第五章
リディの失態
生命維持に消費されていた魔力が解放されてから、リディの寝起きは格段によくなっている。今まではすっきり目が覚めることなんて、めったになかった。それこそ、一年に一回あるかないかくらいで、朝は一日のうちで一番嫌いな時間だったのだ。
サガから魔力操作の基礎訓練を指導してもらった翌日も、もちろんすっきり目が覚めた。前日の疲れを持ち越さない朝は、大変素晴らしい。
「ん〜〜、よく寝たぁ」
指を組んだ両手を天井に目一杯伸ばすと、布団を跳ね飛ばさんばかりの勢いで体を起こす。
神の国に来てから、朝はちっとも嫌な時間ではなくなった。
ベッドの上で居住まいを正すと、声に出さずに朝の祈りを捧げる。手順を踏まえずに心のなかで今日の無事を大いなる神に祈るなど、以前の自分が知ったら卒倒するだろう。
(そういえば、昨夜はちょっと騒ぎすぎたわね)
姿勢を崩して、彼女は顔をしかめる。目立つ行為は避けるように口酸っぱく言い聞かせてくる保護者に知られたらとまで考えて、彼女は激しく首を横に振った。
(昨夜はいなかったんだから、大丈夫に決まってるわ)
せっかくの心地よい朝を自分で台無しにすることはない。
いつ戻ってくるかわからないけれども、とにかくギルが戻ってくる前に、身支度しなければ。
パシッと両頬を叩いて気持ちを切り替えると、天蓋の向こうの窓際からギシリと身じろぎする音がした。
昨夜の後ろめたさを顔に出さないよう気をつけながら、リディは天蓋から頭だけ出した。
はやり、窓際の寝椅子にいたのはギルだった。あぐらをかいた膝の上に広げた書類を、真剣に読みこんでいる。左手で耳たぶをつまんでいるので、かなり難しいことを考えているようだ。
「……おはよう」
邪魔してはいけないと思いつつも、彼がいては身支度ができない。
リディが声をかけると、ギルはさっと無造作に書類をまとめて顔を上げた。思いがけず真剣な顔のままだったので、彼女は少し怖くなった。
「おはよう? こんにちは、の間違いだろ」
「え?」
「もう十一時すぎている」
「うそぉおおおお!」
急いで枕の下から懐中時計を引っ張り出して確認すると、十一時を二十六分もすぎていた。
どんなに朝に弱くても、体調をひどく壊さない限り、寝坊することなんて一度もなかった。ヤスヴァリード教の信徒として、規則正しい生活を送るのは義務だとすら彼女は考えていたほどだ。
目を閉じて額を手で抑えたところで、寝坊した事実は変わらない。
(わたしとしたことが……なんたること)
しばらくして、気持ちを落ち着かせた彼女は再び天蓋からそうっと顔を出す。
「……」
寝椅子にあぐらをかいていたギルは、なぜかすぐ目の前で待ち構えていた。普段は弧を描いている細い目の目尻が、明らかに吊り上がっている。
(あ、やっぱりわたしに怒ってる)
心当たりがあるので、少しも意外ではなかった。知られたら、絶対に怒られるだけのことを昨夜やらかしている。宿を離れていたので、ひょっとしたら彼に知られずにすむかもしれない。そんな期待もしていたけれども、やはり現実は甘くなかったようだ。
ほんのわずかな沈黙にも居心地悪くなり、ぎこちなく口を動かした。
「…………こ、こんにちは、ギル」
「……」
「えーっと、その……」
口から生まれてきたような男がただ黙っているだけで、居心地が悪くなる。ましてや、今のリディは後ろ暗い心当たりがあるのだから、なおさらだ。
「ギル? 昨夜のことは……」
「五分だ」
「え?」
とりあえず謝ろうとしたけれども、ギルは険しい声で遮る。
「五分で身支度しろ」
「え!」
「それから、じっくり説教してやる」
有無言わせない厳しい口調に、リディは思わずすくみ上がりそうになる。
「で、でも、五分じゃ……」
「文句が言える立場か!」
「ひっ、わ、わかりました」
どう考えても、文句が言える立場ではない。ぶんぶんと勢いよく首を縦に振る彼女の耳に、腹立たしそうにドアが閉まる音が届く。
(どうしよう。思ってたより怒ってるわ)
慌ただしく身支度を始めながら、昨夜の自分の顔を思いっきり手形が残るくらいひっぱたいてやりたかった。もし過去に戻れるなら、昨夜、食堂に行く前からやり直したい。
そう、リディは昨日の市場の出来事を反省して、目立たないように言動を慎むと決めていた。たしかに心に決めていたのだけれども、その決意はその日のうちに台無しになってしまったのだ。
彼女たちが滞在している空を泳ぐ魚亭は、大衆食堂としても評判がいい。ニーカでも、五本の指に入るほどの人気店だ。旅館も兼ねているので、出稼ぎ労働者を主とするよそ者が多いけれども、同じくらい地元民の常連客がいる。リディが昼間経験したように、この街の住人はよそ者を毛嫌いしている。
(今まで気がつかなかったけど、なんか境界線みたいなのがあるのね)
明らかに郊外にあるという国営の魔道具工場で働いているらしい体格のよい労働者のグループと家族連れを初めとした地元民らしきグループと、見えない境界線のようなものがあった。お互い、相手が存在しないものとするというような暗黙の了解があるようだと、リディは悟った。考えてみれば、ギルに連れられて食堂に来るとき、彼は必ず労働者たちのよそ者側のテーブルを選んでいた。
(そういえば、結局聞き忘れたわね)
明日にでも、なぜよそ者が嫌われているのか教えてもらわなければ。もしかしたら、背景になにか納得せざるえない事情があるかもしれない。市場で衝動的に声を上げてしまったけれども、事情をきちんと理解していれば、もっと穏便にことをおさめられたかもしれない。
(ううん、やっぱりやってもいないのに泥棒呼ばわりするのは、どんな事情があっても間違っているわ)
軽く息をついて、気を取り直して空いているテーブルを探そうとあらためて食堂を見渡す。すると、見覚えのある顔を見つけてしまった。向こうも、彼女に気がついたようで、防ぎようもなく目があってしまった。
「……」
「……」
先に気まずそうに目をそらしたのは、保安神官のベイズだった。仕事を終えたからか、例の腕章をつけた神官服ではなく、くたびれた黒っぽいジャケットを羽織っている。それから、ちょうどリディに背を向けて彼と飲み食いしているのは、間違いなくあの後輩神官だろう。ベイズの後ろめたそうな視線をたどるように振り返った後輩は、いきなりリディに指を突きつける。
「あ、お前!!」
せっかく昼間のことを置いておいて、夕食を楽しもうとしていたというのに、なんたること。まさか、こんなところでこんなときに、顔を合わせてしまうとは。
リディは思わずフンと鼻を鳴らして、失礼な神官を睨む。それから、すぐにまずいと気がついた。
(えーっと、どうしよう。ギルがいないのに、他人と関わるのは、絶対にまずいわよね)
内心とても焦っている彼女だけれども、腰に当てた両手を下ろすのは問題外だった。どう考えても、自分は悪くないのだから。そう言い聞かせると、少し冷静さが戻ってきた。
(焦ることないわ。お高く止まって出ていけばいいのよ)
母親をお手本にして、祖国でよくやっていたではないか。些細なことでも不愉快だと感じれば、同じ空気も吸いたくないとばかりに立ち去る。おそらくそれもあって、母親に似て神経質だと避けられて友だちがまったくといっていいほどいなかったのだけれども。ただし祖国を出るときに、従妹から「そういう態度は、絶対にやめて」と誓わされてからは、母ではなく周囲を見習って丸くなろうとしてきた。
夕食は諦めることになるけれども、市場のように頭に血が上って考えるよりも先になにかやらかすよりはずっとマシだ。今は、魔力の暴走を未然に防いでくれたサガもいない。
思いっきり傲慢でいけ好かない顔をするのは、ちっとも難しくなかった。
「よさないか、イオ」
先輩がなだめるのも無視して、後輩神官のイオは憤然として席を立った。
「お前、よくも昼間……」
もう一度鼻を鳴らして、これ以上一声だって聞きたくない。耳が汚れると全身で表した。あとは、踵を返して立ち去るだけ――だった。
「やっぱり、ねえちゃんだったのか!」
「……っ」
すぐ後ろから大きな声がしたと思ったら、大きな無骨な手が背中をポンポンと軽く叩いてきた。
突然のことにぎこちなく振り返ると、ごつい男たちが三人もいた。彼女の背中を叩いてきたのは、初日にギルがロバの持ち主の行方を尋ねた赤毛の男だった。強面の顔は、ごきげんな笑顔が満面に広がっている。あれから、何度かギルと一緒にいるときに挨拶程度は交わしたりはしていたけれども、いまだに名前も知らないような他人だ。
「聞いたぜ、ロバを連れたねえちゃんが市場でえこ贔屓神官どもにギャフンと言わせたってよ!!」
「あ、そ、それは……」
実際には、サガがあれこれペラペラとまくし立てて相手を黙らせたのだ。けれども、早くも噂は誇張され間違って広まっているらしい。
どう訂正しようかと頭を悩ませるよりも早く、大男は仕事帰りの神官二人に向かって猛々しく笑う。
「市場で恥をかいたのは、自業自得だってのに、まだこのねえちゃんにイチャモンつけようってのか?」
「……そ、それは、誤解だ」
赤くしたり青くしたりと忙しなく顔色を変えて狼狽えながらも、イオは言い返そうと口をもごもごと動かす。けれども、初めから大男は彼の言い分など聞く耳を持っていなかった。そして、聞く耳を持っていなかったのは、大男だけではなかった。
「そうだそうだ! 俺たち『よそモン』がいなかったら、こんな辺鄙な町、廃れたままだろうよ」
「何様のつもりだ。この町にたまたま生まれたってだけで、いつまでも偉そうにデカい顔してるんじゃねぇよ」
「五年前のいざこざなんざ、俺たちになんの関係があるってんだ」
「魔道具の街とかほざいていられるのは誰のおかげか、いい加減はっきり認めたらどうなんだ」
などは、まだよいほうで、そのほとんどはリディでなくても、聞くに堪えない悪辣な罵詈雑言が食堂に飛び交った。いや、一方的によそ者の労働者側が地元の住人たちに浴びせかけていたというのが、正解だろう。
これまでたまりにたまっていた鬱憤が、一気に吹き出したみたいだ。
(え、どうしよう。これは、とってもまずいんじゃ……)
腰に手を当てたまま、リディの表情はどんどん強張っていく。よそ者に偏見を抱いている住人が応戦して収拾がつかなくなったら、非常にまずい。まずいなんてものではない。
けれども、リディの予想に反して住人たちは何も言い返さない。きっかけとなった神官と同じように、悔しそうに体を震わせているのがほとんどだった。そうでない住人たちは、顔をこわばらせて早々に逃げるように立ち去っていた。
(どうして何も言い返さないのかしら)
事態が悪化することはなさそうだと胸をなでおろすのと同時に、拍子抜けした。不可解な状況に思わず両手を下ろした彼女をよそに、よそ者たちの罵詈雑言は続いている。何事かと奥から飛び出してきた店員らしき男が、「またか」とぼやいた声が偶然彼女の耳に届いた。
しばらくして、食堂に残った客はよそ者だけになった。後輩を宥めたベイズは立ち去る前に、リディになにか言いたそうだった。想定外の事態に安堵しつつも困惑していた彼女は、彼らがいつ立ち去ったのかすら気がついていなかったけれども。
騒動のきっかけになってしまったリディは、案じていたほど大事にならなかったのを見届けて部屋に戻ろうとした。けれども――
「ロバのねえちゃん、待ちなって!!」
あの赤毛の大男に半ば強引に呼び止められてしまった。先ほどまであれほど険悪だったのに、今はとても上機嫌だ。
「ねえちゃん、せっかくだ、俺たちに飯を奢らせてくれ」
リーダー格の彼が誘うと、他の男たちに口々にリディを褒め立てた。いわく、「あんたはすごい」「市場じゃ、よく言ってくれた」などなど、まるで彼女が大活躍したみたいに。
(わたしは、考えなしに首を突っ込んだだけで、サガさんがいなかったらどうなっていたのかわからないのに)
そう考えつつも、嫌な気はしなかった。
あれからずっと市場で首をつっこむべきではなかったのではと、もんもんとしていたのだ。全面的に肯定されるどころか、褒め称えられて嬉しくないわけがなかった。
「じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
普段の彼女なら、野蛮とまではいかないけれども荒々しい男たちの誘いに一人で乗るようなことはしなかっただろう。
けれども、褒められてすっかり気を許してしまった。少しだけなら、大丈夫だろう。ただ空腹を満たせる程度に食べて、さっさと部屋に戻ればいい。
「わたしは、大したことしていないんです」
「またまた謙遜をぉ」
「ささ、遠慮せずに飲んで食べてくださいよ、ねえさん」
彼らに誘われるままに、食堂で一番大きなテーブルにつくと、なんの気なしに目の前のコップを手に取り、一気に飲み干す。自覚なかったものの、すっかり喉が渇いていたのだ。コップの中身は初めて飲む奇妙な味がしたけれども、不味いわけではなかった。
「ねえちゃん、いい飲みっぷりだねぇ」
「ふぇ?」
この夜、リディは初めて酒を飲んだ。それこそが、彼女の失態の本当の始まりだった。
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