凧揚げ




「牢屋で会うなんて運命ですね」


 木目のシールを貼った鉄格子越しに向かい合う相手に、空笑いとともに告げた直後。

 とてつもない速力を以て落下してきたナニカが、無念ながら砕け散る事も霧散する事も叶わず、周辺に充満し続けた。


 敢えてそのナニカに名を付けるとしたら、羞恥心、だろうか。

 言を発した寿は顔と言わず全身、さらには全身を支える地さえ茹らせながらも、絃から視線を外しはしなかった。








 口説いて来い。


 日付盗賊改に連れて行かれた絃と入れ替わるようにして主の前に立ち、説明を求めんと口を開いたその瞬間。言を封じるように命じられた。


 絃を口説いて来い。


 真摯な態度で、真っ直ぐに命じられた言葉。



『俺の直感を信じて、こそこそ動くよりも。絃に直接訊け。そんで、真実をもらってこい』



 承知致しました。

 と、間髪入れずに応えられなかったのは、自信がなかったから。

 覚悟がなかったから。

 絃から真実をもらえるとしたら、眼前の主しかいないと、決めつけていた。

 主が連れてきたのだ。当然、主がどうにかするだろう。無論、身命を賭して補佐は努める。けれど、真正面から、向かい合うのは、主だと決めつけていた。



『俺の命令に従えないのか?』



 サァッと顔色が変わる。

 落胆させたわけではない。純粋なる疑問。するかしないかを訊いているだけ。



(何をしている?)



 命じられたら、逡巡なく、何が何でも遂行するべし。

 そう決めていた。この人に出会った時から。



 それなのに、



(この体たらくは何だ?)



 是と言え。早く。はやく!

 心が言っている。身体が言っている。早くはやくと急き立てるのに。

 口が開いたまま、動かない。喉奥から口内へと言葉が続かない。



(僕は、)



 何を戸惑っている?

 戸惑う必要性がどこにある?



『寿』



 負の音を含んでいるわけではなくても。

 向かい合う主の顔が、とても優しく、とても嬉しそうだったとしても。

 身体が震える。



『寿。怖いだろう』



 怖い。怖くてたまらない。



『全部を丸ごと、もしかしたら背負わなければならないかもしれない。そりゃあ、慄くわ』



 違う。違わない。

 絃さんを背負う事態に陥るかもしれない事は怖い。

 絃さんの真実を知るよりも前に、己のそれを知ってしまった事が。今になって知らされた事が、恥ずかしい。情けない。絶望をした。



 己が中枢に据えていた主に、よりにもよって。

 よりにもよって、寄りかかっていた事実に、気づいてしまった。

 支えるべきだったのに、支えられていたどころか、甘えていたという事実。

 主ならば解決できる。解決できない事はない。

 主の言が己にとってはすべてだという思考は今でも絶対的で普遍的なもの。


 それでも、だからこそ、思考は止めるべきではなかった。

 主より勝るとも劣らない思考を思いつくわけはない。だからといって、思考を止めていい理由にはならなかった。

 道具だからと、ある程度を過ぎれば思考を停止していた。主の答えに縋ろうとしていた。




 愚かな。




 道具であればこそ、思考を停止させてはいけなかったのだ。

 真っ青だった顔色が羞恥で真っ赤に変化していくのが分かる。

 あまりの不甲斐なさに、土下座をして、お詫びをしなければいけないのに。


 お詫びをして、今度こそ主の期待に応えたいのに、

 その姿さえ具に想像できるのに、


 まだ言葉が出てこない。


 どうしても。



 どうしても、



 訊けるか訊けないかの問題ではない。

 踏み込もうと決断した瞬間。心が変わってしまうような気がしてならないから。

 揺らぐはずがないのに、そうではない己を想像してしまう。



 怖い、



 天秤にかけてしまいそうな己が。

 どうして、そんな思考が生まれてくるのか。

 恋情だったのならば、切り捨てていたはず。


 ならば。


 それならば、別の感情を彼女に持ってしまったのか。彼女に対して発生させてしまったのか。

 それは何だ?

 原因を追究して早く切り捨てなければいけない。

 早くはやくハヤク。




『寿』


 申し訳ございません。

 大らかなる声で、お姿で接してくださる主に、お詫びしなければいけないのに。

 それさえも。それすらできないなんて。






『…おまえは本当に真面目で不器用なやつだな』



 尚斗は寿の両頬に手を添えて、次にはもみくちゃに撫で回した。快活に笑った。



『なあ。俺もまだ答えは出せてない。どうして絃の風船が気になるのか。分からない。おまえも今無理くりに答えを出そうとしなくていい。寿。俺はおまえに。おまえだけに、背負ってほしいと思っているんじゃない。背負うとしたら俺も一緒だ』



 悪かった。尚斗は眉尻を下げた。



『悪かった。けど、やっぱり、最初に踏み込むとしたら、おまえがいいと思った。真っ直ぐなおまえがいいと思った。俺は、ひねくれているからな。多分、絃には、都合がいいと思うんだが。それじゃあ、だめだと思う……悪い。巧い言葉が見つからん』



 寿は小さく頭を振った。尚斗は腰をかがめて、寿と自分の額をそっと触れさせた。



『俺はおまえの主で、絃の雇い主だ。連れてきた理由はどうであれ、俺は絃にも笑っていてほしい。なあ、寿。あいつの本当の笑顔、見たくないか?あんな薄っぺらい笑顔を見ていたいか?』



 声を出したい。声を出したくない。逡巡を察したのだろう。額にわずかな鈍痛を感じる。


 寿は長らく開いていた口を漸く動かした。唇同士を柔く結ばせて、口を小さく開いた。二度、三度と繰り返し。ようようと、狭められた空間から、言葉を表に出した。


 訊きづらいかもしれないという憂慮は、必要なかった。



 どこにも、



 そう。どこにも。




『申し訳ございません……僕は、』








 この刻に僕は僕自身に誓った。

 遠い未来。いつしか、眼前の人を人生の伴侶にと願う日が来るとしても。

 その想いを誰にも伝えはしない。と、

 摘み取るわけでも、見て見ぬふりをするわけでもない。

 罰でも等価交換でもない。

 ただ単に悟っただけ。









『笹賀家絃の笑顔が見たいので、』



 絃に愛の告白をする。

 言葉がなくとも、その吹っ切れた表情から察せられると思ったのだが。



『真実を訊いてきます』



 あ、これあかんやつ。

 吹っ切れた方向が思っていたのとまるで逆方向。そっちじゃないこっちこっち。待ってその矢印こっち向いてー。必死に心中で説得しようとしたってむだむだ。当たり前。だって、心の中だもの。聞こえているわけないもの。


 あ、うん。訊いてきて。魂が抜けたように空の声で、尚斗がそう告げる。そうですかでは私が案内しますと微笑み、自分に了承を求めてきた銀哉の心の声が尚斗には具に分かった。

 莫迦主、である。

 その単語に負の怨念がどれほど籠められている事か。

 尚斗はゾッと背筋を凍らせながらも、素直に認めて、これから待ち構えているであろう銀哉の仕打ちにも逃げずに受け入れようと決意した。











 端を発した発言。

 場を和ませる要素は水泡に帰すも、他愛もない問題。と、誤魔化しながら、寿は熱を持ったまま、真正面から絃に尋ねた。


 あなたは神に選ばれし者ですか、と。


 一度、目を伏せられた事により視線は外され、再び交わる。


 知らないとの答えを以て。


 感情は生まれない。ただ、途切れたと、寿は思い、そうですかと微笑んだ。

 瞬間、全身に鳥肌が立ったかと思えば、絃の眼前に人が佇んでいた。













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