良いのか、ずっと考えている。

 あの傷を治すことは出来ないか、どんな傷でも治癒出来る神技が自分に備わっていたらよかったのに。


 能無しの未来に出来る事なんてない、誰も救えないのなら何故、自分は生まれて来たのだろう。


 慣れた作業の中で、いつもより考え事をしすぎていたのが原因だ。

 川の中からバケツを持ち上げた時、河原の上に置いていた足が滑った。


 悲鳴をあげる間も無く、未来は川に落ちる。


 もがく体を必死になって抑え、未来は全身を脱力させて何とか水面に顔を出した。

 河原に這い上がり、身を包み込む寒さに頭がおかしくなりそうになる。


 ……凍え死んだりはしない、凍傷ならすぐに治る、だが寒いものは寒い。


 未来は夢中になって胸元を探った。

 さやがくれた、炎の石を取り出して。


「あれ?」


 未来は、何の変哲もないただの石を眺めて呟いた。

 全身の感覚がなかった、思考が一つの事柄に支配されて、目は石に釘付けになった。


 あたたかく、ない。

 何にも感じない。


 それがどういうことか、分かる前に。

 未来はずぶ濡れのまま走り出す。



 ◇ ◇ ◇



 普段なら人目を忍んで歩く集落のど真ん中を駆け抜けて、大きな家の中に転がり込む。


 お母さんはいなかった、代わりに部屋の隅でさやが眠っている、朝と同じように。


 誰かが来た形跡もない、人間たちは死にかかけのさやを放っておいてくれたのだ、それに安堵して未来はへたり込んだ。

 何だ、眠っているじゃないか。

 さやはちゃんとそこにいる。


「……さや?」


 ほんとうに、そうなんだろうか。


 呼び掛けに答えはない、寝ているんだから仕方ない。

 未来は床を這いずる様にしてさやに近付く、足に力が入らない、寒い。


「さや」


 さやはピクリとも動かない、向こう側に顔が向いていて見えない。

 だから未来はさやの片側から、物言わぬ顔を覗き込んで。



「………………」


 声も、出なかった。


 誰もいない部屋で、独りぼっちで目を見開いて、さやは死んでいた。

 さやが未来にくれた灯りは跡形もなく消えて、奇跡みたいだと思っていた炎は、彼女の命を再び燃やしてはくれない。


 声も叫びも涙も出なかった。

 ただ座り込んで、未来は死んだ友達のことを見ていた。


 どうすればよかったんだろう。

 どうしたらいいんだろう。

 なんでこんなことに。


 頭の中を色んな言葉が埋めて行く、混乱した思考を踏みつける様な足音が背後から響く。


「なんだ、死んだのか?」


 告げられた声には答えられなかった。


 未来は目を見開いて呆然としたまま、耳に入る命令を聞く。


「騎士の死体は川に流すんだっけ、ちょうどいいからお前がいけよ。

 手早くな……ったく」



 小汚えなぁ。


 吐き捨てられた声に未来は何にも言えない、なんでこんなにも、この世界は。





「はぁ……はぁ……!!」



 今にも雪が降りそうな空の下で、未来は歩く、背中に友達を背負って歩く。

 未来の背丈では足を引きずるようになってしまって、申し訳なくて仕方がない。


 川まで歩く道中でやっと、涙が出た。

 何で泣いているんだろうと頭の何処かで自分が言う。


 命令だから従って、命令を聞いていればご飯が貰える、それがこの世界の全て。

 意味も分からず泣きながら、未来は歩く。


 空を名も知らぬ鳥が飛んで行った、自由な鳥が飛んで行く。

 なんで、この世界はこんなにも厳しいのだろう、美しいくせに。


 見慣れた川へと辿り着いた時には、辺りは薄暗闇に包まれていた。

 寒い寒い夜が来る、ひとりぼっちの夜が。


「ごめんなさい」


 誰に対してか分からない、誰にも届かない謝罪を繰り返しながら未来は、河原に友達の死体を降ろした。


 騎士の死体は腐らない、川に流された死体はいつかまた、別の魂になってこの惑星に生まれてくる。


 万能嫌いの青い惑星、人類の生きる箱庭に。


「ごめん、ね」


 一緒にいてあげられなかった。

 死体に縋って泣き喚き、未来は胸元から石を取り出す。

 何の変哲もない石、かつては優しさが込められていた石。


 せめてと思ってさやの掌に握らせた、ちゃんとまた彼女の命が巡りますように。

 次に生まれてくる場所が、こんな世界じゃありませんように。


 幼い少女の死体は冬の川に沈んだ。

 他の誰でもない、わたしが、そうした。


 その日、未来の内側で何か壊れた。


 きっと心を形作っていた何か。

 それは音を立て粉々に砕けて落ちた、二度と拾い上げることが出来ない場所にまで。

 


 ◇ ◇ ◇




「未来、おはよう」


 今日も変わらず小屋に水の入ったバケツを運び込んでいたら、ひなたがやってきた。

 寒さで鼻を赤くした未来は、優しい声に笑顔を返す。


「おはよう、ひなた。

 どうしたの?」

「これから仕事なんだ、北門の見張り」


 ああ、と未来は理解して俯いた。

 ひなたは安心させるように笑いながら、未来に対して声を掛ける。


「僕はそれなりに天使と戦ったことがあるし、大丈夫だよ。

 ……他のみんなは、残念だったけど」


 さやが死んだ後、十名いた子どもたちは未来を入れて四名にまで減った。

 皆、自分の番がいつくるのかと怯えている。

 未来はずっと思考を止めて、命じられた通り水運びを続けていた。

 悲しいとか辛いとか、今の未来にはよく分からなかった。


 ひなたは顔を上げられないでいる未来のことを元気付けようとしてくれる。


「大丈夫、平和になるよ。

 いつか必ず、良い方に行くから」


 掛けられた言葉はまるで祈りのようで、やっぱり未来は顔を上げられない。

 ひなたはそれだけ言って、歩いて行った。


 戻れない道を怯えながら歩いて行く、その背中を見送ることしか出来ない。


 いつか、わたしは最後のひとりになる。




 お母さんの家の裏口、仕事が終わるといつの間にか此処に来てしまう。

 寂しいのだろうか、やっぱり未来は自分のことが分からない。


 最近は分からない方が良いんじゃないかとすら思う、感情が無くても命令さえあれば騎士は生きて行けるんだから。


 自分の頭で考えるのがもっと苦手になった、考えたって何になるのだ、わたしたちには決して優しくなどないこの世界で。


 冬の川に沈む死体を思い出す、あれはいつかの自分でもあるのだろう。


 膝を抱えて何もしないでいると、裏口の扉が開く音がした。

 びくりと体を揺らすことも出来ず、緩慢に未来は顔を上げる。


 見上げた先にはお母さんが立っていた、未来の姿を見て笑う顔色は、今日も悪い。


「未来、来たんだね。

 ……ほらこれ、一緒に食べよう?」



 差し出されたのは見慣れた紙の包みだ、ぼんやりそれを眺める未来の横にお母さんは座った。


「こないだ、誕生日だったでしょう?

 過ぎちゃってごめんね」


「十歳、おめでとう未来」


 お母さんが言っていることを理解するのに時間が掛かる。

 誕生日、そういえばそうだったかもしれない、生まれてからずっと独りだった未来を両親と繋ぐ唯一のもの。


 誕生日って祝うものだったんだ。


 何の動きも見せない未来の前で、お母さんは包みを開いた。

 中にはいつものパン、その表面に掛けられているのは……砂糖だ、甘い香りがする。

 この集落で砂糖なんて見たことがない、どうやって手に入れたのだろう。


 未来が考える間にも、お母さんはパンを二つに割って、大きな方を未来に渡した。


「いただきます、ほら食べて?」


 明るいお母さんの声に促されて、未来は小さく口を開けてパンを齧る。

 いつもは味がしない、未来の誕生日を祝う為に甘くなったパン。


 食べる、食べる、生きる。


 パンが小さくなればなるほど、意味の分からない涙が止まらなくて仕方がない。

 お母さんが優しく笑って、未来の頭を撫でてくれる。


「ねえ、未来。

 こっちを見てごらん」


 言われた通り、涙でびしょびしょの顔をお母さんに向けた。

 濡れて宝石みたいに輝く未来の、翡翠色の瞳を見つめてお母さんは言った。


「未来は綺麗ねぇ、大好きよ」


 声は優しくて、優しくて。

 どうしたら良い、一体どうしたら良いんだ、と未来は泣いた。


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