不愉快な市場

 スカーフの屋台で与えられた不快感は、なかなか消えなかった。

 リンゴを買ったときも、五個だったのに払った。考えたくはないけれども、あの時もぼったくられたのではないだろうか。


「あーやだやだ」


 開けた場所で邪魔にならないように足を止めたリディは、不快感を頭から追い出そうとぶんぶん勢いよく頭を振った。

 自分に落ち度はないはずだ。屋台の前でしばらく動かなかったのは、多少迷惑だったかもしれない。ロバを連れているのだから、多少ではなかったかもしれないとは、彼女は考えないようにした。

 どのみち、邪険にされるほど迷惑はかけていないに違いないのだ。


(それなら、言ってくれればいいだけだし、何もあんなに邪険にしなくたって……商売人やめたほうがいいんじゃないかしら。そうよ、厨房のほうが向いているわ)


 リディは鼻を鳴らした。すぐに淑女らしくないと恥じ入りそうになったけれども、ここに咎める母はいないのだと開き直った。

 この国には、自分を知る者は誰もいない。たった一人でやって来た。今まで不安でしかなかった事実に、彼女は解放感を覚えている。

 今まで、敬虔な信徒らしく、淑女らしく、他の年頃の娘たちのお手本のように振る舞わなくてはと思い込んでいた。


(今ならはっきりわかるわ。神経質そうな女だとレッテルを貼っていたのは、わたし自身。他の誰のせいでもないわ。まぁ、お母様はちょっとは責任あるかもしれないけど)


 だからといって、母をあまり責める気にならない。


「お腹すいたわね、ロバート」


 不快感は完全に消えたわけではない。

 それでも、市場をまた楽しもうと思えるくらいには、気分はましになった。

 ロバートにリンゴを一つ食べさせる。

 ふと彼女は、今まで考えたことすらなかったことをしようと思った。いたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は、リンゴをもう一つ取り出す。ロバートは、嬉しそうに鼻を鳴らして彼女を振り仰ぐ。


「だめよ、ロバート。これは、わたしのリンゴ」


 ぎこちなく舌を出した彼女は、リンゴをかじった。

 切り分けられていないリンゴを丸かじりするのは、もちろん初めてだ。

 ぐんと気分がよくなった。

 どうかじっていけばいいのか――均等に中心までかじっていけばいいのか、一部分をかじり進めばいいのかなどなど――悩みながら、リンゴを食べるのは楽しかった。ただ、種と芯があることを知らなかった彼女は、危うく種を飲みこんでしまいそうになった。


「大発見だわ。絵本の挿絵で、こういうリンゴ、見覚えあるけど、食べられない部分だったのね」


 すっかり細くなったリンゴを、満足気かつ興味深く眺める。


「食べる?」


 口元に食べ残しをやると、ロバートはベロリと食べる。


(ロバートって、もしかして食いしん坊なのかしら)


 ロバートの遠慮のなさに、彼女は苦笑する。


 食いしん坊といえば、リディの魔力解放の副作用と呼ぶべき暴食だけれども、教会で聖石を清めてもらってから、ずいぶん落ち着いた。もとの少食には戻れなかったけれども、残さずに食べられるようになった。

 五日に一度、魔力を安定させるために、聖石を清める必要がある。明日はその五日に一度の日だ。


(ギルにまかせて、本当によかったのかな)


 教会でまた過去のトラウマを呼び起こすわけにいかない。いつかは克服しなくてはと考えるものの、今はまだ考えたくなかった。考える時期ではないのだと、自分に言い聞かせている。

 ギルは、別の手段を講じると言ってくれた。けれども、それっきりだ。

 うっかり嫌なことを考えてしまいそうになって、彼女は苦笑を深めた。


「じゃ、行こうか」


 嫌な考えに気分が引きずられないようにと、リディが引き綱を握りなおしたときだった。


『えーお買い物をお楽しみの皆様にお知らせします。十五分後、我が工房の魔道具の実演販売を始まります。皆様、お集まりください。二重の結び目印の看板が目印となっております』


 不自然なほど大きな声が、広場に響き渡る。それも、一箇所からではない。複数の高い場所から。

 驚いた彼女は、キョロキョロと視線をさまよわせる。声の出どころはわからなかったものの、二重の結び目印の看板を見つけた。驚いたことに、真鍮の枠がキラリと輝く看板はロープに吊るされたのではなく、ロープに繋がれて頭上に浮かんでいた。まるで、紐に繋がれた鳥のようだった。


「あれも、魔道具なのよね」


 リディは、驚くよりも呆れてしまった。なぜ看板ごときに、魔道具を使うのか理解しがたい。あの高さなら、のぼりを立てるだけで客を呼べるだろう。

 とはいえ、魔道具の響きは、まだまだリディには新鮮で好奇心をられる。


「行ってみようか、ロバート」


 やや弾んだ声で引き綱を引いたとき、彼女の中から不快感はすっかりなくなっていた。


 リディが実演販売の会場についたときには、かなり多くの人が集まっていた。

 ロバートも連れていたこともあって、彼女は人だかりの後ろのほうで足を止めた。実演販売は、即席の円形舞台の上で行われるようなので、後ろからでも不満はない。

 メダルや歯車、飾り紐といった飾りをゴテゴテにつけた大きな帽子の中年の小男が、舞台にせり上がってきた。舞台の周りに集まった観衆に向かって、お辞儀するたびに、リディは帽子が落ちないのを不思議に思った。

 小男は、手にしていた短い棒の先についた丸い金属部を口元にやって、にこやかに実演販売の開始を宣言する。


『さて、時間になりましたので、実演販売を始めます!』


 声が頭上の看板のあたりから聞こえてきても、リディはいちいち驚きを顔に出さなかった。いちいち驚いていては、不審に思われると、ギルからもっともな忠告を受けていたのだ。仮に不審に思われても、世間知らずの箱入り娘で押し通せとも、言われていた。


(子どもじゃあるまいし、いつまでもいちいち驚いたりしないわよ)


 面白くないことを思い出してしまい、鼻を鳴らす。


 それにしても、まばらな歓声と数えられるほどの拍手に、彼女は拍子抜けしてしまった。


(えーっと、実演販売ってもっとこう……)


 彼女の故郷では、実演販売は人気の見世物の一つだった。異国の珍品はもちろん、珍しくない日用品でもワクワクするようなイベントだった。

 実は考えるよりもずっと日常的に、魔導具の実演販売は行われているのだ。特にこの街では、小規模の魔導具工房が多く軒を連ねているため、珍しくない。


 舞台の上の小男は、冷めた観衆にめげることなく、大げさな道化じみた滑稽な動きで笑いを観客の笑いを誘っている。ここでも、やはり見世物の一つであることにはかわりないようだ。


『まずは、若くか弱い美しいお嬢さんがたに、必須の魔道具です!! これさえあれば、家に一人きりという心細い夜でも安心してすごせます』


 若くか弱い美しいお嬢さんと聞いて、リディはより一層舞台の上に注目する。


 小男の背後で舞台にせり上がってきた魔道具は、そこそこ大きかった。リディの腰まである箱型の拡声器に、小男が手にしていた棒――マイクを接続した。


『そういった夜を狙って、よそ者が猫なで声で言い寄ってくることもあるでしょう!』


 と聞いて、リディはまたお腹のあたりがギュッと締めつけられた。

 彼女が不快感をこらえている間も、小男は陽気に続けている。

 箱型の魔道具は、女や子どもの声がいかにもヤバそうな男の声に変わるという代物だった。舞台の上の小男がまず実践してみせ、違いがわからないと周囲で笑い声が上がる。リディは、戸惑いお腹を押さえた。


『これは失敬失敬、自分、男だと忘れておりました。では、お集まりの皆さまからお一人、ご希望の方お一人にご協力をお願いすることにいたしましょう! もちろん、男性はお断り。女性に限らせていただきます! この舞台でこの画期的な魔道具を試してみたい方は、ご挙手をお願いします!!』


 小男の提案に、観衆はより一層盛り上がる。

 個人的にと小男が女の好みを口にすると、分相応だと野次が飛び笑いが起きる。

 実際に手を挙げる女性がまばらだったのは、リディ意外にも小男の小綺麗とは言えない外見に生理的な嫌悪感を覚えた人が少なくなかったからだろうか。それでも、まったくいないわけではなかった。


『他にご希望の女性はいらっしゃいませんか? よそ者に付きまとわれてお困りだという女性に必須の魔道具です。無料で試せるのは、今回しかございませんよ!』


 明らかに、小男はよそ者をろくでもない不審者のように決めついている。そして、観衆はなんの疑問も抱いていない。


(こんなの、絶対におかしいわ)


 お腹の締めつけは、いつの間にか胸のむかつきに変わっていた。


「帰ろっか、ロバート」


 むかつきが、魔力の熱に変わる前にと、彼女は深呼吸をしてその場を離れることにした。

 魔道具への関心はすっかりなくしていた。

 早くこの観衆の輪から離れたい。いや、この市場から――いっそのことこの街から離れたくなった。

 この国の他の街が同じだとは考えたくなかった。


「ギルに確かめなきゃ」


 安心したい。

 こんな不愉快な考えを持っているのはごく一部だと、ギルに請け負ってほしい。

 そうでなければ、この国の外で生まれ育った彼女は、安心して暮らしていけない。


 早く市場から抜け出したいのに、人が多く思うほど早く進めない。


「こんなことなら、来なければよかった」


 誰にというわけでもなく、不快感と不満をブツブツと言いながら来た道を引き返していく。


「ギルの仕事がなんなのか知らないけど、こんな街、さっさとおさらばしたいわ」


 彼女は、この街全体によそ者に偏見があると決めついている。市場で、たった二度、嫌な気分になっただけで。

 冷静な彼女なら、決めつけたりはしなかっただろう。決めつけるということは、あの小男と同じ偏見だから。

 けれども、今の彼女はムカついている上に、魔力が発動したらどうしようと焦って、冷静ではいられなかった。

 早く空を泳ぐ魚亭に戻って、ギルに目いっぱい愚痴ってスッキリしたい。


「なんでこんなに人が多いのよ」


 この街で一番規模が大きい市場だからなどと、今の彼女が知ったところで余計に腹立たしくなるだけだろう。


 すっかり視野が狭くなって、冷静でなかった彼女が、それに気がついたのは、偶然でしかなかった。

 彼女の従妹ジャスミンと同じくらいの年ごろ――十六歳前後の赤毛の少女が、日用品の屋台に並んでいた籠に手を伸ばした途端に店主の男が泥棒だと叫んだのを目撃したのは。


「はぁああ!!」


 露骨すぎて呆れるほどの言いがかりに、リディは素っ頓狂な声を上げて足を止めてしまった。唐突に足を止めた彼女に、ロバートが不満の鳴き声を上げる。

 どう考えても、少女は泥棒などではなかった。


 甲高い年老いた店主の叫びに、驚く間もないほど早く市場を見回っていた保安神官が二人駆けつけた。リディでも保安神官だとひと目でわかったのは、保安神官の一人が教会で世話になった青年だったからだ。名前は、ベイズ・フィー。


 一番状況が理解できていなかったのは、泥棒呼ばわりされた赤毛の少女だった。

 まず自分のことだなんて、あまりのことに理解できなかっただろう。そして、すぐに駆けつけてきた保安神官の物々しい雰囲気に、すっかり怯えている。

 集まってきた野次馬に遮られて、店主と少女、保安神官たちのやり取りは、リディまではっきりと届かない。

 けれども、少女が一方的に責められていることだけは、よくわかった。

 少女が盗んでいないどころか、商品に手を触れてもいないことに気がついたのは、リディだけではないはずだ。野次馬の多くが、少女が泥棒でないことくらいわかっているはずだ。

 それなのに――


(なんで誰も何も言わないのよ)


 何も言わないどころか、先ほどの実演販売のような見世物に集まった雰囲気すらあった。


「……信じらんない」


 途方に暮れて今にも泣きそうな少女が、保安神官にどこかへ連れて行かれそうになっている。


「ちょっと待ちなさいよ!」


 誰も止めないなら、リディが声を張り上げるしかなかった。

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