閑話Ⅲ
アンフェア
矛盾した人だった。
あの人は、矛盾を抱えていた。
愛しているのと、同じだけ憎んでいる。そういう人だった。
狂王と呼ばれるように、狂ってしまえば楽だろうにと考えていたこともある。
けれども、違った。そうではない。
あの人は、矛盾を抱えているからこそ、王でいられたのだ。
今なら、あの人のことを理解できる。
あの人がいなくなってから、ようやく自分はあの人の息子だと、本当の意味で理解できた。
祭壇に寝転んだ彼は、笑おうとして失敗した。
「かわいそうなことしたなぁ」
目を閉じて、このひと月世話をしてくれた少女のことを思い出す。
朝食を届けてくれた世話係のリズは、彼がいつものように笑いかけると、かわいい顔を歪ませた。驚き、戸惑い、悲しみ、それからほんの少しだけ怒りも混ざっていた。
いつもどおりの朝を迎えた彼に、彼女はひどく動揺していた。
「なん、で……」
少女の震える唇からこぼれた言葉を、彼は笑顔で聞き流した。
「おはよう、リズ」
彼は、笑顔で彼女の好意を裏切り傷つけた。
リズは、一瞬だけ泣きそうになった。ほんの一瞬だけ。
動揺を鎮めようと、大きく息を吸って吐いて、彼女はぎこちなく笑った。
「おはようございます」
こわばった声で、彼女は心を閉ざす。
いつもと変わらず、彼は美味しそうに朝食を平らげる。
祭壇の上にある毛布も、いつもと変わらず几帳面に畳まれていた。
いつものように明るく振る舞えない彼女は、うつむきがちに毛布や彼の排泄物の入った壺を部屋の外に魔法で運び出す。彼女は、物体に手を触れることなく意のままに動かす魔法に長けていた。
最初の頃は、目を丸くして驚く彼に、気分良く見せびらかしたりもした。
感情に左右されやすい魔力だからこそ、彼に傷つけれらたとさとられないように、いつも以上に慎重に、集中して魔法を使う。
(何を期待していたんだろ)
うつむきがちのままでは、涙があふれてしまいそうで、ときどきさり気なく顔を上げる。けれども、彼には背を向けたままだ。
リズは、期待していた。
彼が、自分の好意に答えてくれると。
勝手に期待して、勝手なことをして、勝手に傷ついているだけだと、わかっている。
わかっているのに、彼女の心はわかってくれない。
いっそのこと、みっともなく泣きながら彼に想いをぶつけられたら、楽になれるかもしれない。
それができないのは、そこまで彼に肩入れしていない証拠。
(バカみたい。結局、あたしは自分がかわいいんだ)
自己犠牲的な献身は、そう簡単に実行できないからこそ、尊い。だからこそ、彼女は憧れていた。
我が身を犠牲にするような愛に、憧れていた。
異国から来た彼をひと目見たとき、リズは彼こそがその相手だと悟った。
とんだ勘違い。
なんという思い上がり。
身の程を知らされた。
いつもと変わらずぺろりと朝食を平らげた彼も、実のところいつもと違っていた。彼女が気がつかなっただけだ。
いつもはよく喋る彼が、挨拶してからひと言も口をきいていない。
そんな大きな変化も気がつかないほど、彼女は傷ついていた。
空になったバスケットを手にした彼女は、最後まで彼の顔を見ることができなかった。後悔する予感に怯えながらも、できなかった。
頭を下げて出ていった彼女は、本当にかわいそうだった。思わず彼女を余計に苦しめるだけだとわかっていても、彼が声をかけそうになるくらい、かわいそうだった。
「あの
もう二度と会うことはないだろう。会うべきではないだろう。会う資格など、彼にはない。
そもそも、リズが必要以上に彼に好意を抱かなければ、こんな終わり方をせずにすんだのだ。
「あの
彼女が犯した過ちは、自分が咎を背負うべきだと、彼は声にはしなかったけれども、胸の内で続けた。
どれほど、彼はそうやって祭壇で横になっていただろうか。
朝食の後は、陰気な神官トアが教育に訪れるまで、一人きりで過ごす。
たいていは、運動不足解消と気分転換に、体を動かしている。
横になっているのは、珍しいことだった。
規則正しく上下している胸。手足には、力が入っていない。
すっかり熟睡している。
トアは、彼を起こさないよう、慎重に近づいた。もとより慎重な男だ。失敗を何よりも恐れる男だ。特に今は、失敗すれば後がない。命がない。
慎重に気配を殺したトアは、完璧に周囲の空気に溶け込んでいた。
祭壇の上の彼が、吸い込んでも気がつかないほどに、トアは空気となっていた。
それこそが、トアが得意とする魔法だった。
姿を消せる者は少なくない。けれども、空気そのものに溶け込むのは、帝国の中でもトアだけだ。
だからこそ、トアは皇帝の側近にまで上り詰めたのだ。もちろん、一介の商人の息子が、特殊な魔法だけで成り上がったわけではない。貪欲な出世欲という原動力の影響も大きいだろう。とはいえ、特殊な魔法がなければ、側近になれなかったのも事実だ。
言いかえれば、トアはその程度でしかなかった。
失敗すればあとはない。難しいことではない。眠る異国の男を拘束するだけの、簡単な仕事だ。
ひと目見たときから、気に入らない男だった。大いなる神に背いた国から来たからというわけではない。彼がこの国に生まれていたとしても、気に入らなかっただろう。
気に入らない男に関心を寄せた皇帝が、何を考えているのか、さっぱりわからない。いや、もとより神ごとき皇帝の考えなど、誰にも理解できないはずだ。
気まぐれのような言動も、すべて意味がある。ゆえに、皇帝は気まぐれを起こさない。――とはよく言ったものだ。
トアには、神ごとき皇帝が恐ろしくてたまらない。人間離れした美貌といった外見も、恐ろしさしかない。何を考えているのかわからない内面も、恐ろしさしかない。
側近に上り詰める前に、皇帝が恐ろしい存在だと知っていたら、地方の行政官で満足できただろう。
皇帝が、バケモノだと知っていたら…………。
余計なことを考えすぎたと、トアは自嘲する。
異国の男は、祭壇の上で何も知らずに熟睡している。まさにまな板の上の鯉だ。
空気そのもののままでは、物体に干渉できない。トアは、男を拘束するために祭壇のかたわらで静かに魔法を解いた。床に張られた水に、かすかな波紋を起こした程度で、静かに灰色の神官は姿を現した。
熟睡していなくても、おそらくトアの出現に気がつける者など、めったにいない。暗殺者に向いているのではと、揶揄されるのも当然のことだった。
祭壇の上の男は左手を頭の下に枕代わりに敷いて、自然と体の横に伸ばされた黒い右手――神ごとき皇帝からの贈り物のには、
(パン?)
なぜこんなところに、すぐりのジャムがたっぷり塗られたパンがあるのだろうかと、トアは訝しんだ。それが、失敗の元となった。
異国の男が目を開けたのに、気づくのにほんの一瞬だけ遅れた。バネのようにしなやかな動きで体を起こした彼に、トアは思わず後ずさってしまった。
「なっ」
後ずさるのも、ほんの一瞬だけ遅れてしまった。その証拠に、ジャムをたっぷり塗りたくったパンを顔に投げつけられる。
そのために、彼はパンを手元に残していた。
祭壇の上で熟睡していたはずの男は、トアの行動をすべて知っていた。
「遅かったじゃないか」
冷ややかな声。けれども、彼は笑っていた。
トアは、顔についたジャムを忌々しく手で拭う。灰色の瞳は、屈辱的な怒りに燃えていたけれども、感情に流されるほど愚かではなかった。
「なぜ……」
「なぜ、俺が起きているのか、か? なぜ、あんたが姑息な魔法で近づくと知っていたか、か? それとも、他になにかあるのか?」
トアは答えられず屈辱に顔を歪める。なぜと口にしたものの、そこから先の問いまでは、形になっていなかったからだ。
祭壇に腰掛けて片膝を抱える男は、トアの返事などはなから求めてはいない。冷ややかな声で笑いながら続ける。
「まぁ、フェアにいきたいからな、俺は。俺だけがあんたの手の内を知っているのは、フェアじゃない」
「俺の手の内だと?」
主導権は、すでに異国の男が握っていた。トアは、彼の話に耳を貸さずに、もう一度やり直すべきだった。それができなかったのは、トアの自尊心が高かったからだ。
彼はもちろん、トアの成り上がり者にありがちな自尊心と劣等感を見抜いていた。
「ああ。あんたの特殊な魔法、結構有名らしいじゃないか。姿が見えなくなるだけじゃなくて、空気そのものになる魔法。閉ざされた扉も通り抜けられるし、誰にも気配を悟られることのない魔法。暗殺者でなくとも、喉から手が出るほどほしい魔法だろうよ」
大河を渡ってきた彼が、不意に名前を呼ばれたことも、直後不自然に意識を刈り取られたのも、トアの魔法を知れば納得がいく。
「もちろん、実体化しないとなにか触れることもできないし、声も届かないことも、知っている」
「あの小娘か」
ようやく、トアは彼の情報源に気がついた。
「リズだ。あのかわいい
トアがもう少し頭を働かせていたら、世話係のリズとのやり取りも魔法で監視するべきだったとわかっていたはずだ。邪魔をしたのは、もちろん異国の男への嫌悪感のせいだ。
「あんた、俺が嫌いだろう。俺もあんたは好きじゃない。その点、あの娘はあんたが教えてくれないことを、たくさん教えてくれたよ。俺のことが好きだったからな。だから、あんたが考えている以上に、俺はいろいろと知っている」
そのリズがトアのことを気味悪がっていたとは、あえて言う必要もないことだ。気味悪がっていたのが、彼女に限らないことも。
彼に好意を抱いていた彼女でも、この部屋の意味を最後まではっきりと教えてはくれなかった。
ますますトアの顔が屈辱に歪んでいく。
「今朝のスープに、睡眠薬が入っていたこともな」
「嘘だ! その小娘も知らないはずだ」
「俺は、名ばかりとはいえ、神なき医療の国の王子だぞ。くだらないことを訊いてくれるなよ。それとも、この国じゃ常識じゃないのか? ならしかたない。教えてやるよ。名ばかりとはいえ、命を狙われやすい立場にいると、毒には嫌でも敏感になる。ある程度なら耐性もあるしな。特に俺は、睡眠薬の類は一切きかない。別に、隠すほどのことじゃないから、俺のことを調べていれば、わかったことだ」
睡眠薬がきかないのは、彼が幻肢痛と悪夢から逃れるために、一時期過剰なまでに服用していたからだ。生死を危ぶまれるほど乱用した結果だった。
このひと月、彼を調べる時間はあった。彼が異国にいたからというのは、言い訳でしかない。
唇を噛むトアの前で、冷たく笑う彼はゆっくりと祭壇から降りる。床に張られた水が、今日はやけに冷たい。おそらく気のせいだろう。
「それから、俺は鼻がいい。嫌がらせのためだけに、ジャムを塗りたくったパンを投げつけたわけじゃない」
「クソが!!」
以前一度だけ、トアの魔法を臭いで見破った人がいるとまで、リズは話していた。
「さて、これであんたの疑問にも答えたし、俺の手の内も明かした。これでフェアにやれるな。なんなら、背中からでもいいんだぜ」
臭いでわかるからと、彼は笑う。
これ以上、彼に歪んだ顔を晒す前に、トアの姿が消えた。
黒い右手を背後の祭壇に置いた彼は、やはり背後を警戒しているのだろうか。
(ジャムの臭いがわかるだと、どうせハッタリに決まっている)
すぐに襲いかからないだけの、理性がまだトアに残っていた。
いや、一度冷静になれるだけの距離と時間をおかないと、殺してしまいそうだったから、無理にでも理性を働かせる必要があった。殺してしまったら、失敗だ。失敗は許されない。
(あの下働きの小娘が知っていることなど、たかが知れている。全部ハッタリに決まっている)
ハッタリだと言い聞かせるのは、ハッタリではないと理解してしまっているからだ。
次に魔法を解いてすぐに意識を刈り取ってから、拘束する。長引かせるわけにはいかない。これ以上、忌々しい男と関わるべきではない。
はたして、トアが次の瞬間姿を現したのは、慎重な性格から好んで標的に接近していた背後――ではなく、異国の男の真正面だった。息がかかるほどの至近距離に姿を現したトアは、拳を振り下ろしている真っ最中だった。
忌々しい男が、初めて驚き怯んだ瞬間、トアは成功を確信した。次の瞬間には、しっかりとその忌々しい顔を殴りつけていた。
このまま、気が済むまで殴り続けても、おそらく皇帝は何も言わないだろう。不愉快そうに美しく顔をしかめることはあったとしても。トアは、やり遂げたのだから。
笑いだそうとしたトアの顔は、すぐに苦痛に歪む。激痛がどこから押し寄せてきたのか、すぐにはわからなかった。骨ごと左の太ももを何かが貫いたと理解したとき、彼は床に倒れこんで苦悶の声を上げていた。
床に張られた水が赤く染まっていく。
船の上に打ち上げられた魚のようにのたうち回るトアを、殴られた頬を左手でさすりながら、彼はやはり冷ややかに見下ろしている。
「フェアにやろうって言ったな。あれは嘘だ。俺は鼻が人よりきくわけでもないし、手の内を明かしたわけじゃない」
祭壇に置かれていたはずの黒い右手は、手首から先がまるで剣のように鋭く伸びていた。滴る血を払うように彼が一振りすると、元の手に戻った。
「俺が右腕ではないと疑えば、右腕の形を失う。つまり、右腕だと受け入れていれば、右腕だ。なら、剣だと思えば、どうなるか。ぶっつけ本番だったが、うまくいってよかったよ」
トアは聞いていなかった。
失敗した。その事実で、トアの頭はいっぱいだった。いや、もしかしたら失敗した自分に待ち受ける運命のほうだったかもしれない。どちらにせよ、トアは失敗したのだ。失敗した以上、この先の恐ろしい運命を避けるためにできることはただ一つ。
「……せ」
「ん?」
「ころ、せ」
トアの必死の訴えに、彼は首をかしげる。
「なんで、あんたを殺さなきゃいけないんだ?」
「いいから、殺せ。殺してくれ」
頼むから、後生だからと、トアは懇願し続ける。
けれども、異国の男は困ったように肩をすくめただけだ。
「殺す理由がない」
「俺は、貴様を、殺そうと、した」
「嘘だね。あんたがその気なら、俺はとっくにやられている」
いよいよ絶望を濃くするトアだったけれども、懇願することをやめなかった。いや、やめられなかった。
「頼む、どうか……」
「あのさ、生贄が何なのか知らないけど、今ここで俺かあんたが死ぬのはまずいんじゃないか」
「なっ」
どうしたものかと、彼は左の耳たぶをつまむ。
生贄が何なのか知らないけれども、生贄と呼ぶからには生きている必要があると、彼は考えていた。
人が来る気配もない。外に人呼びに行くべきか、彼は迷った。
「それとも、ここでとどめを刺すのが、正解なのか」
ひとりごちると、絶望に沈んでいたトアの苦痛に染まった顔が輝く。早く殺してくれと伸ばした手は、途中で止まってしまった。
「いや、とどめを刺さないのが、正解だよ」
一度耳にしたら忘れることのない美しい声とともに、神ごとき皇帝は忽然と祭壇の上に現れた。降臨したというべきだっただろうか。
緋色の幅広のズボンのみを身にまとった皇帝の手には、金の酒盃。
微笑みかけられたトアは、恐怖で心臓が止まってしまえばいいのにとすら考えていたかもしれない。
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