第四章

散策日和

 リディが帝国の北壁を越えて五日目。その日は朝から薄曇りで、少しだけ肌寒さはあったものの、体を動かしているうちに気にならなくなった。散策するには、ちょうどいい日だった。

 けれども――


「なんか、街を散策するって、聞こえはいいけど目的がないとちょっと辛いわね」


 しかも、土地勘のない街を散策するとなれば、なおさらだ。

 昨夜、ギルから別行動を言い渡されたときは、ワクワクしたりもした。

 リディは二十歳だ。保護者のギルが四六時中つきっきりである必要もない。一人で何もできないお嬢様ではない。

 とはいえ、まだ五日目だ。お互いに不安要素がないわけではない。ギルは、旅館で過ごすのもありだと選択肢を与え、女一人でも安全に過ごすためにはどうすればいいのか、夜遅くまで教えた。


「ギルも仕事があるんだし、しかたないよね。どこに行こうかな、どこがいいかな、ロバート?」


 彼女は、ロバに意見を求めて見やる。もちろん、ロバは我関せずと彼女の横を行く。

 教会で問題に直面した日の夕方に、厩舎で再会した灰色のロバに、彼女は迷わずロバートと名付けた。由来は、彼女の祖国だけでなく、大陸西部の多くの国や地方で語られるおとぎ話に出てくる王様だ。おとぼけな王様、間抜けな王様、お調子者の王様、国や地方によってバリエーションはあるものの、わがままで家来を振り回して必ず痛快なしっぺ返しをくらうおとぎ話の王様。

 痛快なしっぺ返しをくらうようなことをしないようにという、反面教師的な意味を彼女は名前にこめたのだった。

 ロバの名前を聞いて、ギルはなぜかすごく嫌そうな顔をした。けれども、ロバが名前をすぐに気に入ったこともあって、他の名前に変えられなかった。

 ロバートをひくリディは、なんの気なしに教会通りの坂を下っていった。

 ニーカに限らずトラムが走る街では、トラムが通る道から離れるなと、ギルは教えてくれた。トラムは、治安のいい区画しか走っていないからだそうで、逆にトラムが通る道から離れた区域は、治安が悪い。

 昨日、ギルとトラムに乗った。乗り心地は、あまりよくなかった。まだロバートに乗っていたほうがマシかもしれない。クッションのない板の座席が空いているにもかかわらず、乗客が立って天井近くの鉄の棒に掴まっているのにも納得だった。杖をもった老婦人が、毛糸のひざ掛けをクッション代わりにしているのは、流石だと思った。ギルがうっかり降りる場所を間違えて、必要以上に歩かなくてはならなかったこともあって、彼女は極力トラムに乗らないようにしようと心に決めた。なので、ギルがくれた乗車券は毛織りのポーチにしまい込んである。


 坂を下っていくに連れて、街の景観はごちゃごちゃしていく。

 無秩序に増改築されていったように見えたけれども、よくよく見ればトラムが走る教会通りはレンガ一つもはみ出していない。ある程度の規則はあるらしい。


「いつ崩れてもおかしくないわよね、ロバート」


 掘っ立て小屋と呼んでも差し支えなさそうな隙間の目立つ板で囲っただけの家もある。リディの目には、とても人が住んでいるように見えない。けれども、人の営みの気配は目に見えない感覚でとらえている。

 もしかしたら、頻繁に崩れているのかもしれない。そのたびに、建て直しているだけで。


 とにかく、ニーカは人が多い。

 リディは祖国の中枢となっている都市で生まれ育っているけれども、これほどにぎやかではなかった。


(国境の大河に近いってことは、辺境と呼んでもいいはずなのに。この国の他の街はいったいどうなっているのかしら)


 彼女にはとてもとても想像できない。

 またゴトゴトとトラムが追い越していく。

 ギルは、魔道具には二種類の分類があると言っていたのを、リディはなんとなく思い起こした。

 一つは、初日にトラムを初めて目にしたときに教えてくれた大型か小型か。単純に大きさだけで区別されるわけではないらしいけれども、とりあえずトラムのように複数人同時に作用するのが大型で、ほかはすべて小型になるらしい。


 もう一つの分類が、直接触れていないと作用しないか、そうでないかだ。

 初日に触れた照明の小型魔道具は、前者だ。彼女が手を話した途端にまばゆい光が消えたのが、何よりの証拠。たいていの魔道具は、同様に直接触れていなければ作用しない。

 後者のそうでない魔道具は、魔力を蓄える装置が組み込まれている。開発されてまもなくめったにお目にかかれないうえに、ギルいわくとても実用的とは呼べない代物らしい。ようするに、これからの研究開発に期待が寄せられている技術、というわけだ。実用化されていても、とても高価な代物だと想像はつく。実用性を無視した金持ちの贅沢品は、帝国にもあるらしい。


(どうも、思っていたより魔道具ってすごくないのかも)


 実際、こうして街を歩いていても、目につく魔道具はトラムくらいだ。

 ただ単に、リディが気がついていないだけというのも大いにあるだろうけれども。


 教会通りを、なんとなく下ってくリディと、ロバのロバート。

 しだいに、人が増えてきた。大きな荷物を抱えている人が目につく。中には、鎧のような物をまとって彼女の常識では考えられないような大荷物を背負っている人もちらほら。


(あのときの、男の子のも魔道具だったわよね)


 初日に坂ですれ違った魔道具工房の一行の先頭を誇らしげに歩いていた少年を思い出す。ギルは子どもサイズは珍しいと言っていた。それはつまり、大人サイズは珍しくないということだ。

 鎧のような魔道具をまとっているのは、男性が多い。女性もいないことはないけれども、よほど大柄な女性でないと、体に合わないのだろうか。


「だったら、女の体に合わせて作ればいいのにね」


 ロバートの大きな耳にささやきかけてから、ギルが荷馬車のような小回りがきく魔道具はまだ実用化されていないと教えてくれたことを思い出した。


(大きく作るほうが簡単だなんて……)


 魔道具の仕組みがどうなっているのかは、ギルも詳しくないらしい。

 たしかに、小型化は難しいのかもしれない。彼女は、スカートのポケットの膨らみを確かめる。中にあるある懐中時計だって、かつてはポケットに入れるなんて発想自体が馬鹿げていたはずだ。


「よく知らないけどね」


 たぶんそういうことなのだろうと、彼女はぼやく。

 それはつまり、そのうち、遠いか近いかはわからないけれども、小回りがきき、レールに縛られない魔道具の乗り物が日常の一部になる未来があるということだ。


 まだ数日しか過ごしていないけれども、リディはこの国が好きになってきた。


 ロバートを連れてなんとなく坂を下る足取りは軽い。


 どうやら空を飛ぶ船はまだなさそうだけれども、神ごとき皇帝が統べるフラン神聖帝国は、たしかに不思議な国だ。

 もちろん、まだ不安はある。けれども、一人で散策に出る程度には、彼女は積極的にこの国をもっと好きになろうとしている。


 二度ほど、立て看板の裏の箱から聞こえてきた声に驚いたりしながらも、彼女はどんどん坂を下っていった。

 教会通りの終点は、名称の由来になっているだろう坂の上の教会と、坂の下の大広場だ。真っ白な北壁を背にした広場は、彼女が一番最初に目の当たりにした帝国の光景でもある。


「わお」


 思わず歓声を上げてしまった。

 母が聞いたら、淑女らしくないと口酸っぱく言われたに違いない。無意識のうちに恥じるように口に手をやっていた彼女は、すぐにそんな自分がおかしくてくすくす笑う。

 ここは、神ごとき皇帝が統べるフラン神聖帝国。

 ようやく動乱の時期を脱して、政権の安定に舵を切りだしたような未熟な祖国ではない。

 祖国ではお目にかかれなかったほど活気づいた市を目の当たりにして、彼女が歓声を上げたところで、誰も気に留めない。ロバートが怪訝そうに耳を引くつかせた程度だ。


「行こう。ロバート」


 彼女はロバートを力強く引いた。

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