閑話Ⅳ

生贄

 突然祭壇に現れた皇帝に、彼はどうすればいいのかわからなかった。このひと月で、皇帝に対する作法も学んだというのに。困惑し立ちつくす彼の足元では、トアは死人のような顔でガタガタと震え上がっている。なぜ、それほど皇帝を恐れているのか、彼はさっぱりわからず、ただただ困惑するしかなかった。

 いけ好かない男だけれども、トアは皇帝の側近の一人だ。なのに、死よりも皇帝を恐れている。


「……なぜ、ど、どうして」


 思い通りにならない足でもがきながら、トアはかすれた声でなぜどうしてとうわ言のようにくりかえす。

 祭壇の皇帝は、側近の無様な姿に落胆の息をついた。今さら何を言うのだと、哀れむように。それから、再度ため息をつくと、トアの足の怪我がみるみるうちに治っていく。流れ出ていた血すら、一滴残さず傷口から体内に戻っていった。怪我の痕跡は、服に空いた穴だけ。


「ひっ」


 怪我が治ったというのに、トアは少しも喜ばなかった。むしろ、さらに震え上がっている。真っ青を通り超えて白くなった顔は、涙と鼻水で目も当てられない。その震えて思い通りにならない体で、両膝と両手を床について頭を下げた。


「わ、わたしはっ、わたしは、身を粉にして陛下に誠心誠意お仕えしてまいりました! なのに、なのに、なぜわたくしなのですか!?」


 床にはられた水にぐっしょり濡れて懇願するトアは、無様だ。けれども、なりふり構わないほど追いつめられた者特有の気迫に、立ち尽くしていた彼は数歩後ずさる。


「まだまだ、わたしは陛下のご期待にお応えできます! なのに、なぜ! なぜ、こたびの生贄はわたしなのですか!」


 皇帝は、泰然と祭壇の上から見下ろしている。


「なぜですか! なぜ、わたしなのですか!!」


 なぜと繰り返し泣きわめき続ければ、これから先起こる受け入れがたい災難を避けられるとでも思っているのだろうか。そんなこと、あるはずもないというのに。無様に激しく泣きわめいていたトアの声も、弱々しくなっていった。

 そうして、ようやく皇帝は口を開いた。


「トア・ダダ上級神官」


 音楽的な皇帝の声は、抑揚なく淡々としていた。もはや、落胆も哀れみもそこにはなかった。

 無感情な声音だったけれども、耳朶だけでなく心まで震わせてくる。

 トアはのろのろと顔を上げた。全身の穴という穴から垂れ流された水分のせいで虚ろな顔は、目も当てられないほどひどい有様だ。


「これは慈悲だ」


 慈悲だと告げる皇帝の声は、しかし無感情なままだった。


「じ、ひ? じ、じひ、じひ……慈悲?」


 トアは、虚ろに繰り返してようやく言葉の意味を理解した。とはいえ、皇帝が言わんとするところまではわからなかった。


「これまでよく働いてくれたろう。報いてやらねば、わしが楽園で祖先に合わせる顔がない」


 慈悲だの、報いてやると言っているのに、皇帝は少しも慈悲深くない。それどころか、太陽の瞳は無慈悲に容赦なく輝き、整った薄い唇の端は少し吊り上がり冷笑している。まるで、トアを追い詰めるのを楽しんでいるようではないか。

 それでも、トアは「よく働いてくれた」の部分に、ありもしない希望を見出すだけの余裕が残っていたらしい。じたばたと手足を動かして、すがりつくように祭壇に這い寄る様は、実に無様で滑稽だ。かすかに、皇帝は冷笑を深めた。どこか満足げに。


「こ、これからも、わたしは……」

「トア上級神官」


 これ以上はみっともなくて聞いていられなくなったのか、皇帝はせせら笑う。


「これからなどあるわけがなかろう。最後にチャンスまで与えてやったというのに、まだ足掻こうというのか。トア上級神官、お前はわしにすべてを捧げると誓った。忘れたとは言ってくれるな」


 せせら笑いながら、皇帝は怒っていた。

 目をそらすこともできず成り行きを見守っている黒腕の彼は、初めて皇帝が人間らしく見えた。


「トア上級神官、お前はたしかによく働いてくれた。希少な魔法属性を実によく使いこなして、わしのために物語を紡いでくれた。ああ、そうだろう。お前は、まだよく働いてくれるだろう。だがな、お前のような者を重用するは、実に不愉快だ。わしが気づかぬとでも思うたか。常にお前が、わしをバケモノと蔑み恐れていることを!」


 皇帝は、もう笑っていなかった。抑えきれない怒りをぶつけられ、トアは魂が抜け落ちたようにへなへなと尻もちをついた。

 そんなトアに、皇帝は怒りだけでなく嫌悪感まで抑えきれなくなったようだ。


「わしに畏れでなく恐怖を抱いている者は、お前だけではない。それに、珍しくもない。わしは、人でありながら人を超越しておるからな。受け入れがたいのも、理解できる。だが、お前は……貴様は、わしにすべてを捧げると誓いながら、わしを嫌悪し続け敬おうとしなかった。貴様はたしかによく働いてくれた。それはわしに怯えていたからだ。敬意を払うこともなく、恐怖し怯え続けるものを、そばに置くことがどれほど不愉快か。そんなこともわからぬなら、今、生贄となり、誓いを果たしてもらうしかあるまい」


 もし、皇帝にこれほどまでに人間じみた一面を持っていると知っていたなら、トアも敬意を払えたかもしれない。けれども、遅すぎた。実際、皇帝が言った通り、トアは皇帝を恐れていた。身を粉にしてよく働いたのも、怯えていたからだ。期待に応えられなかったら、どのような恐怖が待っているのか、想像することすら恐ろしかった。

 呆然とするトアに、皇帝はなおも厳しい言葉を浴びせかける。


「貴様は己の行いを顧みたことはないのか。決して褒められることばかりではあるまい。わしが知らぬとでも思うたか。名門の出でない貴様は、上級神官までのし上がるために、どれだけの者を陥れてきたかを」


 姿を消し空気も同然となり、どんなに固く閉ざされた扉の向こうの秘密も暴ける。その稀な能力で、トアは数え切れないほどの人を陥れることで、上級神官となったのだ。中には、善人もいたし、その手腕は決して褒められるようなものではないのだ。そんな卑劣な者を、皇帝が高く評価してきたのは、やはり稀な能力ゆえだった。皇帝の物語を紡がせるのに、これほど適した能力はなかった。卑屈なトアの人となりに多少の問題があっても、皇帝はずいぶん大目に見てきたのだ。


「まさか貴様は、冥く険しい道をさまよい苦しむことなく楽園に招かれるとでも思うてたか!!」


 冥く険しい道とは、死した後に次の生を与えられるまでの魂の休息地である楽園に続く道だ。生前の行いによって、その道の長さは変わる。罪深い者ほど、苦しみの道は長くなる。

 トアとて、自分の行いが褒められたものではないとことくらいわかっていた。それでも、神ごとき皇帝のために身を粉にして働き続ければ、贖罪になると根拠もなく考えていた。死後、魂に断罪するのが大いなる神ではなく、眷属神の一柱だということから目を背けていた。

 少しでも、皇帝に敬意を示していれば、これほど惨めで無様なことにならなかっただろうか。

 トアは、ようやく理解できた。とはいえ、現状を受け入れたわけではない。受け入れられるわけがない。生贄など、とても受け入れられるわけがない。自分よりも他に適した者がいるはずだ。たとえば、ただただ傍観しているだけの忌まわしい異国から来た男とか。他にも自分より生贄にふさわしい者は大勢いる。今なら、これまでの行いを悔い改めて皇帝に敬意を示して、より一層期待に応えられるのではないか。

 けれども、今さらだ。皇帝にしてみれば、充分すぎるほど時間もチャンスも与えてきた。トアの後悔は遅すぎた。

 ひとつ息をついた皇帝は、あらためてトアを見下ろす。怒りも嫌悪感も、もう美しい顔にはなかった。ひどく冷淡に見下ろしている。もはや、トアに期待することなどないと言わんばかりに。表情は冷淡であったけれども、黄金の瞳の奥には怒りとは別の妖しげな激しさがくすぶっていた。

 皇帝は音もなく軽やかに祭壇から降り立つ。白皙の御足は水面の上で、しかも少しも濡れていない。片手で弄んでいた金の酒盃を祭壇に置いてから、生贄に歩み寄る。もったいぶるようなゆったりとした足取りは、先ほどまでの激しさが嘘のようだ。冷え冷えとした表情と相まって、見る者にたとえようのない恐怖を与える。

 あれほど怯え拒絶していた皇帝が近づいてきても、トアは虚ろな顔で身じろぎ一つしない。まるで魂が抜け落ちたように見えるけれども、皇帝が涙と鼻水で汚れた顔を覗き込むと、びくりと体を大きく震わせた。まだ、そこに魂はあるのだ。そして、そのことが皇帝にとってなによりも重要だった。すっかり絶望と恐怖に染まった魂をトアのうちに見出した皇帝は、とても嬉しそうに満足げに笑った。


「だから、これは慈悲だよ。冥く険しい道をさまようことなくわしの糧となるのだからな」


 乱暴に無様な顔を上げさせられたトアは、最期に目を見開きなにか言いかけた。けれども、皇帝はもう聞きたくないとばかりにトアの喉笛に噛みついた。あっという間に喉の一部を噛みちぎると、鮮やかな血しぶきが皇帝を赤く染め上げる。犯し難いほどの美貌を汚されたにもかかわらず、皇帝はまったく意に介さない。それどころか、噛みちぎった肉片を乱暴に噛み砕いて食べてしまう。盛大な赤く汚れた水しぶきを上げて床に沈み込んだ生贄を、皇帝は理性のかけらも感じさせない荒々しい動きで噛みちぎっては食べていく。

 人間性をかなぐり捨て野蛮な人喰いの獣に成り果てても、皇帝は美しかった。


 これほど美しい生き物は、大河の向こうの故郷はもちろん大陸西部の――いや、この地上のどこを探したところで他にいるわけがない。

 戸惑いながら、ことの成り行きを見守っていた彼は、すっかり皇帝から目が離せなくなった。魅せられていたと言い換えてもいい。これほど、胸が熱くなることなど、生まれてこの方一度としてなかった。

 「すべてを捧げろ」と皇帝が言っていた意味を、彼は今はっきりと理解した。

 胃袋が裏返るような激しく苦しい熱は、血腥い惨状に吐き気を覚えたというだけではない。


(こんな、こんなことが……)


 皇帝が告げていたように、肉の断片、骨の一欠片、髪の毛の一本、血の一滴に至るまで、すべてを捧げる。

 こんなに素晴らしいことはない。


 身を焦がさんばかりの熱に浮かされ、息苦しさすら覚えるほどだった。

 もともと生きる意味を見失って自暴自棄になって、無謀にも大河を渡ってきた彼だ。

 誰かに命を余さず捧げられるのは、彼にとって願ってもないこと。

 こんなに嬉しいことはない。


 どれくらい時間が経っただろうか。

 全身を鮮血でしとどに濡れた皇帝の足元に、形を留めているモノはほとんどなかった。床にはきれいな真水がはられていたというのに、生贄からこぼれ出た赤は少しも薄まっていないようだった。

 祭壇にある金の酒盃を気だるそうに手に取ると、皇帝をしとどに濡らし、石室の壁や天井まで赤く塗りつぶしている生贄の残骸が宙に浮かび上がる。たちまち酒盃の真上に赤い糸を巻き取るように集まっていく。とうてい酒盃に収まるような量ではなかった。けれども、禍々しい赤い糸玉がぐるぐると回転していくうちに、赤黒く凝縮されどろりと形が崩れ酒盃を満たしてしまった。祭壇の上に降臨したときの汚れ一つない姿に戻った皇帝は、粘り気の強い中身をうとましそうにゆっくりと飲み干す。

 トア・ダダという名の男が存在した名残は、床の水面に浮かぶズタズタに引き裂かれた服の残骸しかない。


 皇帝は、ようやく傍観している者がいたことを思い出したようだ。金の酒盃を祭壇に戻すと、怪訝そうに眉をひそめながら彼を見やる。


「なぜ笑っている?」


 そう言われた彼は、ぎこちなく口元に手をやった。そうしてようやく、自分が笑っていたことを知った。

 正直に興奮していたからだなどと答えるのは、どうにもはばかられた。かと言って、無視もできない。

 しばし沈黙してから、彼はむりやり口角を下げてから神妙に答えた。


「不敬をお許しください。陛下の体型が変わらないことが、可笑しくて、しらずしらずのうちに笑ってしまいました」

「……」


 皇帝は彼の言っている意味がわからず、怪訝そうな表情に苛立ちがかすかに浮かび上がる。

 無言でどういう意味かと問いただす皇帝に、彼は少し肩の力が抜いた。


「わたくしのような者には、どうにも大の大人一人分の体積がどうなったのか、とても奇妙に思えまして」


 つい笑ってしまったのだと、彼は申し訳なさそうに頭を垂れる。

 ようするに、成人男性一人分の体積が収まるような胃袋を持つ人間など常識的に考えてありえないことだ。


(さすが、神ごとき皇帝というわけか)


 常識が通用しなくても、驚くことではない。最初の頃に比べれば、かなり冷静に受け入れられるようになった。

 とはいえ、はやりあれほどの体積がどこに消えたのか、彼が不思議に思ったのもまた事実だ。


「……」


 彼が遠回しに言った意味を理解した皇帝は、二度三度、瞬きを繰り返して、自らの胃袋のあたりをなんとも言えない目つきで見下ろす。


「考えたこともなかったな」


 ゆっくりと首を横に振って、なんと皇帝は声に出して笑った。

 口に手をやり心底おかしそうにクスクス笑う皇帝は、まるで少年のようだった。

 思いがけない皇帝の反応に、彼は戸惑う。


(そういえば、この皇帝が神の器になったのはまだ十代だったな)


 神々しさは、どこにいってしまったのか。


「彼岸の王子は、考えることが違うな」


 満足するまで笑うと、いやはやと軽く首を横に振る。

 妙に人間らしい皇帝に、彼の気が緩むのは当然といえば当然のことだろう。これまでに二度、彼の前に現れた皇帝は、人間離れした神々しさに圧倒されてきたのだ。皇帝が人間らしさを見せたのも、自分に気を許してくれたからだと、誤解しても責められないはずだ。


「陛下、一つ確認したいのですが」

「よかろう」

「この黒い右腕を授けてくださる条件は、こういう意味だったのですか」


 そうだと、皇帝は鷹揚にうなずく。それから、また首を横に振る。


「なるほど、彼岸の王国では生贄のことも忘れ去ってしまったのだな」


 穏やかな皇帝の声音にかすかな寂寞が込められていたことに、彼は気がつかなかった。


「それを聞いて安心しました」

「安心だと。……はやりお前は奇妙な男だ」


 この石室で複数人を競わせて生贄を決めるのは、これが初めてではない。なので、大いなる神を眠らせ続けるために人を食らうという惨たらしい光景を目の当たりにしたのも、彼が初めてではない。

 生贄の意味を理解していても、大半の者が恐怖する。失神する者も珍しくない。トアのように、無様に命乞いするのもよくあることだった。その大半に属さない少数の者はどうかというと、なかば恍惚として人知を超えた大いなる神の御業に、より一層心酔する。その二つに分類され、例外は今回が初めてだった。あれほど嬉しそうに笑う者など、彼が初めてだったのだ。


「ええ、安心いたしました。わたくしは、すっかり性的な奉仕だと勘違いしていましたので」

「…………」


 すっかり気が緩んでしまった彼は、よせばいいのに恥ずかしい誤解をしていたのを笑い飛ばしてもらおうとした。

 だから、「性的な奉仕」と聞いた瞬間、皇帝の指がピクリと動いたことにまったく気がつかなかった。


「はっきり言って、わたくしに男相手にそのような奉仕が務まるとは思え……むぐっ」


 気恥ずかしさを誤魔化そうと言い募ろうとした彼の口は、理性の箍が外れた皇帝によってむりやり塞がれてしまった。

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