異国からの女

 少しでも早く、魔力をコントロールできるようになる。

 それが、リディの最優先すべき課題。


 帝国で生きていくために必要な魔力の知識を叩きこませると、サガはギルに連れられてどこかに行ってしまった。どうやら、彼女がまだ知らないギルの仕事をしに行ったらしい。

 なので、リディは一人きりだ。


 ティ、ティティテッテテッ……ティ………………


 サガからもらった魔道具の一つは、八角柱のオルゴールだった。

 ベッドの反対側の壁際にある書き物机に肘をついた彼女は、左右の手のひらで横にしたオルゴールを挟み込んでいる。


 ティン、ティティ……ン、ティ……


 本来なら軽快なメロディーを奏でるはずのオルゴールは、今にも止まりそうだ。

 オルゴールは、魔道具だ。もちろん、魔力で動く。適切な量の魔力を一定に保って流し続けると、鼻歌を歌いたくなるような軽快なメロディーを奏でてくれる。多すぎては、早すぎて耳障りな音になる。少なすぎたり、魔力の量が不安定だととぎれとぎれになったりする。


「集中、集中、平常心、平常心」


 サガに教わったコツを呪文のように繰り返すけれども、うまくいかない。

 オルゴールを作動させるのは、とても簡単だ。

 魔道具を作動させるのは、動くように意識するだけでいい。リディのような魔力の扱いに慣れていない者でも、容易に動かせる。そうでなくては、魔道具が普及するわけがない。けれども、安定して作動させ続けるのには、案外難しいのだと思い知らされている。

 しかも、とぎれとぎれの金属音にイライラしてしまうので、なかなか集中力を保つのは難しい。このオルゴールは、魔力操作の基礎を身につけるのに最適なのだ。


「今日は、もうやめよ。最初からうまくいくわけないもの」


 声に出して言い聞かせるのは、これが三度目。声に出さずに言い聞かせた回数は、数え切れない。あきらめの悪い彼女は、ようやくオルゴールを机においた。


 オルゴールは、八枚のくすんだ金属の側板には、複雑に絡み合った蔦模様のレリーフが施されている。サガは、「新品でなくて申し訳ない」と言っていたけれども、所々にある古い傷や凹みが骨董品らしくて、彼女はすっかり気に入っている。


(この国にも、蚤の市はあるのかしら)


 あったら、ぜひ行ってみたい。

 父の影響で、彼女は蚤の市が大好きだった。祖国の蚤の市の賑わいを思い出す。

 寒空の下で「風邪を引いたら、ママに叱られるから」と自分の心配していた恐妻家の父は、いつも言葉とは裏腹に一人娘と掘り出し物を探すのを楽しんでいた。

 娘のこととなると普段の三倍は神経質になる母は、ブツブツ文句を言いながらも、月に一度の蚤の市に送り出してくれていた。雪だるまのように厚着させられた上に、長過ぎるマフラーでグルグル巻きにされるのは不快だったけど、我慢できた。


「父さん、母さん」


 もう会えないのだと、初めて胸が苦しくなった。

 今さらながら、郷愁の念がこみ上げてくる。

 今、彼女一人きりだ。少しくらい泣いてもいいのではと気が緩んだら、もう駄目だった。


「ふぇん」


 わかっていたつもりだった。なのに、まったくわかっていなかった。

 帰れないことが、こんなにも辛いことだとは。


 どのくらい泣き続けていたのだろうか。

 気がついたときには、部屋はすっかり暗くなっていた。


「お腹、空いた」


 ぼそっとつぶやいて思い出した。お昼はリンゴしか食べてなかったことを。

 気がすむまで泣いたあとで、なにもかもが億劫だ。とはいえ、何も食べないわけにはいかない。


 重い腰を上げて顔を洗った彼女は、重い足取りで食堂に向かう。

 空腹を満たして戻ってきたら、すぐに寝てしまおうと決めた。

 今日は、いろいろとありすぎた。もう今日は、夕食を食べたらおしまい。――そう、彼女は考えていた。




 ギルがサガを連れてきたのは、彼女がいる空を泳ぐ魚亭からトラムで三つ離れた停車場の近くにある高級旅館の一室。


 広々とした部屋に通されたサガは、思わず苦笑してしまった。


(リディさんが知ったら、きっと怒るでしょうね)


 おそらく、老舗旅館が半壊する

 使い古されているものの手入れの行き届いている高価な家具と調度品が備え付けられた部屋は、空を泳ぐ魚亭の部屋の三倍の広さはある。しかも、寝室は別だ。

 窓を背にしてどっしりとした執務机が存在感を放っているのは、この旅館がニーカの壁外部にある領事館や商館を相手にする高官や豪商を顧客にしているからだろう。そう、帝国の中枢にたった五人しかいない上級神官の一人であるギルのような者が宿泊するような旅館だ。


(リディさん、きっとこの人がどういう人か知らないんでしょうね)


 国中に異名とともにその名を轟かせているほどの傑物だと彼女が知ったらどんな顔をするのだろうか。この街の案件が解決すれば、彼女も知ることになる。ぜひともその場に居合わせたいものだと、サガの涼し気な青い瞳にいたずらっぽい光が走った。


 サガから市場の出来事を詳しく聞き出すと、ギルはしばらく左手で耳たぶをつまみながら尋ねる。


「それで、どう思った?」

「リディさんをですか?」


 いちいち確認するまでもないだろうと、ギルは部下を一瞥して返事を待つ。


「実に興味深いと思いますよ。前情報と、ずいぶん違いましたし」

「あれか、神経質ってやつだろ」

「ええ。少なくとも、僕が想像していた神経質な女性は、ヒステリックで自分本位で、赤の他人のために揉め事に首を突っ込んだりしませんよ」


 ギルは、同感だと大きくうなずいた。


「でも、一番意外だったのは、本当に女性だったとこですね」

「それは、前情報通りだろ。男だったら、なぜお前に女物の古着を用意するんだ?」

「ええ、まぁ、そうですけど……」


 きまり悪そうに身じろぎした部下に、ギルは呆れて耳たぶから手を離してしまう。

 ただでさえ異端者、変わり者で通っているギルだが、男に女物の服を与えるほど酔狂ではない。そんなことくらい、サガが知らないわけがないはずだろうが――と、ギルは裏切られた気分だった。


「なぁ、サガ、野郎に女物の服を着せて女装を強いるとか、それはもう変た…………」


 上司が「変態」と言い終える前に、有能な部下はコホンと咳払いをすると、険しい目つきで首をゆっくり横に振る。それを見て、ギルはしまったと頭を抱えた。


(……いたよ。あっぶねぇ)


 男に女装を強いるのが変態ならば、神ごとき皇帝も変態ということになるではないか。

 皇帝が実弟のマオに女として振る舞うように強いていることは、この国では有名な話だ。それは、マオの裡に宿る眷属神が女神であるために、必要な儀式的なこととされている。けれども、ギルに限らず皇帝の人となりを知る者ならば、一度ならずともこう疑念を抱かずにいられない。

 ――実は、皇帝の趣味なんじゃね。


 身も心も捧げている主君を、ギルは危うく変態呼ばわりするところだった。もし、有能な部下が止めてくれなかったらと考えるだけで、背筋が凍りつく。

 とはいえ、ギルがうっかり口を滑らせてしまうのもしかたない。

 マオが男だと知識として知らなければ、誰も彼の性別を自力で暴くことはできない。知っていても、男であることを忘れて見とれてしまうほどの美貌なのだから。

 しかも、皇帝はマオに女装を強いるだけでなく、何かにつけギルを女体化させたがる。


(…………余計なことを思い出した)


 暇を持て余した神ごとき皇帝の嫌がらせの数々を、危うく思い出しそうになった。ギルは、強く目を閉じてどうにかこらえる。


「しかたないじゃないですか、別に僕だけじゃないですよ。ハウィンに広まっているのは、陛下がまた異国の男を招き入れたらしいって噂ですから」

「……もう噂になっていたのか?」

「ええ、ハウィンじゃその話でもちきりですよ。先日、マオ様から諌めてもらおうとした身の程知らずの輩が、排除されてから、一気に広まった感じですね」


 ますます頭の痛いことになってきたと、ギルはこめかみを揉む。

 実のところ、サガがリディの性別を誤解していたのはしかたない。ギルはしっかり原因も含めて理解していた。

 名前だ。リディアという名前は、帝国では珍妙な男性名になってしまう。

 出会ったばかりの彼女に、馴れ馴れしくも愛称のリディを名乗るように言い聞かせたのには、そういう事情もあった。リディならば、女性名になるし、珍しくない名前になる。


(リディアが男と誤解されるのはしかたないことだが、噂で広まっているとなると、しかたないですむのか、これ)


 余計な――それもほとんどが好意的でないに決まっている憶測が、すでに飛び交っているのは、リディにとって決して好ましい状況ではない。とはいえ、まだしばらくはニーカを離れられない。今はまだ頭を悩ませてもしかたないと、左手をおろして顔を上げる。まだきまり悪そうにたたずむ部下に、「他には?」とそっけない調子で尋ねる。

 すでにギルは、居住まいを正した部下がなんと答えるか知っていたし、サガもそれを承知している。ようするに、ここからが異国からきた女についての本題だ。


「本来、不可逆である魔力が命に変換されていたことも、大変興味深いです。いえ、違いますね、興味深いなんて言葉では、とても言い表せないほど、衝撃でしたよ。正直、あなたから話を聞いたときは、くだらない冗談だと、信じられませんでした。でも、彼女に会って、嘘ではないとわかりました。市場で見かけた彼女の魔力、あれは、あれはいったいなんなんですか。目を疑いましたよ。あれほど、あれほど、肉体に深く根ざしている魔力なんて……早く帰って、ニネイに……」

「おい、ちょっと待て」


 興奮して堰を切ったようにまくし立てる部下に、なんとも言えない複雑な顔をしていたギルは、彼が妻の名前を口にした途端、話を遮った。


「サガ、お前、まさか話していないよな?」


 何を話していないのかは、言われなくてもわかった。咎めるようなギルの追求に、興奮のあまり爛々と輝いていた瞳が揺れる。


「ギルの話が信じられなかったから、少し相談しただけですよ」

「相談しただけ?」

「ええ。たとえ話ですよ。たとえば、中途半端な治癒魔法が原因で、魔力が命に変換されることはあるのか、とか。具体的で細かいことは、まだ話してません」

「まだ話していないなら、二度と話すな」


 ニネイは、魔法学の研究者だ。

 近年、帝国では魔道具の開発研究に力を注ぐようになり、魔法学の権威は衰え始めている。そこに、不可能とされてきた魔力を命に変換する人間がやってきたのだ。

 魔力を命に変換する方法を研究すれば、誰も成功したことがない自己治癒魔法が可能になるかもしれない。寿命を伸ばしたり、肉体の老化を抑えられるかもしれない。

 なにがなんでも、研究し、成果を上げて、再びかつての権威を取り戻したい。魔法学の研究者にとって、リディの特異な魔力はとても魅力的な研究対象だ。


「人体を使った実験は、禁じられている。大罪だ。バレたら、ただじゃすまない」


 針のように細い目でも、どういうわけか藍色の眼光が鋭く向けられているのがよくわかる。

 サガは、ギルの鋭い眼光が苦手だ。どうにも落ち着かない気分にさせられるからだ。ことに、わずかでも後ろめたいことがあるときは。


「わかっていますよ。僕もニネイも、禁忌くらい理解しています。それに……いえ、なんでもありません」


 自ら進んで研究対象となるなら、問題はない。と、サガは続けられなかった。

 どう考えても、今日はじめて魔法の基礎の基礎を教えたばかりのリディに、自由意志で自ら研究対象に志願など、無理がある。


(どんなに言葉を尽くしても、志願するよう誘導したと判断されるでしょうね)


 少なくとも、今のままでは。


「どうやら、僕は先走りすぎたようですね」


 サガは肩を落として、自分に非があると認めるしかなかった。

 それでも、彼は妻に研究者として大きな成果を上げてほしかった。近年、耳目を集めるような大きな研究成果がない。年々、魔道具開発に取って代わられようとしている魔法学の関係者には、リディは格好の研究対象になるはずだったのだ。

 権威が揺らぎ始めた魔法使いの一人として、魔法学の研究者の夫として、サガは非を認めた上でまだ諦められなかった。


「でも、皇帝陛下がそのために彼女を迎えたなら……」

「ありえんな。ありえないんだよ、あのお方に限って」


 すがるように食い下がろうとした部下に、ギルは冷ややかに言い切る。

 サガは、口を閉じた。不服そうに唇を噛んでいる彼は、まだ言い足りないのだろう。


(まったく、面倒なことになってきたな)


 ギルは、やれやれと小さく息をついた。

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