魔法使いの講義 〜聖水について〜

 サガは、余計な仕事を増やしてしまった自分を恨めし思った。

 この国で生きていく上でもっとも重要なことを、詳しくないからといい加減に教えたギルがもちろん悪い。誰がどう考えても、ギルの落ち度だ。それも、保護者失格と言っても過言ではないほどの。

 詳しくないと言っているけれども、どこまで本当かわかったものではない。

 彼は知る由もないけれども、冷徹な賢王と称される神なき国の現国王コーネリアスが唯一敵に回したくない者、それがすぐ上の兄であるギルだ。曰く、底が知れない頭脳の持ち主

 能ある鷹は爪を隠すと異国に伝わるらしいことわざが、ギル以上にふさわしい人をサガは知らない。


(絶対、始めっから僕に押しつける気満々だったに決まっている)


 面倒事を押しつけられるのは、これが初めてではない。ある程度は、覚悟していたにもかかわらず、サガは恨めしかった。上司のギルよりも、自分が恨めしい。


 なにも、サガが引き受けることはないのだ。

 異国から来たリディが、知識不足で自滅しようと、まったく関わりのない話だ。たしかに大変興味深い女性ではあるけれども、彼女がどうなろうと一切関係ない。

 責任を負うとしたら、保護者のギルだ。信頼されているとはいえ、部下のサガにはなんの責任はない。

 別にギルはサガに教師役をするように命じたわけではない。サガが自分から進んで申し出たことだ。


(もっとマシな上司だったら、余計な仕事をしなくてすむんだろうか)


 幾度となく繰り返してきた虚しい考えを頭から締め出すために、サガはシーツと物干し竿の天蓋もどきに目を向けた。正確には、天蓋もどきの奥でゴソゴソと支度をしているだろう人影に。

 リディにとって、サガの申し出は願ってもないことだった。

 あのざっくりとしたギルの説明で、納得できるわけがなかった。今まで自分の中に眠っていた未知なる力のことは、ざっくりとではなくしっかり把握しておきたかった。


(この街を出てからってギルは言ってたけど、サガさんが来てくれてよかったわ。……あれ、そういえば)


 ギルは、なぜ部下のサガを紹介してくれたのだろうか。魔法について教えてくれるのは、成り行きだろう。別に目的があったはずだ。


(まぁいいわ。すぐにわかることでしょうし)


 それに、確信はないけれども、不愉快な目的ではないはずだ。

 リディはプライベート空間であるベッドと壁の間に押しこんである旅行かばんを引っ張りだす。ギルに見られたくない私物は、このかばんにまとめている。なお、ギルには大いなる神にかけて、かばんに触れないことを誓わせている。帝国に持ちこんだときは軽かったけれども、この数日のうちに、かばんはパンパンに膨らんでいた。

 ベッドの上でかばんを開いて、日記帳を探す。昨日、ギルとともに街を巡っているときに、緑の布張りの表紙に惹かれて購入した分厚い日記帳。その横には、持ちこんだ文箱があった。


(やっぱり燃やせないわね)


 従妹宛に書いた弱気な手紙たちを、北壁を越えたらすぐにでも文箱ごと燃やすつもりだった。何度も処分しようと手にとった。その度に、何かしら自分に言い訳をして先延ばしにしてきた。今では、弱気な手紙も後で読み返すときがきたら、きっと大切な思い出になっているだろう。そんな予感を抱きながら、旅行かばんに閉まっておくことに決めていた。

 旅行かばんを元の場所に押しこんで、彼女は日記帳と鉛筆を持って天蓋もどきの外に出る。


「おまたせしました」


 せっかく丁寧に魔法について教えてくれることになったのだから、耳で聞くだけでなく、ちゃんと書きとめておかなければ。そう考えて、彼女は断りを入れてノートがわりに日記帳を取りに行ったのだった。

 何か思案にふけっていた様子のサガは、すぐに人当たりのよい笑みを浮かべて、テーブル越しの椅子に座るようにうながす。

 テーブルの上には、先程までなかった物がいくつか並べられている。なんだろうと興味を惹かれながら椅子に座った。


「まずは、こちらを」


 日記帳を広げようとしたリディに、彼はテーブルの上にあった切子細工が美しい小瓶を差し出した。考えるまもなくうけとってしまった彼女の手にもすっぽりと収まってしまうほど小さな小瓶には、透明な液体が入っている。ガラス越しにも伝わってくるひんやりとした冷たさが心地よくて、彼女は無意識のうちに両手でかわるがわる握りしめていた。


「聖水です」

「聖水って教会の?」


 リディは聖水と聞いて、聖石を清めるために使われるとギルが言っていたのを思い起こした。

 窓際の寝椅子に足を投げ出して何やら書類の束に目を通している保護者は、ちゃんと教会に通えない彼女のために対策を用意してくれていたのだ。


 ところが、サガは軽く首を横に振った。


「いえ、通常教会が管理しているよりもずっと精度の高い貴重な聖水です。皇帝陛下が直接浄化された聖水と言えば、リディさんでも価値が想像できるかと」

「……っ!!」

「目ン玉飛び出るくらいバカ高いから、割るなよ」

「…………っ!」


 なんでもないことのようにサガにとんでもないことを告げられて、危うく手を滑らせたところに、書類に目を落としたままのギルからすかさず恐ろしい忠告を受けて、慌てて握りなおした。


「たしかに高価なものですが、安心してください。ギルが払うことになっていますから」

「おい待て」


 聞き捨てならないと、ギルは書類から顔を上げて身を乗り出す。


「なんで俺が?」

「保護者ですから、当然でしょう」


 振り返らずに答えた不遜な部下にまだなにか言おうと開きかけた口を、ギルは忌々しげに閉じた。


(保護者になったのは、誰の命令だよ)


 そもそもギルは他でもない皇帝に命じられたから、リディの面倒を見ている。仕事の一つでしかない。

 ある程度は、一生かかっても使い切れないほど蓄えた財産が減るのはしかたないと考えていた。けれども、リディが初日に割ったテーブルを弁償したり、今は抑えられているけれども食費がかさんだりと、すでに当初の予算の倍は使っている。


(さっさと本命の仕事を終わらせてハウィンに帰るしかないな)


 リディを皇帝に引き渡せば、保護者の役目も終わる。完全に縁が切れるわけではないだろう。それでも、保護者と被保護者の関係は終わるはずだ。

 本来の仕事を早く終わらせなければと、ギルは書類に意識を戻した。


 一方、リディは具体的な金額は想像できなくても、ギルに申し訳なくなった。


(たぶん、わたしのために使ったお金を返せとかはないと思うけど……)


 一日でも早くこの国で生活できるようにならなくては。


「気にしなくていいですよ」

「あ、はい」


 肩を落としたリディに、サガは柔らかく微笑みかける。


「あの人、本当にどケチですからね。たまには蓄えたお金で経済を回していただかないと」

「……そうですね」


 そう言われても、彼女はギルがどケチだとは思えなかった。


(わたしが一緒でないときは、そうなのかしら)


 おそらくそうなのだろう結論づけて、彼女は頭を切り替えた。


「それで、この聖水は……」

「飲んでいただきたいのです」

「飲む?」


 聖水は聖石を清めるものではないのか。疑問と好奇心の混ざりあった目で、小瓶を見つめる。


「最初に言うべきでしたが、もともと僕はあなたが教会に通えないからと、その聖水を届けるのが一番の目的でした」

「あ……」


 やはりギルは、ちゃんとリディのために手を打ってくれていた。後でギルに感謝の言葉を伝えなくてはと、改めて心に決めた。そう、サガがいなくなってから。

 居住まいを正した彼女は、サガに尋ねる。


「えーっと、今から飲めばいいんですか」

「ええ。五日に一度というのは、あくまでも目安ですから」


 彼女が口にした問いから、サガは口にしていない疑問まで汲みとる。不思議と、嫌味には感じなかった。


「自覚していないかもしれませんが、先ほど市場でかなり魔力を放出していたので、明日まで待たないほうがいいですよ」

「わかったわ」


 細かいことはおいおいわかるだろうと、今は言われたとおりにして魔力を安定させたほうがよさそうだ。

 小瓶のガラスの栓を抜く。匂いはなかったけれども、小瓶の中から何か清らかなものが立ち上っているような気がした。


「ほんのひと口。いえ、ひと口でも多いかもしれません。飲むというよりも、口の中を湿らせる程度で」

「口の中を湿らせる」


 やけに真剣に言われて、リディは恐る恐る小瓶を口元に運ぶ。


(まるか毒をあおるわけじゃないでしょうし)


 何をそんなに緊張する必要があるのかと、自分に言い聞かせてから、彼女は小瓶を傾けた。

 ほんの少し、口の中を湿らせる程度。たったそれだけで、体の芯から指先髪の毛一本一本の毛先まで、目が覚めるような清涼感が広がっていく。すぐに清涼感は体に馴染むように消えていったけれども、それまで自覚していなかったぶんまでもの疲れと空腹が綺麗サッパリ拭い去られていた。


「え、あ、あれ、なにこれ! すごい!」


 これほど体が軽くなったのは、ギルに病魔を取り除いてもらったとき以来だった。もっとも、あのときはひどい空腹感を満たすので頭がいっぱいだった。なので、実質初めての体験に、喜びの声を上げる。興奮気味にテーブルを叩きそうになったのを、ぎりぎり理性で手を止めなければならないほどだった。


「聖石を確認してみてください」

「あ、はい」


 苦笑気味にサガに言われて、胸元に下がっている蛍石の聖石を見た彼女は、言葉を失った。

 まるで、蛍石自体が光を放っているかのように、輝いていたのだ。もちろん、今までこれほど美しかったことはない。

 言葉を失うほど長年肌見放さなかった聖石に見とれていた彼女を、サガはわざとらしくかしこまった咳払いで現実に引き戻す。


「おわかりかと思いますけど、その聖水は大変な威力があります。だから、貴重で高価なのです。決して、ひと口以上飲んではいけません」

「飲んだら、どうなるの?」


 思わずゴクリと喉を鳴らした彼女の脳裏に、死という単語がよぎる。


「まぁ死ぬようなことはありませんよ。毒ではないので。ただ、一時的に魔力が増幅されるだけです」

「魔力が増幅されるのは、いけないことなの?」


 自分がまだ魔力を制御できないどころか、魔力や魔法が何たるかを知らないから、というわけではなさそうな言い方だった。やけに真剣な彼に、彼女は疑問に思う。


(魔力はたくさんあったほうがよさそうなのに。魔道具も動かせるわけでしょ)


 肩をすくめて、たいしたことないように、サガは恐ろしいことをさらりと口にした。


「その聖水で魔力を増幅させれば、反動で寝込むことになります。短くて半日、長ければ半年は目覚めないことも」

「ようは、用法用量を守って正しく使えってことだ」


 ぎょっとしたリディに、書類から顔を上げずにギルもさらりと言う。


(冗談じゃないわよ。そんなに寝込むなんて)


 とはいえ、ギルのおかげで手の中にある小瓶を恐れることはなかった。


(用法用量……薬も過ぎれば毒となる。そういうことね)


 大いなる神の加護を捨ててまで独立し医療を発展させざる得なかった神なき国で育ったギルらしいたとえだ。


「念の為、しばらくの間は持ち歩くことにしてください」

「わかりました」


 テーブルに小瓶を置いて、リディは日記帳を広げる。


「あの、そもそも聖水ってなんなんですか?」

「いきなり、聖水の話からですか、いいですよ」


 軽く目を見開いて驚くサガには教えてくれる順番があったはずだと、リディは少し恥ずかしくなった。


(折角の機会とはいえ、わたしから尋ねるのは失礼だったんじゃないかしら)


 恥じ入る彼女に、サガは気にしなくていいと笑う。


「わからないことを尋ねてくれるほうが、僕としても教えやすいですし」


 ほっと胸をなでおろして、彼女は鉛筆を手にとった。


「そもそも、僕はこうして人に教えるような立場ではないんですけどね」


 それでもギルよりはマシだと思うからと苦笑するサガは、すかさず背後から「謙遜するな、嫌味でしかないぞ」と投げつけられた言葉を無視して、居住まいを正した。


「聖水は、大いなる神の御手によって清められた水です」


 聖典にもあるように、この世界に降臨した大いなる神の御業の多くは水にかかわっていると、サガは続ける。


 水にまつわる御業の一つに、荒野をさすらう始祖に、降臨した大いなる神は水を与えている。その時、大いなる神の足元から湧き出した泉は、今でも神都ハウィンの聖域にあるという。


「神ごとき皇帝は、帝国のあちこちに大いなる神にならって、泉を作られたのです。その各地の泉を管理するのが、教会です。もうわかると思いますが、これが通常我々が言うところの聖水となるわけです」


 かつては、聖石を清めるのではなく、ひとりひとりコップ一杯ほど分け与えて飲むことで魔力を安定させてきた。けれども、そのやり方は帝国が閉ざされる以前の奴隷制を維持できた頃ですら、すべての民に平等に行き渡らなかった。


「聖石を魔力の安定装置として活用するようになったのは、奴隷制の廃止に伴う社会混乱が収まった三百年ほど前からです」


 聖石を預かり清めることで、すべての民の魔力を安定させることが可能になった。


(この国以外の教会にも聖水はあったけど、別物よね、きっと。じゃあ、奇跡の担い手はどうやって魔力を安定させていたのかしら)


 などと、北壁の外から来たリディは気になることはあったけれども、後回しにすることにした。今は自分自身に関係のあることを最優先で学ばなければならない。


 箇条書きでメモをとりつつ、リディは次の質問を口にした。


「どうして、聖石を清めると持ち主の魔力が安定するんですか?」


 自分の胸元にある聖石に手を重ねて、サガはしばし考えた。彼の聖石は気泡入りの琥珀だ。


「聖石がなにかというのは、やはり魔力についても知っていただかなければなりませんね」


 リディは日記帳の新しい空白のページを広げた。

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