不協和音
ギルが冷淡に言い放つ。
「神ごとき皇帝は人を超越しているが、人の理に反することはない」
途端、不満をあらわにしていた部下は、まさに冷水を浴びせられたように顔をこわばらせて黙り込んだ。
「魔力を命に変換すれば、不老不死も夢じゃないだろうよ。だが、それは人の理に反している」
サガは、漠然とした恐れから口にしなかったけれども、もちろん不老不死の可能性に気がついていた。しばらく黙り込んだ彼は、やっと口をぎこちなく開きかけたけれども、上手く紡ぐ言葉を見失って、悔しそうに恥じ入るように口を閉じた。
「人ではなく神そのものだと僭称し、理から外れた行いをした皇帝が、どんな末路を迎えたか。お前が知らないわけがあるまい。あのお方は、なによりも人の理を重んじておられる。そうでなければ、異分子の俺を重用してくださるはずがない」
いつの間にか、ギルの声は熱を帯びている。彼が皇帝を語るとき、必ずといっていいほど、その声は異様なほど熱を帯びる。
この国で生まれ育ったサガには、理解しがたい熱だ。その熱が、サガはひどくうらやましくなる。なぜなら――
「まぁ、理を見失うほど興奮するのもわからんでもない。まぁ、俺が言うのもなんだがな」
いくらか声をやわらげて、ギルは軽く肩をすくめた。
部下を諭す彼の肉体は、神ごとき皇帝の御業で若返っている。常々、不本意極まりないなどと愚痴をこぼしているけれども、そんな彼が、不老不死の可能性を捨てろと言っているのだ。どう考えても、大いに説得力にかける。聞き分けのいい部下が、珍しく食ってくってかかるのもわからないでもないのだ。
(今回は、たまたま若返っただけなんだがな……)
とはいえ、ギルにしてみればめんどくさいの一言につきるだろう。
そもそも、別に皇帝は他人の肉体を好きなようにもてあそべる。今回若返る前にした皇帝とのやり取りを思い出してしまい、顔をしかめた。今回は、たまたま若返ったに過ぎないのだ。それも、あくまでも一時的に。皇帝の御業で変化した肉体ではあるけれども、彼の魔力は常に大量に消費されてしまう。つまり、命を削ってしまう危険性もあるのだ。こういったことも、愚痴を聞かされてきた部下が承知していないわけがない。
(それでも、魅力的なんだろうな)
彼は小さく息をついて、この話は切り上げることにした。
「ま、そうは言っても、俺もなぜ彼女を招き入れたのか、陛下が意図するところを知っているわけじゃない。絶対にありえんが、それでももし万が一、彼女の魔力を命に変換する体質を研究に使うためなら、それはそれで俺に異論の余地があるはずもなかろうよ」
それでようやく、サガの肩から力が抜けた。
結局のところ、彼らがどう議論をしたところで、すべては皇帝次第なのだ。
「だからな、サガ。戻っても余計なことを広めるんじゃないぞ」
釘を刺すのを忘れないギルに、サガは頭を下げた。
(ギルの言う通りでしょうね。この人は、なんだかんだで一番、皇帝陛下のお考えを理解しているんだから)
悔しくないと言ったら、嘘になる。それでも、神なき国からやってきた目の前の男を、神ごとき皇帝がとても重用しているのは事実として受け止めざる得ない。そして、この男が皇帝の期待以上の働きをこなし、誰にも代わりが務まらないことも、また事実。
彼の部下となって、もう数年が経つ。それでも、割り切れないがこうして時折、鎌首をもたげてしまう。
「いい加減、俺たちの仕事の話をしようじゃないか」
「はい」
すぐに顔を上げたサガは、いつもの人好きのする笑みを浮かべていた。
これから先も、何度も割り切れない暗い思いは鎌首をもたげることだろう。それでもかまわない。なんだかんだで、サガはこの男を尊敬しているのだから。
さらに夜は更けて、白の都ハウィンにそびえ立つ聖宮の奥深く。絨毯の上に座るマオを、ランプの灯りが暖かく包み込んでいる。ひどく物憂げにうつむく眼差しの先には、彼の膝を枕にして眠る兄がいる。今宵もマオは、首元をレースの立ち襟で覆っている青みがかった絹のドレスがよく似合う。
物憂げな様子で、しかしマオは長い指で兄の頬を二度三度と突っつた。それも、グイッとかなり容赦なく。突っつくだけでは飽き足らなかったのか、両手で頬をつまんでグイグイと縦に横に引っ張るではないか。実に、楚々とした月の淑女ごとき彼に似つかわしくない、子どもじみた行為だ。
ところが、どれほど白皙の美貌を好き勝手なぶられても、皇帝はぐっすりと寝入ったままだ。これは、世間に知られていないことだけれども、皇帝は一度寝入ってしまえば、頑として朝まで起きない。なによりも人の理を重んじる皇帝は、たとえ必要がなくとも、まだ名を持つ皇子であった頃の睡眠時間を維持することにこだわり続けているせいだ。
「……まったく」
好き勝手いじり回すのにも飽きて、その月光のような白い髪に添えられた髪飾りをそっと外した。
今日、皇帝が彼に贈ったばかりの髪飾りは、月に見立てた柔らかな輝きの
先ほど、好き勝手になぶったせいで、皇帝の髪は乱れている。マオは、髪飾りを手にしていないほうの手で兄の髪を整えると、そっと豊かな白髪の中に髪飾りの一部を沈めた。
自分よりもよく似合うと、マオは苦笑する。
よく似合って当たり前だとも。
この兄弟二人が並び立っても、太陽のごとく、月のごとくと讃えられているせいか、すぐに気がつく者はほとんどいないけれども、二人の顔立ちはとてもよく似ている。どちらも中性的で目鼻立ちがはっきりとしていて、この世のものとは思えないほど美しい。普段はその堂々たる立ち振る舞いのせいでわからないけれども、皇帝の穏やかな寝顔を無防備に晒している今ならば、ことさらよくわかる。
初めこそ、いたずらっぽく微笑んでいたマオだった。すぐにまた顔を曇らせて、髪飾りをさっと引き抜く。
実のところ、女らしく着飾りたいのは兄の方ではないか。自分はただ、叶えられない願望を押しつけられているのではないか。時々、マオは本気でそう考えずにいられない。
マオは、考えつくいたずらを一通りやり尽くしてしまったせいで、手持ちぶさたになった。
そろそろ、膝を貸していることにも飽きてきた。どうせ起きるまいと、やや乱暴に神ごとき皇帝の頭を膝からどかした。ゴツンと鈍い音が響いたものの、美しい顔を絨毯に沈めた皇帝はうめき声一つ漏らさない。
少しくらい反応してくれればと、つまらなそうに鼻を鳴らしつつも、マオは兄を仰向けに姿勢を整えてやる。
「どうして、夜になると世話が焼けるんでしょうねぇ」
絹のガウンの襟元に続いて、乱れた髪を整える。
昼間の堂々たる兄しか知らない多くの者たちに、この体たらくを見せてやりたいものだ。
優しくない手つきで兄を整えてやると、最後にペチンと額を叩く。
少しの間、マオはなんともいえない複雑な面持ちで兄を見つめていた。それから小さく息をつくと、かたわらに置いてあったパンフルートを手に取り気だるそうに立ち上がる。
夜風に吹かれて、気ままに吹いてみたくなったのだ。
けれども、数歩も兄から離れないうちに、部屋の暗がりから声がした。
「マオ様」
控えめな若い女の声に、マオは足を止める。
「ようやく来たか」
今夜、待っていた男がようやく来たと、マオは声だけでなく顔つきまで厳しくなった。
庭園に向けられていた足は、暗がりの先へと向きを変えた。
この頃、聖宮が騒がしい。
神ごとき皇帝が、また壁の向こうから異国の者を民にと迎え入れた。初めは、ただの噂にすぎなかった。けれども、噂で充分すぎた。
タイミングが悪すぎる。そんなこともわからないはずがないというのに、兄はなぜ聖宮内に必要以上に騒がせるのか。
聖宮の奥まで飛び交っている噂の数々が、マオには非常に耳障りな不協和音でしかない。
噂が事実だと知れ渡ると、さらに耳障りとなった。
慎重にならなければならない時期だというのに、まったくなんてことをしてくれたのだろうか。
天性の楽才に恵まれているマオにとって、今の聖宮はとても不快だった。
憂いを帯びた顔で回廊を歩くマオは、まさに月の女神。
今は夜。
頑なな皇帝も眠りについた今、聖宮の奥深くから進み出るのを阻むものは誰もいない。
やがて広くない部屋で椅子に腰を下ろした彼は、両膝をついてひざまずく人影に、毅然とした面持ちで凛とした声で命じた。
「顔を上げなさい。魔法使いサガ」
兄がなんと言おうと、何を考えていようが、神の国に災いをもたらすのなら、異分子は排除しなければならない。
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