リンゴとスカーフ

 帝国が北壁を築き、ほぼ鎖国状態になってから、およそ五百年。

 人々の出入りは厳しく制限されているけれども、諸外国との貿易は続けれてきた。

 大いなる神によってもたらされた肥沃な大地は広大で、今でも豊かな実りを与えてくれている。

 帝国産の穀物をはじめとした農作物及び果実酒、食品は、遠く離れたリディの祖国でも高値で取引されていた。


 市場で、まず目についたのは、みずみずしい秋の作物だった。

 ニンジンにルッコラ、ジャガイモ。ナシやザクロ、イチジクなどなど、リディがすぐにそれとわかる野菜や果物は、限られていた。それらだけでも、見たこともないほど大量に市場に並んでいるというのに、名前も味も見当もつかない食物も山積みになっている。

 ところで、リディは料理をしたことがない。過保護な母は、彼女に包丁を握らせなかった。食材の山は、たしかに興味深いし、眼を瞠るものだ。けれども、食材を調理できない彼女には、無用の長物だった。

 そう、彼女にとっては。


「ちょっと、ロバートぉおおおおおおおおお」


 ロバのロバートは、違った。


「来なさいよ。ロバートぉ、ほら、こっちぃ」


 山積みになった赤い宝玉のようなリンゴの前から、ロバートは頑として動こうとしないのだ。

 グイグイとリディは引き綱を引っ張るけれども、ロバートの四本の足は足元のレンガにしっかりと根づいた大木のように動かない。


「もう、ロバートったら!!」


 このままでは、魔力を発動してしまうかもしれない。胸の奥が熱くなる前に、冷静になろうと彼女は腹立たしく綱から手を離した。


(どうしたものかしら)


 息を整えながら、彼女はロバートの顔を見つめる。ロバの表情を理解しているわけではないけれども、しれっとしているように見えた。


(ロバートのくせに)


 ロバートは、おそらくリンゴが好きなのだろう。

 おそらくリンゴを食べたいのだろう。

 そこらへんの動物らしく、鼻息でも荒くすれば可愛げがあるものをと、リディの頬をぶすっとふくらませる。

 引き綱を手を離したにも関わらず、ロバートは動かない。

 前の飼い主は、ロバートをよくしつけてくれたのだろう。そうでなければ、馬にすら乗れなかった彼女におとなしくついてこなかったはずだ。

 いつまでもこうして頑として動かないロバを睨んでいるわけにはいかない。

 ここが活気あふれる市場だということを、忘れてはならない。

 もうすでに複数人分の邪魔だという視線を、痛いくらい浴びている。聞こえよがしに舌打ちもされた。リンゴを売っている屋台の主は、今のところ笑ってくれている。若干、引きつっているけれども。

 あまり目立つなとギルから言われている。言われなくとも、彼女は目立ちたくない。


「聞き分けのいいお利口さんだと思ってたのに、とんだ勘違いだったみたいね」


 がっくりと肩を落として、リディはポシェットから革の小銭入れを取り出した。


「リンゴを……とりあえず五つください」

「五つだね、六ルグだよ」


 昨夜教えてもらった通り硬貨を数えて、リディはリンゴの代金を払う。山の中から適当に、本当に適当に吟味することなく五つリンゴを選んだ。

 ロバートの眠そうな目が輝く。

 ちょっと待ってよと睨みつけて、ロバートの胴にくくりつけた籠にリンゴを四つ放りこんだ。

 五つ目のリンゴをロバートの口元に近づけただけで、ペロリとリンゴを食べてしまった。

 ロバートの唾液でベタベタになった手に、リディは思わず顔をしかめる。ロバートに愛着があるから、顔をしかめるだけですんだ。そうでなかったら、真っ青な顔で嫌悪感からガタガタ震えていたに違いない。

 予想していたので、カゴの中から古布を引っ張り出してゴシゴシと拭う。ついつい臭いをかいでしまいそうになるけれども、ぐっとこらえた。後悔するのはわかりきっているから。


「後でね。今度はわたしの買い物に付き合ってもらうわよ。リンゴはその後でね」


 ロバートは鼻息を荒くして、未練がましそうに背中のカゴを気にしている。それでも、リディが引き綱を握ると、おとなしくなった。

 前の飼い主は、ロバートを家族のように大切に育ててくれた。お金に困っていなければ、ギルが常識外れの保証金を提示しなければ、ロバートを手放したりはしなかった。手放すにしても、涙なしにはできなかったことを知る人はいない。それほど愛情を注いでもらっていたロバートは、前の飼い主がいなくなったことにも気がついていないのではないか。そう考えてしまうほど、新しい環境に馴染んでいた。

 リディが考えているよりもずっと、ロバートは賢く利口で、人懐っこいロバだ。

 そして、おそらくロバートはリディに懐いている。

 引き綱を握っているのは、リディだ。けれども、ロバートは彼女に引かれているのではなく、まるで彼女と連れ立って市場の散策を楽しんでいるようだった。


 ギルが与えてくれた古着――砂色のシャツと赤茶色の袖なしのワンピース――の着心地をリディはすっかり気に入っていた。この街の人の真似をして、腰に巻いた帯の上からかぶせるようにワンピースの布地を少し引き出している。以前は考えられないようなルーズな着崩し方だけれども、かえって垢抜けてみえる。


(やっぱりわたしは、そんなに神経質な女じゃなかったのよ)


 絶対的な存在だった母がそうだったように、娘の自分まで神経質に振る舞う必要などなかったのだ。


(もしかしたら、わたしが一番、わたしを神経質だと決めつけていただけなのかもしれない)


 だとしたら、なんて間抜けな話だろうか。

 この国に来なければ気がつけなかったことではないだろう。それでも、彼女は心の中で大いなる神に感謝せずにいられなかった。神ごとき皇帝の許しがなければ、今頃どうなっていたことだろうか。

 リディの足取りはどんどん軽くなっていく。

 特に欲しい物があるわけではない。ギルから小遣いを与えられているものの、買い物を楽しむつもりはなかった。ただ市場の雰囲気を楽しむつもりでいた。

 もちろん、魔道具の屋台もあった。今はまだ少し離れたところから物珍しそうに眺めるだけで、楽しい。

 故郷でも見かけたような珍しくない日用品も売られていた。彼女には意外だったけれども、魔道具ではなく日用品のほうが人気があるらしい。

 買い物をしなくとも、市場はとても楽しかった。

 市場の中心あたりで、彼女はようやくある屋台に目を留めた。


「ロバート、こっちよ」


 その彩り豊かな屋台には、大量のスカーフが並んでいた。


 帝国産の農作物、および食製品、たとえばワインなどと並んで高値で取引されている高級品の代表格が、布だ。帝国産の最高級のシルクのハンカチ一枚に、リディの故郷では家一軒買えるほどの高値がつくほどだ。

 絹織物だけではない。綿も麻も、毛織物も、とにかく帝国は繊維工業においては、大陸西部において追随を許さない。


 ロバートを従えて屋台の前まできた彼女は、店主の中年女性にひと言断ってから、スカーフを一枚広げる。

 真っ赤なスカーフに、彼女は軽く息を呑む。

 以前、一度だけ触れる機会があったシルクのハンカチーフに比べるのもおこがましい綿のスカーフだ。しっかりと丈夫、それでいて軽い。スカーフは、中央と四隅に白い小花が染め抜かれていた。花弁は五つで、中央付近がほんのり黄色い。


(ジャスミンの花ね)


 従妹の名前と同じ白い花。実物は見たことないけれども、従妹が自分の名前の由来だと絵を見せびらかしていたので、すぐにわかった。

 燃えるようなと鮮烈さを褒め称えられてきた、従妹の髪の色によく似た赤のスカーフにジャスミンの花が染め抜かれている。

 従妹が喜びそうなスカーフだ。その顔が目に浮かぶ。


(赤とジャスミンの花なんて、素敵な偶然かしら。でも……)


 もう二度と、この国から出ることはない。

 ちらりと横目に見やった北壁に比べたら、リディはなんともちっぽけな存在だ。

 従妹にこそふさわしいスカーフを手に入れたところで、従妹がどんな顔をするのか、直接見ることはない。


(素敵なスカーフなのに)


 ふさわしい従妹に贈れないとわかっていても、彼女はスカーフを広げたままだった。

 鮮烈な赤は、自分には似合わないと思い込んでいた。気が強い従妹の髪の色だったからというだけではなく、幼い頃から地味で大人しい色ばかり与えられてきたからだ。そのほうがふさわしいと、母によく言われてきた。赤は赤でも、地味で大人しい赤じゃないと、自分には似合わないとも。

 ここに神経質な母はいない。

 ようやく、自分自身を縛ってきたレッテルから解放されようとしている。

 お金はある。充分に。

 彼女の中の天秤は、スカーフを手に入れるほうに大きく傾いている。それでもなお、彼女は迷った。

 冒険するには、勇気がいるのだ。


(似合わないスカーフが一枚くらいあって、それがなんだっていうの。後悔するほどのことじゃないでしょ。たぶん)



 広げたスカーフの向こうから、わざとらしい咳払いがした。

 彼女が迷っている間に、二人、スカーフを買っている。これ以上、屋台の前にいられては、迷惑だろう。

 声に出してはないけれども、店主の大柄な中年女性は、買わないのならさっさとどこかに行ってほしいと、露骨すぎるほど顔に書いてあった。


「このスカーフ、買います」


 居心地が悪くなったリディに、店主は聞こえよがしに鼻を鳴らした。


「あんた、見ない顔だね」

「えっ」


 てっきりさっさと支払いをすませてもらいたいものだと、思い込んでいた。

 それなのに、なぜそんなことを尋ねられるのだろうか。今だって、店主は無愛想な顔でよそよそしい態度だ。世間話をしたいわけではないだろうにと、リディは戸惑いながら数日前に来たばかりだと答えた。それ以上尋ねられたら困る。うかつなことを言って、北壁の向こうから来たなんて怪しまれたら、非常に困る。ギルがいないことが、こんなにも心細いのだと知った。

 このまま、スカーフはいらないと逃げ出してしまいたいほど、彼女は困り果てていた。

 幸いというべきか、店主はそれ以上追求してこなかった。


「二十五ルグだよ」

「えっ」


 聞き間違えたのかと、耳を疑いたくなった。


(二十五ルグ? さっき買っていった人たちは、十ルグだったのに)


 彼女が選んだスカーフが、他のスカーフと比べて高級というわけではない。

 戸惑う彼女に、店主は邪険さを隠そうともしなかった。


「二十ルグ。払えないなら、さっさとどこかに行っちまいな。迷惑なんだよ」


 これだからよそ者はと、店主はぼそぼそと続けた。

 リディは、お腹がぎゅっとしめつけられるような痛みを覚えた。


(よそ者だから、さっきの人たちよりも倍以上払わなきゃいけないの)


 釈然としない。

 店主の商売人らしからぬ態度が、余計に釈然としない。

 そういえばと、ギルは住民登録している街と外では司法や行政といった暮らしやすさが違ってくると言っていた。

 そういうことなのだろうかと、リディはむりやり自分を納得させた。

 払えないわけじゃない。

 よそ者のリディに売りたくないのは、店主の態度から明らかだ。


(気分悪いけど、買わなかったらきっと後悔する)


 もう二度と、こんな素敵なスカーフに出会えないだろう。

 彼女は小銭入れを取り出した。


「二十五ルグね」


 二十五ルグ払ってスカーフをポシェットにしまうと、足早にロバートを連れてその屋台をあとにする。


(なんだか、すごく嫌な気分)


 あらかじめ知っていたら、こんなに嫌な気分にならなかっただろうかと、考えてすぐに首を横に振った。


「ねぇ、ロバート、あの態度はなかったわよね」


 あからさますぎる店主の態度は、一度は納得したものの、やはり釈然としない。

 お腹はギュッと締めつけられたままだ。


 とはいえ、スカーフが素敵なことには変わりないし、物には罪はない。むしろ、あの最低な店主のもとからスカーフが離れさせてあげたことが、彼女には善行のような気がした。

 嫌な気分を振り払おうと、ずんずんと市場の奥へと進んでいく。ロバートもおとなしく彼女の歩調に合わせる。


 せっかくの市場を楽しまなければと、気分を変えようとしている彼女は、気がついていない。

 市場に来る前から、彼女をつけている人影に。

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