『罪紡ぎ編』

 いったい僕は、この瞳をどこで見たんだろうか……記憶の底に埋もれていることは分かるが、どうしても思い出せない。だから、余計に気になった。まるで、大事なものを入れたタイムカプセルが、なかなか掘り当てられずにいるみたいだ……。

 すると口元に、柔らかい生地が触れる感触。口を拭ってくれているようだ。あんなことをした手とは思えないほどに、優しい触れ方だった。そう言えば、唇を噛みちぎるくらいに、噛みしめていたんだっけ。

 拭き終えた沙羅は、その淡い色ガラスのような瞳を閉じる。そして、息を大きく吸ったようで、胸はふわりと膨らんだ。その様は、これから大きな気持ちを、吐き出そうとしているかのように見えた。

「……あれからね。漣君に認めてもらえるように、すっごく頑張ったんだよ。だから……驚いて欲しかったし、変わった私を褒めて欲しかったの。

 本当の意味で、私の気持ちに気付いて……好きになって欲しかったんだ」

 なぜそこまで僕を。そんな好かれるような、目立ったことはしていないはずなのに。

 沙羅にとって、僕はいったい誰なんだ。そして、僕にとって沙羅は……いったい誰なんだ。

「覚えてないかな。校庭の砂場で救ってくれた、あの日の事……私は今まで、一度も思い出さなかった日が無かったよ。

 私の目を褒めてくれたのだって、凄く嬉しくて……今でも昨日の事みたいに、しっかり思い出せるの……」

 時間が消失したような沈黙のあと、徐に瞼が開かれる。

 再び覗かせた淡いガラス玉は、僕の死んだような顔、そして静かに生きていた小さな記憶を写し込んでいた。

 思い出した……どこで、この瞳を見たのか。小学生の時だ。この瞳は、砂場で埋められていた、あの子の瞳だ。沙羅は、あの子なのか……?

「あの日、汚れた私を見放さないで、手を握って救い出してくれたんだよ……こうやって」

 手をギュっと、力強くも優しく握られた。

 そうだ……たしかに、そうやって救い出した記憶がある。沙羅は、あの子だったんだ。

 セピアの記憶が緩やかに色づき、タイムラプスのように再生されていく……。

 当時の僕は、学校が終わると一度家に帰り、その後すぐに数人の友人と校庭で遊ぶのが日課だった。そこで学童に通っている子が、イジメられているところに遭遇したんだ。それが沙羅だったとは……。

 当時の沙羅は今と全く異なり、髪はボサッとして表情は硬く、とても根暗な印象だった。服もボロっとして、だらしなく……たぶん、いくらお洒落をしたところで汚されてしまうから、あんな服だったんだろう。

 縄跳びを鞭のように当てられようが、頭に泥を塗りたくられようが、ホースで水をかけられようが、砂場で埋められてボールの的にさらされようが……沙羅は毎日毎日、子供に遊ばれる人形さながらに無気力で受け入れていた。それも、イジメられる立場になってからは、よく分かる心境だ。

 僕も周囲と同じく、沙羅に対するイジメを見て見ぬふりで、しばらくの間はやり過ごしていたのだが……あの日、そんな光景にとうとう嫌気がさした。だから僕は、止めに入ることを決めた。年頃のせいだろう、格好をつけたかったのもあったと思う。

 沙羅は、十人くらいが取り囲む砂場で、絶望に打ちひしがれたような姿でいた……そう、ちょうど今の僕みたいな感じで。

 僕が止めに入ったことで、すぐに言い合いが始まり喧嘩に発展して……僕は、砂場から引き起こした沙羅の手を握って庇っていたんだ。さっき握ってくれたみたいな感じで。あの頃は、喧嘩する勇気もあったんだな……。

「それだけじゃないんだよ。あの日、ずっと傍で励ましてくれてたんだ。それからも、度々気にかけてくれたの……。

 本当に漣君、かっこよかったんだよ。私ね、一生そばにいたいって思った。子供ながらに、お嫁さんになりたいって思っちゃったもん。

 不器用な私は結局、何も言えなかったし……うまく気持ち、伝えられなかったけどね。子供の頃のわたしって、すごく引っ込み思案で、口下手だったからさ……」

 僕の指を撫ぜる動きが、やや忙しなくなった。

 こうしていると、沙羅の気持ちがよく伝わってくる気がする。間違っていなければ、その気持ちは月並みな女の子が持つ恋心に同じだ。

「でも……今度は、救ってくれた漣君がイジメられるようになっちゃって。全部、私のせいだって思って……すっごく後悔したの。

 自分がイジメられている時より、全然苦しくって辛くって……それで、なかなか学校に行けなくなっちゃってさ。わたし酷いよね。助けておいてもらって、最低……。

 それだけが……ずっと、心残りだったんだ。ごめんね漣君……」

 ぽつぽつと降ってくる涙は、あの日の雨を彷彿とさせてきた。

 喧嘩が始まった直後、急に大粒の雨が降ってきたんだ。今こうして、降っているような……。

 それからすぐ本降りになった。それに乗じて、僕は沙羅の手を引っ張って学校を抜け出したんだ。そして、近くの駐車場で雨宿りをして、沙羅を必死に励まし続けた。しかし酷いものだった。沙羅の髪の毛には、乾いた泥が絡まってて……そうだ、結構取るのに苦労したんだよな。

 その後、伏し目がちだった目を、ようやっと僕に向けてくれて……その瞳は、砂場で見せていたような光を失ったものではなく、いま目の前にあるものと同じ、儚げな希望を宿した、淡いガラス玉のようなものだった。それをすごく綺麗に感じたんだ……その時に、たぶん僕は褒めたのだろう。僕は沙羅が、好きだったのだろうか……?

 それからも、何回か放課後に沙羅と一緒に過ごした。でも、沙羅は本当に口下手で、あまり話しをしようとしなかった。頷いたりするだけで……目線は、あれ以来ほとんど合わせてくれず。だから、名前すら知らなかった。その割に、僕の後をずっとついて来るようになって……。

 そんな矢先、僕にイジメがスイッチしたことで、沙羅と一緒にいれるどころじゃなくなったんだ。そして沙羅も、なぜか姿を消してしまって……こうして、どこのクラスなのかもわからない、名も無き女の子という記憶が完結した。

 当時は、転校でもしたのかと思っていた。まさか自責の念に苛まれていたからだったとは……。

「あの時はさ、何もしてあげられなくって……ほんとに、本当にごめんね……」

 鼻を啜る音が、ここまで物悲しく聞こえたことは無い。その音だけでも、どれだけの悔恨や哀情を知るには十分だった。

 沙羅は、あの日からそんな気持ちと共に、ずっと僕を忘れないでいたのか……処刑教室を設けた人物にしては、健気すぎる。

「……それからはさ、あっという間に卒業になっちゃって。最後まで、漣君にお礼も言えないで終わっちゃってさ……。

 だからね……だいぶ遅いけど、本当にありがとう。漣君……」

 その顔は五年前の沙羅と、まったく似ても似つかない。ただ、瞳だけは変わっていなかったようだ。

 沙羅は握っている手とは別の手で、自分の目元に手をやり、そのまま僕の頬に落ちてきた露を掃うと、一拍置いて話を続けた。

「中学校が、学区の違いでバラバラになっちゃうって分かった時は、本当に悔しかったんだよね……。

 だからせめてね、中学校では漣君みたいになろうって努力したんだ。認めてもらえるように、強くならないとって……必死に頑張ったの。

 高校は、一緒のところに行くって決めてたから……わたし時々、学校休んで漣君の中学校の前で待ってたんだよ。それで、こっそりついていって、家がどこにあるのかも、どこの塾に通ってるのかも知ったの。

 その後は一緒の塾に入ってさ。でもクラスは、一緒じゃなかったんだけどね。話しかける勇気は出なくって、高校に入ったら絶対に話しかけるぞって、決心だけしたの。

 漣君が目指す高校が分かってからは、私も一緒に必死になって勉強してたんだよ」

 愛の大きさを伝えたいのだろう。内容はさておき、あまりにも純粋で自然な仕草、そして物言いだった。まるで、プラトニックな愛の告白を受けているみたいだ。

 あの日から沙羅は、僕の後ろをずっとついてきていたんだ。当時と変わらずに……。

 どうしてそうまでして。僕が与えた影響は、そこまで大きかったのか? いや……大きいのか。だって高校に入ってから、沙羅や啓介が僕に与えた影響は計り知れないほど、大きかったんだから。

 僕は、よく知っている筈じゃないか。絶望の底で手を差し伸べられると、その手を放したくなくなることを……。

「そうして頑張った自分へのご褒美だと思ったよ。一緒のクラスに入れるなんて。本当に嬉しかった、夢みたいだった。やっと……やっとだよ。憧れの人と、同じ場所にいれるって感動したの……。

 それで勇気出して、話しかけに行ったんだ。でも、漣君は塞ぎ込んじゃってる感じで……私のことは、まったく覚えてなかったよね。

 別にね、それでも良かったの。ちょっぴり安心した自分もいてさ。

 やっぱり自分から、言い出すのは怖くなって。だから、気付いてくれるのを待とうかなって思って……」

 見違えるほど如才ない人となった沙羅をどうして分かるのか……こんなの、気付くわけがない。でもある意味、見違えたのは僕も同じか。立場が逆転していたなんて思いもしなかった……。


「それに覚えてなかった人はね、漣君だけじゃないんだよ。

 町田さんも覚えてなかったんだ。小学校で私をスケープゴートにして、イジメてきたのに……何も覚えてなかったの、酷いよね。それは、許せなかった。傷つけておいて、何も気にすることなく過ごしているなんて、そんなの許せないよ」

 一瞬、僕の手を握る力が強まったが、すぐに緩められた。

「それでもね……大好きな漣君と一緒にいれるなら、別に町田さんなんて、どうでもいいって思えたの。

 漣君、話すうちに私のこと頼ってくれて、話しかけてくれるようになったでしょ? 私が必要とされてるって感じて、すっごく嬉しかったんだよ……だからね、その幸せの方が、とっても大きかったの。私だけが、漣君を分かってあげられるって感じで……。

 だから自分の個人的な恨みなんて、全然どうでもよかったの」

 入学直後、けんもほろろな態度でいた僕を見限らず、側にいてくれた理由がこういうことだったとは……。

 いま思えば、男子の中で下の名前で呼ばれていたのは、僕だけだ。度々、目にゴミが入ったから見て欲しいと頼んできたこともあった。それに、去年のクリスマスでは、四つ葉のデザインのマフラーを……今年のバレンタインでは、四葉のクローバーをあしらったクッキーを貰った。これらは全て、気付いて欲しいサインだったのだろうか……。

 この時点で、沙羅の気持ちに気付くことができていれば、或いは違う方に未来が動いたのだろうか……。

 すると、僕の手を柔く握っていた手が、また力み始めた。

「でもそんな時にさ。青山君とか愛理……酷いよね。私の大切な漣君を傷つけようとするからさ……本当に許せなかったの。

 だからね、私が助けないとって。今度こそ絶対に、私が漣君を守らなきゃって思ったんだ。

 でも、あの二人は単純で本当に楽だった。何すれば機嫌よくなるか、気に入ってもらえるか、すぐ分かったの……ふふっ」

 五年の歳月を経て、恩返しを受けていたわけか……。

 それにしても、そんなに大事そうに僕を抱き寄せなくとも、どこにも行きやしないし、行けないのに。

「大橋君も、いつも友達面して私たちの時間を邪魔してきてさ……漣君のこと考えてないって、最初から分かってたもん。漣君を騙してたんだよ、酷いよね。人の皮を被った悪魔だよ。

 でもね。漣君を守れるなら、使う方が良いのかなって思って……我慢してたんだ。ずっと、ずっと、ずっと……漣君のためだって、言い聞かせてたの……ふふっ、最後お似合いの死に方だったよね」

 手が伝えてくる温もりとは真逆の冷めきった感情が、声色と口元から感じとれた。さっきの行いを見れば、どれだけ我慢していたか、恨んでいたかを察するのは容易なことだが……。

「それにさ……真理亜も酷いよ。漣君のために何も頑張ってないのに、漣君の気持ちを奪おうとするんだもん。許せなかった……真理亜に、そんな権利無いのに……。

 私の方が、真理亜よりずっと本気で考えてあげられるし、ずっとずっといっぱい愛してあげられるの……今までだってそうだったし、これからもそうなの……。

 実際に、クラスで青山君たちから守ってくれなかったし。そんな真理亜は、漣君に相応しくない。漣君の気持ちを弄んだんだよ、真理亜は……酷いよね」

 沙羅に、神保さんを好きだということは話していない。啓介から聞いたのだろうか……いや、勘か。沙羅は、僕の気持ちを見透かしたように、言葉をかけてくることがある。きっと僕の心は、手玉にとるように分かっていたのだろう。

「梶ヶ谷君だってそう。漣君には要らない。だって、子供産んであげられないでしょ。私は、ちゃんと生んであげられるもん……ううん、生みたいの。生むことが出来ない梶ヶ谷君に、漣君を好きになる資格なんてないんだよ……」

 先ほどから、度を超えた言葉が次々と羅列されていくものの、僕の感情はどこかに居然きょぜんとしたままだった。

 僕は幸せ者なのか、不幸せ者なのか……どっちなんだろうか。そんな静観した思案だけが、ただ存在した。まるで、ゲームをプレイしているように。しかし、ただのゲームじゃない。結末の見えている鬱ゲーだ。僕は、エンディングの後に漂う虚無感を味わうのだろうか。いや、それすらも味わえないのだろうな。

「みんな消えちゃえばいいのにって、いっつも思ってたんだ。そしたらね、この処刑アプリに出会ったの。

 そこには、恨んでいる人を処刑するチャンスだって……最後まで生き残れれば、残った一人を自分のモノにできるって書いてあったんだ。

 そこでね、わたし閃いたの。もちろん恨んでいるわけじゃないけど、漣君を招いたら助けてあげられるんじゃって……これ以上、苦しまないようにしてあげられるんじゃないかなって、気づいたの」

 恨みからアプリを使った、なんて放送では言っていたけど……人を選ぶ条件とは、なっていなかったのか。だから僕は、恨みを買っていなくとも、こうして選ばれたんだ。

「だって、漣君言ってたもんね。人と関わるのが怖いのは、これからも変わらないし、信じられる人は出来ないと思うって。親身に話せる私のことは、特別だって言ってくれたもんね……。

 だから漣君が、もうこれ以上、嫌なものを見ずに私だけを見ていられるように……そして私は漣君に一生を捧げるために、この処刑アプリを使ったんだよ。

 みんな、本当は酷い人たちだって分かったでしょ? 漣君が親友に思ってた大橋君だって、あんなろくでなしだったの。漣君が好きだった真理亜だって、お姉さん殺すような人なの。漣君に、何するか分からないでしょ?

 みんな結局はね、心のどこかでは他人を貶めようとしてる人ばかりなんだよ。だから、漣君をそんな人たちから守るために、わたし頑張ったの。

 私はみんなとは違う。それを漣君のために、命をかけて証明できるんだよ……」

 まるで清流に咲く浮き花のような、素朴で可憐な笑みがそこにあった。

 この教室は、恨みでできたわけじゃなかった。あくまで、僕を幸せにしようとする、沙羅の純粋な気持ちが根底にあって……恨みは、ただの通過点にしか過ぎなかったんだ。

 恨みではなく、その愛に気付かなければ、教師を当てることなんて出来なかったんだ。そして、すべての始まりは僕にあった……取り返しのつかないとは、まさにこのことか。

「そのために、一年前からずーっと考えてきたの。誰をここに呼べばいいか、どうやったら漣君を守って、最後まで一緒にいられるか……必死に考えたの。ほんと、上手くいって良かったなぁ……。

 大橋君は特に役立ってくれたよ。良い具合に話題作ってくれたから。最後に、あんなことされるって思ってなくて、すごく嫌な気分になったけど……。

 でも、もういない。みんな、いないんだよ。これからは、漣君と二人だけ……もっと良い未来を作れるの。

 私ね、運命なんだと思う……神様が、わたしと漣君が一緒にいるべきだって言ってるんだよ。応援してくれてるの。ふふ……だから、ずっと一緒にいようね。二人だけの世界があれば、もう怖くないよ……漣君のそばで私は全てを捧げるの……」

 嬉しそうに細める目。今までにない鷹揚とした声色。それらは、偽りのない深い愛を感じさせてきた。

 二人だけの世界……心を処刑された僕は、この深い愛という世界で静かに生きていくのだろうか。

 すると、絶望の泥沼に沈んでいたもう一人の僕が急に立ち上がり、それを肯定し始めた。もう君は、人と関わるべきじゃない。人の心が分からない、死神なのだから。関われば皆を、不幸にしてしまうだけだ。だから、沙羅だけを見て生きていけば良い。全てを分かってくれる沙羅が、いてくれるなら何も恐れることはないだろ……そう言ってきた。

 このとき、僕の中で何かが生まれたのを感じた。それが何なのかは分からない。宇宙の中で星が生まれた瞬間とは、こんな感じなのではないかと思った。

 そして、キーンコーン……とチャイムが響き始める。しかし、その音はグニャリと歪み、妙に伸びて聞こえてきた。直後、僕の意識は空気に溶け込むように消失した――



 今日はクリスマス。聖夜を祝うかのように、頭上の澄んだ夜空には星々がさんざめいている。雪の予報だったが、この分だと折り畳み傘の出番は無さそうだ。

 僕はレジャー施設のベンチに腰掛け、お手洗いに行った沙羅を一人で待っているところ。両手には、さっき買ったソフトクリーム。ワッフルコーンに入ったやつ。冬なのにソフトクリームはどうなんだろうと思ったが、これも一興だろう。美味しそうではあるし。

 すっかり夜になってしまったが、園内の賑わいは冷めやらない様子。むしろ、イルミネーションの華やかさが生まれて、より賑わいを増したようだ。

 目の前では、親子やカップルは楽しげな面持ちで歩いている。きっと心は、スキップしていることだろう。

 たまに着ぐるみが、なぜか僕の頭を撫でていくのは童顔だからだろうな、身長も低いし。沙羅はそのたびに面白がっていた。そういう、普通の楽しみをこれからも沙羅にさせてあげたい。

 少し遠くに目をやれば、観覧車がゆっくりとした時を刻んでいる姿が見えた。近くでは、グルグルと忙しなく絶叫マシンが動いているというのに、落ち着いたものだ。まるで今の僕のようだな。楽しんでいる自分を、どこかで静観する自分がいるという……。

 処刑教室……早いもので、あれからもう一か月以上が経った。

 ファンシーな音が包み込むなか、黄金色にライトアップされる遠くのシャトーを微かに見据えた僕は、目覚めた日の事を、ふと思い返した……。

 沙羅の優し気な顔と奇妙なチャイムを最後に目覚めた僕は、自室のベッドの上だった。

 真っ白の天井にはシーリングライト。壁にはキャラクターのポスターが数枚。書架には漫画がズラリ。テレビ台の下にはゲーム機が数台。デスクの上にはプリントと参考書が無造作に置かれる。そんな、いつもの光景が広がっていた。

 不思議なもので、このとき頭は妙にスッキリと冴え渡っていた。まるで、脳にへばりついていたものが、さっぱり消えたような感覚だった。ゲームに没頭している時に、近かったかもしれない。

 そして、不意に見やった壁時計の針は五時をまわっており、夕日が差し込んでいたことで、いつも通り下校して帰宅する時刻だということに気がついた。

 さらに、もう一つ気付いたことがあった。処刑教室で起こったことを、すべて記憶しているということだ。処刑教室の延長線上にいるような感覚で、さっきまで沙羅とここにいた……そんな感じだった。だからこそ、沙羅がいないことに、とても違和感を覚えた。

 同時に、浮かんだ疑問が一つあった。なぜ、記憶があるのかということだ。教師を処刑しない限り、生き残っても正常に戻ることはできないと、神保さんは言っていた。それが本当の話なら、僕の記憶があることはおかしいと感じたのだ。

 その後、しばらく呆然と過ごして、切迫した生理現象に気付いた僕は、よろけながらトイレへ向かった。すると、鏡に映った顔を見て、またもや気付いたことがあった。唇から血の一滴も出ていないし、傷跡すらなかったのだ。あれだけ噛んで、たしかに血も出ていたはずなのに……まさか夢だったのかと一瞬、頭に過ぎった。

 だから僕は、ポケットに入れっぱなしだったスマホで、沙羅へ連絡をしようとした。僕も含めて、皆がどうなったのか知りたかったからだ。

 しかし、連絡をする前に沙羅から先に連絡がきた。今から行くね、と。そして僕の心を見透かしたように、こう付け加えてきた。ごめんね、私は分からないけど、側にいるから安心してね、と。

 なぜ分かったのか呆気にとられながらも、自室に戻る前に玄関の鍵を開け……その後は返信をできぬまま、ぼーっと沙羅を待つこととなった。

 やがて、出張のため明後日まで親が不在である僕一人の家に、沙羅がやって来た。開錠しておいた玄関から、僕の部屋に一直線にやってきたことは、今思えば不自然な話だ。他にも三つ部屋があるというのに。

 部屋にやって来たブレザー姿の沙羅は、いつも通りの懐っこそうな顔で僕を見るや否や、コンビニで買ってきたんだよと言って、僕の好きなスイーツを手渡してくれた。そのスイーツが好きだという事は、一度も話していないのに。

 そして、教室であれだけ言葉が不自由になっていたのに、なぜか普通に話せるようになっていたことに、このとき初めて気がついた。たぶん、自分の場所に戻れたことや沙羅に対する潜在的な安心感が、そうさせたのだろう。

 その後は、沙羅と話をするうちに、不自然な事実が様々に露呈していった。

 まず、沙羅は処刑教室の出来事を一切覚えていなかった。次に、明らかに以前とは異なる話し方だった。どういうことかというと、僕の心を先読みしたように口を開くのだ。

 以前から、僕の気持ちを読んだ言葉をかけてくることはあったが、ここまでだったことは無い。それはまるで、脳内が読まれているのではと思うほど的確なものだった。

 そこで僕は思った。沙羅の心が、処刑されてしまったのではないか……と。そうでなければ、なぜ処刑教室での記憶を、僕が持っていて沙羅が持っていないのか。なぜ沙羅が、ここまで的確に僕の考えを把握できているのか、知らないはずの事を知っているのか、説明がつかないだろう。

 心が処刑されているなら、むしろ僕が沙羅の心に従う状態にならないとおかしいわけで……。

 だから僕は、少し試してみることにした。

 前に沙羅がくれたプレゼントに、よくあった四葉のクローバーのデザインについて、あの意味を聞こうとしたのだ……すると予想していた通り、先に答えを言い始めた。

 四葉のクローバー……それは、私のものになってという花言葉があるらしく、僕に対しての好意の印であったと打ち明けてくれたのだ。

 この瞬間、とても静かな笑いと涙が同時に出た。何が原因で、出ているのかは分からなかったが、新しい自分がそこに生まれていることに気付いた瞬間ではあった。

 何かを問おうとすると、必ず答えが先に出てくる。それに、欲しい言葉を自然とかけてくれる。そして先の疑義の件。もう僕には、沙羅の心が処刑されてしまったとしか思えなかった。

 度し難い結末だと思ったが、それと同時に、沙羅を絶対に幸せにしてあげないといけない、そう感じた。こうさせてしまった全責任は、全ての始まりとなった僕に起因するのだから……それが義務だろうと。このときは、考えていた。

 沙羅は、そんな僕を何かから守るように優しく包みこんで、こう声をかけてくれた。私は漣君の望むことは何でもしてあげるし、どんな漣君でもそばにいたい……と。その温もりが新しい僕に、より生の実感を持たせると同時に、内に疼く本能的な愛を目覚めさせた。

 この日、僕は初めて女の子の体温を体の芯で感じ、言い得ぬ多幸感を味わい、二人の世界というものを体験することとなった。それも僕が望んだこと、だったのかもしれない。

 翌日、一緒に学校へ登校したのだが、クラスにあの六人の姿はなかった。この時点で予想はついていたが、朝いつものように入ってきた教員が、いつも通りではない面持ちであることで、確信へと変わった。

 そして重い口調で、六人が昨日亡くなったと告げられて……言わずもがな、処刑アプリのせいだろうと感じた。一日で同じクラスで六人が、事故死なんておかしい。

 クラスは一気にどよめきだしたが、僕の内心は至って冷静沈着だった。もちろん、驚いたそぶりは見せた。じゃないと変だから。そして、不幸なことだとは思った。特に神保さんは、可哀想なことになってしまったなと、深い同情をした。

 しかし、もう終わったことで、どうこう言っても仕方ないだろうという、淡白な考えを持っていたのもまた事実。

 だから後日、沙羅と一緒にみんなの葬式に参列し、涙した。そこでは、本当に無念だったろうと心から思い、しっかりと告別した。だが、それだけだった。それ以上、悲しむことも無ければ、後に引きずることも無い。ゲーム中で仲間が死んだようなイメージと言える。悲しいが、まぁ仕方ないか……という、あの感じだ。

 それからの学校生活では、周りから変わったと言われるようになった。とても話しやすくなったと。驚くことに、友人だってでき始めた。それは、おそらく僕から個が消えたからだろう。言ってしまえば、沙羅だけを迎え入れた伽藍堂状態の心だったのだ。

 堂内にいない周囲のことは、どうでもよくなっていた。興味が皆無だからこそ、くだらない意地を張る必要もないし、些細なことで一喜一憂する必要もない。外でちゅんちゅん鳴いている雀や、どこかの地を這うアリや、一ミリぬかるんだ泥のことなど、どうでもいいだろ? あれと一緒だ。

 それこそ適当に会話を楽しんで、社会活動をしてれば良い、そう感じていた。極端な話、親が死のうが友達が死のうが、今の僕にとってはどうでも良かったのだ。

 もっと言えば、堂外で人と関わるのは僕じゃない。僕が操作するキャラクターという感覚だ。プレイヤーは堂内にいる沙羅が幸せになることだけを、考えて生きていけばいい。

 いや、そうしないといけない義務がある……だって、僕のせいで心を処刑されてしまったんだから。それにあれだけの気持ちを、持ってくれていたのだから。恩返しは、一生かけてしないといけないだろう、そう考えていた。

 ちなみに、後日クラスでは六人の事故について、密かに噂が広まっていた。町田は、実家の工場にある工作機械の誤作動で。梶ヶ谷は、工事現場の鉄筋が落下したことで。青山は、煙草の不始末が原因で三階にある自室が燃えたことで……などなど。

 本当かどうかは分からないが、あの処刑教室の光景に似た形で、みんな息絶えたのかもしれない。まぁ可哀想なことだが、もう興味は無い。

 そうして迎えたクリスマス。沙羅に楽しんでもらうために、僕はここにやってきたわけだ。

 すると、向こうからベージュの膝丈まであるコートをひらひらと、首に狐色のティペットをつけた沙羅が、僕に手を振って小走りでやって来る。

「漣君! ごめんね。ありがとう、持っててくれて。並んでたから、時間かかっちゃったよー」

 そう言って、僕の隣に落ち着く沙羅。あの甘い香りがフワッと鼻を抜ける。沙羅だと感じる瞬間だ。

「ううん、大丈夫だよ。それより寒いのに大丈夫なの、これで?」

 可愛らしい小ぶりな手に、未だキリっと天に向かってそびえ立つソフトクリームを手渡した。夏だったら、もう溶けているところだな。冬で良かった。

「だって美味しそうだったもん。漣君も、そう思ったんでしょ? 全部一緒だからね、考えることは」

 健気な笑顔を見せてきた。これが、僕の一番好きな笑顔だ。こうやって笑顔でいてもらいたい、見る度にそう感じる。普通の楽しみを、これからもっといっぱいさせてあげたい。今まで我慢を強いてしまった分……いやそれ以上に。

 僕は「まぁそうだね」と失笑。沙羅はソフトクリームを一口。満足そうな仕草を浮かべた。

「ふふっ、それに寒いときに食べるのも、なんか一興だもんね」

「たしかにね、ほんとそう思うよ。夏にラーメン食べるみたいな感じでさ」

「あはは、それそれ。良いよね、あッ待って。口についてるよ」

 処刑教室で口を拭われたことを思い出す。当時と同じ、優しい拭い方だった。

 口の中は冷たいし空気も冷たいが、その後に握られた手だけは温かった。人肌は意外と温いものだ……僕に大きなものを教えてくれた手だというのに、小さく柔い可愛らしさがそこにあった。

 ところで僕たちは、傍から見ればカップルと思われるだろうが、特段、付き合おうと言葉を交わしたわけではない。そもそも、そんな言葉は必要ないだろう。そう見えるならそうだろうし、そう見えないならそうだ。もとより、そういった次元で一緒にいるわけではないのだから。

 沙羅と一緒にいる理由が、愛しているからなのか、償いの気持ちからなのか、そんなことはどうでもいい話だと、僕は最近気付いたのだ。

 一緒にいるべきだから一緒にいるだけ……これだ。

 きっと僕は、沙羅が死んでも淡々と受け入れるだろう。ただ、生きているうちは一緒にいてあげたいし、心から大事にしたい……そう思っている。

 そういえば、あれから自分の心が処刑されていないことに対して、二つの仮説を立てたんだった。

 一つは、処刑教室で僕の心が死んでいて、処刑されるべき心が処刑できなかったという説。

 当時、僕は心が虚脱して酷く荒んだ精神状態だった。だが、処刑教室では最後に、心を処刑しないといけない決まりがあった。だから、処刑できる心が無い僕の代わりに、沙羅の心が処刑されてしまったんではないだろうか、そう考えた。

 もう一つは、処刑アプリを使う者……つまり沙羅が、教師と生徒の役を自由に選択できたという説。

 放送では、恨みから処刑アプリを使い、皆を招いたものを教師と言っていたが、その教師となる役、それ自体をゲームのように設定できたのではないかと考えたのだ。

 教室では、最後まで教師が誰かという公表がされなかった。ゆえに、沙羅が教師と断定ができないわけだ。もちろん、普通は教師役は自分に設定するだろう。じゃないとメリットが少な過ぎる。

 ただ、沙羅は僕の側ですべてを捧げると言っていた。それは、心を差し出すという究極の愛を示すことで、僕に対する想いが完結することを示していたのではないだろうか。

 この二つの仮説に立てば、沙羅に抱く疑義の全ては解決できる。まぁそれでも、本当のところは未だに分からない。真相は闇に葬られたままだ。

 ともあれ、こういった理由で僕は、心を処刑されずに済んだと思っている。しかし、もしかすると僕は心を処刑された状態で、今こうして過ごしているのかもしれない。その可能性は否定できないだろう。現に、沙羅だけを大事にしているわけだから。だが、もうそんなことはどうでもいい。取るに足らないことなんだ。

 僕は沙羅と共に、生きられるところまで生きていくだけ。沙羅と二人のパーティで、このゲームをプレイしていくだけのことなんだ。

 すると沙羅が、繋いでいた手を強く握り「ずっと、側にいるからね」と言ってきた。なんて愛嬌の滲む顔なんだろうか。

「ありがとう、沙羅。僕も、ずっとそばにいるよ」

 やがて、ソフトクリームを食べ終わった僕と沙羅は、賑やかな空気の中へと溶け込んでいった。溶け合った気持ちを胸に抱えて。

 今後も、季節や場所に関係なく、僕達の気持ちは深く溶け合っていくだろう。永遠に。


ーーあぁそうそう。


 あとは、たまに思うことがある。二つの仮説のどちらを取るにしても、全ては沙羅の思惑通りに、事が進んだ結果なのではないかと……。

 沙羅は、僕の心を確実に壊すために、キーパーソンとなる神保さんや啓介を用意した……そして、ものの見事に僕は心を壊されてしまった。

 あの時、沙羅が唯一想定していなかったこと。それは、啓介が暴力に出たことではないだろうか。だから、あんなことになった。

 そして、まんまと心の死んだ僕は、救いの神である沙羅から、最後に途方も無い愛を語られる。それは、僕が沙羅を本当の意味で受け入れるための、段取りだったのではないだろうか。でなければ、どうせ心が処刑されるというのに、あんなに話される理由が分からない。

 ともあれ、そうやって僕は、新境地を開くに至ったわけだ。

 加えて、戻った僕が過ごしやすいように、因縁の深い青山や荏田を処刑に選び、その環境を整えた。あとは、ちょうど狙われやすい穴埋めとして、梶ヶ谷や町田を使ったのではないだろうか。

 つまり、僕も含めてみんなが、考え方によっては処刑アプリですら、恨みや愛をうまく利用され……沙羅の手の上で、コロコロと転がされていたんじゃないだろうか。手を鳴らす沙羅の方へ、みんな赤ん坊のように這い寄っていった結果なんじゃないだろうか。

 そんなふうに、ときどき思っては、クスッと吹き出してしまうのだ。まったく、沙羅はすごい人だ……。

 とかくこれらは、いくら考えても答えは出やしない。

 分かることは、沙羅が、誰も叶わぬ心の支配者だったということ。そしてあの日、僕に深い愛と絶望を教えてくれた人だということ。

 僕は、そんな沙羅を心から尊敬している。一人の最愛のキャラクターとして。

 さて、僕は幸せ者だろうか、それとも不幸せ者だろうか? っははは……。


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処刑教室ー罪紡ぎー ひよこネコ。 @nebra

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