早すぎる再会

 市場をあとにしたリディは、ロバートを厩舎に預けて宿に戻るまで、一切寄り道しなかった。

 お昼どきをちょうど少し過ぎた頃だった。空を泳ぐ魚亭の食堂側からか、宿泊者用の入り口からにしようか。少し悩んで、彼女はにぎやかな食堂を避けて静かな路地に面した宿泊者用の入り口を選んだ。


(リンゴ、食べたし、お昼抜いてもいいかな)


 早めの夕食にしてもいいかもしれない。

 なにしろ、空を泳ぐ魚亭は、このあたりで人気の大衆食堂だ。朝昼晩の食事時は席を取るのも一苦労だった。宿泊客なので部屋まで昼食を運んでもらうこともできる。最初の晩にギルがしたように。けれども、彼女は部屋で食べるのは極力避けたかった。


(美味しいけど、臭いがきついし残るのよね。食べているときは気にならないのに)


 おそらく故郷では使われない香辛料の独特の臭いに慣れるには、まだ時間がかかりそうだ。

 教会で聖石を清めてもらって、魔力が安定しているおかげか、食欲は落ち着いている。


(五日に一度は、聖石を清めないといけないのよね)


 魔力が不安定になったら、また暴食が始まる可能性もあるのだと、お腹がきりりと痛んだ。

 ギルは、教会に行かなくても魔力を安定させる方法がないでもないと言ってくれた。そのために手を打ってくれるとも。


(信じて大丈夫、なのよね)


 階段の踊り場で足が止まると、思わずため息をついてしまった。

 あれから、ギルから魔力を安定させる別の方法について、まったく話がない。


(教会には行きたいけど、またあんな思いをするのは嫌よ)


 あのときの恐怖が脳裏をよぎるだけで、ブルリと体が震えてしまう。


「もしかして、忘れているんじゃないの」


 信頼しろとあれほど言っていたのにと、呆れるやら腹立たしいやらで、がっくりと肩を落として唇を噛む。

 もちろん、そうと決まったわけではない。そんなことくらい、彼女はわかっている。わかっているのに、不安になっていても不自然ではない。むしろ、不安になるほうが自然だ。


(でも、これはわたしの問題なんだし、克服したほうが絶対にいに決まっている。もし、ギルの別の手が間に合わなくても文句は言えないわよね、きっと)


 なにしろ、教会に通って聖石を清めてもらうのが普通だ。この国で生きていくからには、教会に通えるようにならなくてはならない。いつまでも、ギルの被保護者でいられるわけではない。いつかは、おそらくそれほど先のことではないはずだ。


(わたし、これからどうすればいいんだろう)


 先のことなんて考える余裕は、今までなかった。

 祖国では、神経質で過保護な母から離れるために、従妹について国を出るのを目的にできることは全部やってきた。従妹の私室付き女官に選ばれたあとも、新しい生活に慣れたり、従妹を支えなくてはと努力してきた。結果的に努力は実らなかったけれども、ずっと目標となる未来予想図があった。

 ところが、今の彼女はこれから先の自分の姿をまったく思い描けなかった。


(わたし、これからどうなるんだろう)


 神の国で生き延びるという目的を達成し、少し気持ちに余裕が生まれた今になって、ようやく途方に暮れることができた。

 軽いめまいを覚えて、彼女はお腹をおさえた。


(今はギルを頼るしかないんだわ)


 好きか嫌いかの相性など、問題にすらなっていなかったのだと、愕然とする。

 深呼吸を数度繰り返して、顔を上げて背筋を伸ばす。


「とにかく、ギルに明日、教会に行かなきゃならないのか、問い詰めなきゃ」


 どんなに困難に思えることでも、一つ一つ問題を乗り越えていけば、道は開ける。これまで、そうやって生きてきたのだから、これからもそうやって生きていけばいい。

 今は、明日、どうやって聖石を清めて魔力を安定させるかが、重要だ。先ほど、市場で危うく魔力が暴走しかけた。あんなことは、そうそうあってはならないのだと、本能で理解していた。

 聖石の蛍石を握りしめて、彼女は足早に部屋へと急ぐ。


 今日は昼前には部屋に戻っていると、ギルは言っていた。

 一応、部屋に誰もいなくなるときは、受付に鍵を預けると決めていた。他にも二人でいくつもの取り決めをしている。一つの部屋で、しばらく男女二人で過ごすことになっているのだから、お互いのためにも取り決めは必要だった。

 四階の突き当りから二つ目の部屋。

 ドアノブには青い紐がくくりつけられていた。

 青い紐は、どちらかが在室中で入室可という意味だ。着替えなどで入室負荷のときは、赤い紐だ。


「好きに入っていいって言われても、ね」


 一応礼儀として、呼び鈴は鳴らさずにはいられないリディだった。

 防音はしっかりとしているとギルが言っていたとおり、ドアの向こうの物音は一切聞こえてこない。

 きっちり呼吸三回数えてから、ドアノブを握る。思えば、これまでほとんど二人で行動をともにしていたので、ギルが待つ部屋のドアを開けるというのは、これが初めてだ。


(紐は青だったし、何も問題ないはずよ)


 頭ではしっかりと理解できているのに、なぜかガチガチに緊張している。

 自分も使っているとはいえ、男性の部屋に入る。それは、お嬢さん育ちの彼女にはとても勇気がいることだった。

 さらに二回呼吸してから、ドアノブを握り直したそのとき、勝手にドアが開いた。


「ふへ?!」

「……なにも、そう驚くことないだろ」


 ドアの内側でギルは呆れた顔で、出迎えることになった。彼の手には、ドアノブが。

 ただ単に、リディがドアノブを握ったタイミングで、ギルが内側から開けただけのことである。それだけのことで素っ頓狂な声を上げてしまった自分が、恥ずかしいやら悔しいやらでほぞをかんだ。


「ほら、さっさと入れ」


 素直に従うのも悔しいけれども、ドアを開け放している保護者の横を足早に通り抜ける。

 そのまま、物干し竿とシーツの天蓋もどきに囲われたベッドでふて寝してやりたくなった。


(今日は厄日だわ)


 実際、早くベッドに沈もうと足を向けていた。そんなベッドまっしぐらな彼女を、ギルは散策で疲れているのだと勘違いして彼女の肩に手をのばす。


「リディ、疲れているところ悪いんだが、お前に……」

「あーっ!!」


 リディは大きな驚きの声を上げて部屋の奥を指差した。

 肩に触れようとして所在なさげにギルが手をおろしたことに、彼女はまったく気がついていない。それどころか、彼が呼び止めようとしたことにすら気がついていなかった。


(退屈しない女だな、まったく)


 ギルは舌打ちをこらえて、心のなかで毒づいた。

 被保護者のリディは、わかりにく性格はしていない。むしろ素直なほうだ。嘘や隠し事は苦手で、言わなくてもいいこともつい言ってしまう。そういう細かいところが、彼女が神経質のレッテルを貼られた要因の一つだろうと、ギルはここ数日生活をともにするあいだに分析していた。


(常識も教養も、自立心もある。なのになんでこう行動が読めなんだか)


 退屈しないのは良いことだけれども、そろそろ彼女の言動を予想できるようになってもよさそうなものだった。


 一方の退屈しない女のリディはというと、部屋の奥を指差したまま目を丸くしたまま彫像のように固まっていた。

 彼女が指差した先には、金髪の好青年が椅子に座ってくつろいでいた。いきなり指を差されて戸惑いつつも、好青年はにっこりと会釈する。

 その会釈で、彼女の硬直が解けた。大きく息を吸った彼女は二言――


「あなた、さっきの!」


 驚きのあまり言葉が続かない彼女に、好青年は苦笑して口を開いた。


「先ほどはどうも」


 その好青年は、市場で無駄によく回る舌で彼女に加勢した男に間違いなかった。

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