『罪解き編』

 啓介が教師で、沙羅はグルだったなんて……どう足掻いたところで、二票で終わる。完全にバッドエンドだ。でも、もうそれでいい。それで構わない。

 うつ伏せで床についた頬には、湿った感触が広がる。床に溶け込んでしまいそうだ。そして、現実を拒絶して閉じた瞼の裏では、神保さんの最期の笑みが水彩画のように、淡く儚く映されていった。

 せめて自分の言葉で直接、好きだと言ってみたかった。叶うはずがないと分かっていても、たった一回で良いから……直接、この口で伝えてみたかった。なんで最期に、言えなかったんだろうか……馬鹿なことをした。

 そんな蛍火のような想いは、啓介の呼ぶ声が聞こえたことで、ボンヤリと体内へ溶け込んでいった。

 僅かに瞼を開ければ、すぐそばに啓介の足が映り込む。

「残念だったな、びっくりだったろ? 渋谷と俺が、これ仕組んだの知ってさ……なぁ、いまどんな気持ちだ?

 本当なら、神保が消えて三人になった時に暴露して、お前を驚かせてやりたかったんだけどな。

 しくじったよ……お前が、あんな小さいことに気づくなんて。最後まで、本当に鬱陶しいやつだ」

「…………」

 啓介の声を使って、別人が喋っているように感じる。

「でもようやっと、お前を殺せる。ほんとに目障りだったからな……漣は」

 僕はなんで、そこまで恨まれていたんだろう。いったい僕が、何をしたんだろうか。そう思いはするものの、感情的なものは何一つとして、湧き起らなかった。

 とっくに、心が離脱しているせいか、全ては淡泊にしか感じ取れない。こうやって何かを考えることはできても、体とまったく連動しないのだ。嘘みたいに、体も気持ちも動かなくなっている……動くのは、淡々とした無機質な思念だけだ。

 自分ではない誰かが、酷い目にあっている……そんな感覚だった。

「お前は、いっつもいっつも、一年の時から渋谷に構ってもらってばっかで。何も自分で、頑張ろうとしてこなかったよな?

 はじめの頃なんて全部受け身で、渋谷で世界を完結させてる感じでさ……ほんとに見てて、いっつも腹立ってたんだよ。なんでこんな奴が、渋谷に構ってもらってんだってな。

 お前なんてさ、渋谷に話しかける資格ないんだぞ……分かってんのか、漣?」

 たしかに啓介と話すようになるまでは、沙羅とだけ会話していた。


→150まで


 神保さんという初恋相手がいて、沙羅というたった一人の良き友人がいる……そんな世界が学校生活のはじめ、僕に生の実感を持たせていたのは事実。

「俺がさ、何でお前を構ってやってたのか……分かるか、おいっ」

 ドスッと、顔を踏みつけられた。

 もし、僕がまともな精神状態だったなら、辛過ぎて泣いて笑っているところ。でも今の僕は、無の中に落とし込むだけだった。

 これまで啓介や沙羅が見せてくれた優しさは、いったい何だったのだろうか。

「っふはは。なぁ、教えてやろうか?

 もちろん進路先に関わる評価大会に向けてってのもあった。でもな、そんなのは些細なことさ。

 一番の動機は、渋谷が好きだったからだよ。渋谷と二人にさせないように、絡んでただけさ。お前なんて、どうでも良かったんだよ。むしろ、ウザかったぞ。あはははっ」

 腑に落ちた。

 僕には、その気持ちがよくわかる……好きな人と異性が話しているだけで、胸の底から込み上げてくる、あの身勝手な嫉妬を僕は知っている。

 別に付き合ってもいないのに、神保さんが男子と話をしている姿を見るだけで、勝手に焼きもちを焼いていた。何度も妬ましく思っていた。

 今の話から垣間見えた啓介は、まるで写し鏡のようだ。

「バカなお前は、勘違いしてたよなぁずっと……渋谷がいなかったら、お前にあそこまで関わってなかったんだぞ?」

 啓介は一年のはじめの方から、ずっと沙羅を好きだったのか……全く気付かなかった。僕が疎いだけなんだろうか。普通は、誰々が誰々を好きそうとか、気付くんだろうな。

 それに思い返せば、僕は自分の事ばかり話していた気がする。もっと周囲に興味を持って、話を聞いていれば良かったのかもしれない。

「お前はさ……いつもいつもいつも、渋谷にばっか話しかけて……本当に目障りだったんだよ!!

 邪魔だった、ウザかった、ムカついた鬱陶しかった憎たらしかった……クソほど、殺してやりたかった!!

 だからさ……動物をお前に見立てて殺して、必死に途方も無い怒りを抑えてたんだよ」

 なんで、そんな酷いことを……可哀想に。僕のせいだ。青山が言っていたことが、現実に起こっていたなんて。

 僕は死神なんだろうか。荏田や神保さんもまた、僕のせいで命を失ったようなものだ。僕がちゃんと話を聞いて、さっきのように熟考していれば、こんなことには……。

「漣、お前なんて俺たちが構ってやらなきゃ、ただの社会のゴミみたいなもんなんだよ。生きる価値なんて皆無の、ただの廃棄物なんだよ。分かるか?

 だから渋谷の側に、いるべきじゃないんだ。それなのに、いきがっていつも渋谷と仲良くしてさ……。

 しかも呆れんのが、一年の夏ごろだったか。神保を好きだって相談してきただろ。あっははは……冗談が過ぎんだろって思ったよ、俺は。

 だからさ、反応楽しめると思って神保にバラしたんだ……したらムカつくのが、まんざらでもない感じでな……っは。

 ほんとに……余計ムカついたよ。無理とか拒否の言葉を言うかと思いきや……照れやがったんだぞアイツーッ! ムカつくよなほんとにッ!!」

 肩に重い圧がかかる。肺から抜け出る空気に、まだ生きていることを実感させられた。

「本当にアタマくんだよ、お前らは……挙句の果て、神保は聞いてきたんだ。永田君は、どんな人なの? とかさ、あっははは……。

 ふざけんなよ!! ふざけんなよ、クソーッ!!」

 こうして何度も強く踏みつけられていると、アリか害虫にでもなった気分だ。

「だからなぁ……神保に教えてやったんだ。重度のゲームオタクだぞって。そうすりゃ引くだろって思ってな……。

 でも違ったわ。あいつ、どんなゲームやってるのかしらとか、訳分かんねーこと聞いてきやがったんだよ……っはは」

 人は思いのほか、知らないところで生きているんだろうか。

 まさか、僕のことが話されていたなんて。少なくとも、神保さんに悪い印象を持たれていなかったのなら……それは救いだ。

 そういえば神保さんは最期に、尊敬していたと言ってくれた。僕にとっても、最後の良い思い出になりそうだな……。

「まったくさ。ふざけんのもいい加減にしろって思ったわ。なんで……なんで……なんでーッ!!!

 渋谷との恋を邪魔されてるのに、神保とお前の恋をサポートしなきゃならないんだよーッ!!

 なぁ……おかしいだろ? だからガセを、お前に教えてやったんだよ。あっははは……お前、真に受けて諦めたもんな。そうだよ……それでいいんだよ」

 他のクラスに好きな男子がいるって、真っ赤な嘘だったのか。僕は真に受けて、一人で悩ましく過ごして……啓介に頼りっぱなしだった代償だな。そもそも自分に自信が無かったから、いけないわけで……。

「だいたい、なんでお前みたいな、陰キャが恋してんだよ。おかしいだろ?

 自分で思わなかったのかよ、漣……何も頑張ってない、生きる価値の無い、体たらくな人間が恋なんて出来やしないって!

 神保も頭おかしいよな。狂ってんだよあいつ……なんでこんなやつを。処刑されて当然だ。お前みたいなのはな……誰も、好きにならないんだよッ!!」

 踏みつける足が離れたかと思うと、ガツッと後頭部に衝撃が走った。耳には、憎しみを纏った荒い息遣いが響いてくる。

 もし、好きな人がいるわけじゃないと知っていれば、少しは話しかける勇気が出たのだろうか……いや、奥手な僕は、どうせ同じ未来を歩むんだろうな。なんとなく、そう感じる。

「お前はな……幸せになる資格なんてないだよ! 誰かに庇われてばっかの、単なるゴミが笑わせるなよな。

 俺はな、これまでずーっと、人のためにいろんな行いをしてきたんだぞ? 空気を読むどころじゃない。空気を飲んで、馬鹿な奴らが言われたいことを言って、聞かれたいことを聞いてやって、してほしいことをしてやってたんだよ!! お前みたいな奴が、自分勝手に過ごしてる間、ずーっとな……頑張ってきたんだよ!!

 それなのに! それなのにだーッ!!

 お前が神保みたいな人気者と恋? 神保もまんざらじゃない? リアル遠ざけたゴミが、なに充実させようとしてんだよ。ふざけるなーッッ!!」

 これまで僕は、啓介の人を惹きつける魅力は、持って生まれた才能だとばかり思っていた……でも違ったみたいだ。僕が逃げた場所で、労苦を背負った結果だったとは……どのみち、僕には真似できないことだな。

「いつも呑気に、陰で生きてる奴が一人前に恋とか……ふざけ過ぎだって、思うだろ自分でも? 思うだろ、漣? 思うよなあ?

 そもそも何も頑張ってない、価値の無いただのゴミがさ……どうして、こんな人間活動してんだよ。

 いい加減気持ち悪いわ。引きこもってればいいんだ、お前みたいな社会不適合者はさ……要らないんだよ」

 こんなふうに口に出さないだけで、本当は周りからも、そう思われていたのだろうか。

「よく生きてこられたよなぁ……体たらくに呼吸だけしてた人間もどきが。

 そんな奴が、神保を手に入れられるわけないだろっははは……いや手に入れちゃダメなんだよ。

 お前には、ゴミ箱しか似合わないんだ。ゴミ箱と付き合ってりゃ良いんだよ。あっはははは……」

 嘲笑が響き、頬を踏み躙られるなか、僕は追憶の中にいる神保さんに、自分の分身を添えて想見した。付き合うなんて出来たら、こんな感じだろうか……なんて。でも、二人で並んで立っているだけじゃ、付き合っているとは言えないか。

 こんな時でも僕の想見は、並び立つ程度で留まるらしい。仕方ないことだ。それすらも、したことが無いんだから……許せよ、僕。

 憧れと諦めを、両手いっぱいに抱えていたんだなと、改めて思わざるを得ない。

「それとな、漣。良いこと教えてやるよ……渋谷は困ってたんだぞ?」

 そういえば、さっき沙羅は激憤を秘めた目つきで、こっちを睨んでいた……きっと啓介のように、僕の何かが恨まれているんだろう。

「あぁそうだ……今まで隠してたけどな。俺たちは、春から付き合ってんだよ。二年に上がってすぐ、俺が告白したら渋谷も喜んでくれてさ。そこで、お前への本音も吐露してくれたんだ」

 沙羅が啓介の彼女……どうして、言ってくれなかったんだ。だから余計に、しょっちゅう沙羅といた僕の存在が邪魔だったのか。

「渋谷はな、可哀想だからって情けで、お前を構ってたんだ。仲良い印象がクラスで生まれちまったからな。だから、突き放すわけにもいかず……以降ずっと、いやいや仲良くしてたってわけだよ。

 しかも執拗に、漣が側に寄って来るもんだから、見放した時に逆恨みされたら、どうしようって怖がってたんだぞ。その相談も受けたよ、そん時に。

 クラスは三年間変わらないからな……お前がいるのは致命的だったわけさ」

 今まで二人を親友として、楽しく過ごしていた自分が、本当に滑稽でならない。結局のところ、啓介には妬まれ、沙羅からは嫌悪されていたわけか……ずっと。

 もし過去に戻れるのなら、虚構の中でのんびり過ごしている自分に、誰にも関わるなと言ってやりたい。

「何度か遊びに行ったのも、渋谷はイヤイヤだったってわけさ。

 そうだ、遊びに行った時にお前を庇ってやったの覚えてるか? あれも全部、渋谷がいたからだぞ。

 お前は、勘違いして泣いてたけどな。ふははっキモすぎだったよ、あれは」

 皮肉過ぎる。さっき、思い出したばっかりじゃないか。

 そりゃ、僕みたいなのが、こんな二人と親友になれるわけないんだ。僕はどうして、心を開いてしまったんだろう。結局は開いたところで、独りよがりだと分かっていたはずなのに。本当に残念なやつだ。

「おいっ、聞いてんのか漣! ちゃんと聞けよッ!!」

 背中を蹴られるごとに、揺れ動く身体。それでも、やはり僕の心は微動だにせず、傍観に徹していた。

 傍から見れば、僕は死体に映るだろう。若しくは、映画やアニメで見かける、死んだ目をした奴隷……あれだ。

 もう心は、とうに処刑されたようなものじゃないかと思ってしまう。

 きっとこのあと沙羅も、啓介のように憤懣を吐き出してくるんだろう。それを、無心のうちに受け入れているのを予見できた。

「でも、やっとこの鬱陶しい環境を打破できる……。

 付き合い始めて少し経った時にな、処刑アプリを渋谷から教えられたんだ。協力して欲しいって。それから、二人でどうやってお前らを陥れるか、必死に試行錯誤してきたんだよ。

 特に鬱陶しい漣を、どうやって最後に処刑してやろうかってさ……ははは」

 力無い笑いが、頭上から降ってくる。

 教師は啓介じゃなかったのか。でもなんで、協力をしたんだろうか……神保さんは、心が処刑されると言っていた。そうまでして、僕を殺したかったのか。

「そうそう。もちろん最後の生徒は、心が処刑されるってのは知ってたんだぞ。でも俺は、協力することをすぐに決めたよ。

 そうすれば、お前を含め邪魔くさい奴等を全員消せるし、渋谷への愛の証明にもなるわけだからな。

 俺がさ……この俺が、渋谷を救うんだよ。お前みたいなゴミくずからな!

 渋谷は言ってくれたんだ……心が処刑された後に、ずっと傍にいてくれるってな。俺は渋谷だけいればいい……他には何も要らないんだ。渋谷は、俺にとって天使なんだよ。

 そういや話し合いの中で、俺の兄貴の話が出たが、それも渋谷にはもう話してたんだ。機転を利かせて、リアクション取ってくれたけどな。

 そこで、渋谷は何て言ってくれたと思う?」

 きっと、自分も苦しみを背負うよとか、そういうことを言ってくれるはずだ。

「渋谷はな、俺の悩みも苦しみも全て、一緒に背負わせてくれって言ってくれたんだよ。全部を愛したいって……天使だろ? だから俺は、心を捧げるなんて、なんの躊躇いも無かったさ。

 それに……これまでクソみたいな兄貴のせいで、周りからどれだけバッシングされたか! それを逃れるために、どれだけ……どんだけ頑張ってきたか!!

 俺はな……もう、人間自体に愛想が尽きたとこだったんだ。解放されたかったんだ、全てからな……だから、ちょうど良かった」

 啓介がどんな顔をしているのかは、声で分かった。僕の想像できる労苦では無さそうだ。

 もしかして、この教室のきっかけは僕だったのだろうか。僕のせいで処刑アプリが使われて……だから皆も巻き込まれて、神保さんまで……。

 僕は、なんで生まれて来たんだ? 啓介の言う通り、価値が無かったんだ。なぜ、僕は二人に付きまとってしまったんだろうか。

「漣……分かっただろ? お前が、クソほど邪魔だったんだよ。俺にとっても、渋谷にとってもな。

 一年の時から俺がどんだけ我慢したか。なんでいつも、お前がいるんだって、死ぬほど悔しかったんだぞ。自分が壊れそうだった。

 二年になった今も、この先三年になっても、お前はずっとあそこにいる……それはダメだ。だからここで消すんだよ。俺が、渋谷の不安を取り除いてやるんだ。それが、存在証明になるわけさ。

 でもなぁ……そもそもお前さえいなきゃ……お前さえいなきゃアアァ!! こんなことしないで、ごく普通に渋谷と付き合えて。もっと……もっと! もっとなーッ! 幸せな楽しい時間をいっぱい得られたんだよ!!

 渋谷が苦しむことだって無かった。お前のせいなんだよ全部ーッッ!!!」

 ドスッ! つま先が、僅かに浮いていた腹に入り込む。そのまま蹴り上げられたことで、僕の身は翻った。ピンボケする視界の横には、息を荒げる啓介。

 そのまま、ダラリと首が横に倒れると、沙羅のスカートからのぞく脚が映った。向こうで傍観しているようだ。つま先はこちらに向いている。垂らした手には、何故かペンが握りしめられ、ものすごく力んでいる様子だった。まるで、今にも襲ってきそうな……そんな気配。いったい僕は、このあと何をされるのだろうか……。

 脳裏では死を悟ったからか、今まで二人と過ごした日々が再生されていった。

 青山たちに、言葉に出来ないほどのイジメを受け始めた直後、それを止めようとしてくれた沙羅のこと。

 荏田の根も葉もない噂のせいで、クラスの皆から、唾棄すべき存在として向けられた侮蔑の眼差しを、そぎ落としてくれた啓介のこと。

 朝、教室に入って授業が始まるまで、三人で他愛ない会話をした日々。放課後に啓介を部活に見送り、途中まで沙羅と二人で帰った日々。

 授業を風邪で休んだ時に、フォローしてくれた二人のこと。体育祭で輝いていた二人の姿。球技大会のバスケで、親身に教えてくれた啓介の姿。

 文化祭で、こっそり余った食べ物を、放課後に三人で分けたこととか……この前の沖縄の修学旅行では、一緒に廻った水族館で、お揃いのキーホルダー買ったっけ。

 なんて儚い現実……全部、嘘だった。全部、ニセモノだった。全部、独りよがりだった。啓介の優しさは沙羅のために、沙羅の優しさは情けのために……神保さんの言葉を除いた全てが……すべてが虚構のレガシーだった。

 もう、後悔しても遅い。奇しくも、荏田の言った通りになってしまった。

 どうやら、僕は殺されるらしい。処刑、ではなく沙羅に……ぼんやり見つめる先で、沙羅の脚が徐に歩み寄ってきている。

 一歩動き、スカートがゆらり。固く握り締められたペンは、お腹のあたりでギュッとされ……一歩また一歩、つま先が大きくなってきている。

 あれで、刺されでもするんだろうな。いったい、どこをどう刺されるのやら……だが、もうどうでもいい。今の僕は、死んでいないから生きているようなものだ。さっさと殺してくれ……。

 すると、目の前に啓介がしゃがみこんだことで、沙羅の姿が隠れる。

「もう終わりにするんだ全部。くだらない人生を捨てて、憎いお前を処刑して……渋谷に心を捧げる。

 これが俺の最高のストーリーになるんだよ……アハハハハッ!!」

 悲惨な末路が近いというのに、恐怖はまったく無かった……あるのは、全てへの諦めと虚脱。ある世界の、ある人物の、ある物語を追体験しているような、朧げな感覚だけ。

「……大橋君」

 沙羅の、冷えきった無機質な声。

 何かを見つめる僕の瞳には、啓介の背後にある、沙羅の上履きが写り込んだ。

「良かったな、漣。渋谷も、お前に復讐したいって言ってたんだよ。

 だからこれから、もっとお楽しみだぞ? はははっ、なぁ渋谷……?」

 啓介の膝が、後ろへと振り向いた直後、グチュッ……という薄気味悪い音。ポタポタポタ……と、何かが床を打つ音が広がった。

「え……お、い。ウアアアアアーーーッ!!」

 空気が裂ける様な叫び声。仰向けに倒れ込む啓介の目からは、血が溢れ出ていた。

 啓介は、顔を庇うように腕を前に出し、暴れ始めるものの……胴に跨る沙羅は、腕の隙間を潜るようにして、何度も顔に向かってペンを突き立てている。横から、正面から……その動きは、微塵も躊躇いを感じさせない。ただただ淡々と、虫を殺そうとしているかのような、冷静で冷酷なものだった。

 しかし……こんな予想もしない異様な光景を前にしても、僕は茫然自失のうちに、現実を受容するだけだった。

「なんでっやめろ!! どうしてええーッ!!」

 痛みのせいか、叫び声とは逆に啓介の抵抗する仕草は、どんどん弱くなっていく。まるでノックアウト寸前の相手に、マウントを取っているような状況が出来上がっていた。

「ッアアアア!! や、めろ……なんで、やめろよ! なんでだよッ……痛ッ……アアァァァ!!」

 とうとう、啓介は身を返して蹲ってしまった。

 沙羅の顔には、返り血が点々としている。手には、血まみれのペンが握り締められ、啓介の耳元で構えられた。

「だって大橋君が悪いんだよ。漣君に酷いことするから……もう我慢できなかったの」

「痛いッ……っぐ……どうしてだよッ、なんでこんな……漣を殺すんじゃないのかよオオーッ!」

「そんなことしないよ。だって、消えて欲しいのは大橋君なんだもん。

 ほんとは漣君に、こんなとこ見せたくなかったのに。なんでこんなことしたの? 暴力はダメだよ、こんなことしたらダメ。

 許さない……許さない許さない許さないユルサナイ……」

「ぅうぐ……痛っ!! アアアアァァァッ……!!

 渋谷ァッ……信じて、たのにーッ!! 裏切った、のかよ……っ」

「……一応、ありがとう大橋君。でも、もう要らない」

 蹲った啓介の耳に、持ち替えたペンが容赦なく突き刺されていく。

「痛っうあぁぁぁアアア!! 何も、なにも見えない……っ聞こえない……クソーッ……! なん、なんでだよーッ!! なん……でだっ」

 立ち上がってペンを投げ捨てた沙羅は、身をよじる啓介のポケットから何かを取り出した。きっと僕のスマホだろう。

 啓介は、まだ何かされると思っているのか、頭を庇ったまま床を這って隅に行こうとしている。目で追っていた僕の視界には、不意に沙羅が現れた。側に座り込むと、僕を見下ろしてくる。

 愛らしい優しげな笑み、屈託のない丸い瞳……全てがいつも通りだった。浴びた返り血を除いて。

「漣君、痛かった……? もう大丈夫だよ。私が守ってあげる。皆からずっと、守ってあげるね」

 そう言って、植物状態のような僕の背中へ手を回す。

 頭に当たる感触が固いものから、柔らかいものへと変わった。沙羅のひざの上に乗せられたようだ。頰には、忘れていた温もりが伝わってくる。融雪剤のように、僕の冷え切った心にもジーンと伝わってきた。人肌は、こんなに温かかったんだな……。

「わたし、ずっと頑張ってきたの。我慢してきたの。

 皆を消すために、大橋君に嘘ついて手伝ってもらったんだ。そうすれば、皆も消せて、邪魔な大橋君も確実に消せると思って。

 だからね、大橋君の言ってた、私のことは全部ウソ。付き合ってたのも別に、好きなわけじゃないの。勘違いしないでね。

 私が好きなのは、あの時からずっと、漣君だけ……だから心配しなくって良いんだよ」

 何も心当たりが無い。いったいいつ、僕にそんな感情を持たれたのか……僕はとことん、何も分からないで過ごしていたようだ。

「あ、ごめん。そうだよね……安心して。大橋君とはキスだけだから。

 男の子って、そういうの気にするもんね。大丈夫だよ、漣君に上げるって決めてたから」

 僕は沙羅から恨まれていなかったのか? もう、何が本当か分からない……自分の位置さえも分からない、複雑怪奇な無限迷宮に迷い込んだ気分だ。

「漣君は、何も心配しなくていいの。ずっと大変だったよね。

 でもこれからは、二人でいっぱい過ごせるから。きっと……ううん、絶対に良い未来が待ってるよ。えへへ」

 未来、あるのだろうか……僕に。

 目の前にいる沙羅が、沙羅ではない……そんなように思えてくる。でも、目の前で微笑む顔や、聞こえる声、鼻を抜ける匂いが紛れもなく沙羅であるという証明を、僕に突き付けてきた。

「やっとだよ……やっと一緒になれるんだよ、漣君。もう邪魔する人はいないの。漣君と私だけの世界が、またやって来るんだよ。

 あ、そうだ。もう処刑の時間くるね。楽しみ、ふふ」

 啓介にあんなことをした後なのに、どうしてここまで莞爾として笑うことが出来るんだろうか……沙羅は。

 そこで、あのチャイムが鳴り響いた。

『お疲れさまでした。集計結果を発表します。一票が大橋啓介へ、一票が永田漣へと投票されました。同数のため、名前順で処刑対象は大橋啓介です』

 バタンッ! という音。

「なんでッなんでだよーッ!! グアアアアアァァァーッ!! なんでだアアアァァァッ!!」

 遠くで響く悲痛な叫びは、無心状態の僕にとって、単なる音としての機能しか果たさなかった。

「漣君、最後の処刑だよ。早く消そうね」

 目の前にスマホを見せられた。画面では、啓介のキャラが犬に腸を食い千切られている姿が映る。今までで一番ひどい処刑だ……他にも、鎖でつながれた犬たちが取り囲んでいるようだから。この後に、どうなるかは想像に難くないところ。

 だらりと垂れた僕の手は、沙羅の支えに誘導され……コツンと爪が画面に当たる。しかし、ランプは灯らない。僕の意識が向いていないからだろう。

 啓介……親友だった人。僕のせいで人生を狂わせてしまった人。仮初めでも、優しさをくれた人。儚くも、懺悔の気持ちを込めてランプを灯そうと、指に意識を集中させる……すると、ランプは灯った。

 犬は一斉に解き放たれ、全身にとびかかる。肉を噛みちぎろうと首をブルブルと振っていた……まるで動物たちの仕返しのようだな。

「ふふ、良かった。これで、みんないなくなるね」

 スマホが視界の外へ行くと、僕を見つめる沙羅の顔が現れた。そして頭を撫でる感触。

 さっきの氷のような顔、今の木漏れ日のような顔、どっちが本当の沙羅なんだろうか。いや、どっちも沙羅なのか……。

「良かったね、漣君。嫌いな青山君も愛理も、これでやっといなくなるんだよ。漣君に片思いしてた梶ヶ谷君も」

 片想い……? まさか、僕をいつも見ていた理由って……。

「漣君も嫌でしょ? あり得ないもんね。本当に気持ち悪かったな、梶ヶ谷君。

 わたしね、相談されてたの。男の子を好きになるのは、有りかって。別に、それだけならどうでも良かったけど。漣君を好きみたいだったから、諦めさせたんだ」

 梶ヶ谷を根拠なく疑った自分が情けない。でも、そんなこと計り知れるわけが無い……。

 沙羅が、人の心を開かせるのに長けた人物と、身をもって分かっていたが……今は、人の心を食らう悪魔のように感じる。

 心を閉ざしていた僕を懐かせ、啓介に過去を吐き出させ、梶ヶ谷の悩みを聞き出した。そうやって、心を開いたがゆえに食われてしまったのだろう……みんな。心の壁が無いんだ。沙羅を疑う余地も無く、信じてしまうのは無理もない。

 そうして、沙羅は四票分となる三つの手駒を使って、場をコントロールしてきたという事だ……信頼は、最大の欠点になっていたのか……。

「あとは大橋君も、本当に邪魔だったんだ……漣君との間に土足で入ってくるのが、とっても許せなくって。

 漣君も要らないでしょ? あんな犯罪者。漣君には、私だけで良いの。私だけが、漣君を好きでいればいいの……ね?」

 たぶん人の気持ちは、どれだけ人類が進化しても解き明かされることは無いんだろうな。

 荏田の言う通りだ。目に見えるものが、全てというわけじゃなかった……。

「漣君はね、皆がいなくなった世界で私だけを見て、生きていけばいいの。そしたら、苦しまずに済むでしょ?

 大丈夫だよ。私がずっと、そばについてるから。だから、もう何も心配しなくて良いんだよ。

 すべて漣君のために捧げるんだ……ふふ」

 僕を好きだからといって、なぜここまでしたんだろうか。そもそも僕をなぜ、好きになってくれたんだろうか。

 死体の如く、身も心も冷え切っているのに、疑義だけは宙を舞う羽虫のように浮かんでくる。

 そして気づけば、啓介の気配も、沙羅の浴びた返り血も消失していた。

『只今の処刑結果の発表です。大橋啓介は生徒でした。それでは、帰りのホームルームの時間です』

 心が処刑されて廃人になると、神保さんは言っていた。操り人形のようにでも、なってしまうのだろうか……。

 優し気な眼で見下ろしてくる沙羅は、相変わらず無垢な笑みを浮かべている。そして、僕の頬を手で覆ってきた。

 より鮮明に伝う温もりは、冷めきった僕には心地よかった。見捨てられたと絶望した後だから、余計なのだろうか。ただ、僕の芯までは伝わってこなかった……やはり、絶望の壁は分厚いようだ。

『お疲れ様でした。以上で授業は終了です。

 永田漣、渋谷沙羅、両名は下校する事が可能となりました。下校時刻は十分後です……今回……の……こ』

 そこでノイズが入ると、ブツッと放送は終わってしまった。妙な途切れ方だ……こんなことは、今まで無かったのに。

 にしても、もう何日間も、ここにいた気分だ。このあと僕は、心を処刑されるのだろうが、その方が良いのかもしれない。立ち直ることは、もう不可能っぽいからな……。

 それに、沙羅が側にいてくれるというのなら……僕の世界は、もうそこで完結させてしまっても良いかもしれない。生きることに疲れてしまった。専ら、今の状態を生きていると言えるのなら……だけど。

「長かったよ……本当に長かったな。わたし、ずーっと待ってたの。

 漣君、ずっと気づいてくれないんだもん……」

 その瞳は、切なそうに潤んでいた。沙羅は、人前でこんな顔を見せるようなことは無かった。でも僕は、この瞳を知っている気がする……なぜだ――

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