現在に影を落とす過去

 ヤスヴァリード教には、十柱の神々がいる。荒野を肥沃な大地に変える力を与えた大いなる神と、八つに切り分けられた白き聖獣イェンの肉片から誕生した八柱の眷属神。それからこの世界に終焉をもたらす永遠の少女神ナージェ。

 大いなる神は、持てる力をすべて歴代の皇帝に与える代わりに、その躰の裡で眠り続けている。初代皇帝の血を受け継ぐ者だけが、大いなる神と眷属神をその躰の裡に眠らせられる。

 永遠の少女神ナージェがこの世界に降臨するその日まで、大いなる神と眷属神は、人類の繁栄を約束した。特に、大いなる神を崇めるヤスヴァリード教の信徒には、世界の終焉の後も善良なる魂は救済される。

 終焉の後の救済のためにも、善良であるように務めなければならない。

 それが、ヤスヴァリード教の教義だ。


 リディの故郷の教会は、教義を学ぶ場所で、日々の行いを見つめ直す場所。まさに宗教施設だ。

 ところが神の国の教会は、リディが知る教会とは違って、基礎教育の場所であり、司法の場所であり、ギルが言っていたように魔力の安定装置としての聖石を清める場所でもあった。


 教会の入り口を入ってすぐに、リディはギルにうながされるままに聖石を外して預けなくてはならなかった。

 魔力を安定させるためだと理解していても、肌身離さなかった聖石を外すのは抵抗があった。

 なんだか、自分の一部が欠けてしまったようで落ち着かない。

 安定装置の聖石を外しても、教会の中なら魔力が暴走しないらしい。


 ギルは、用事があるからとそこで別れた。

 すぐに戻るからと、教会の聖堂で説教を聞いて待つように言われた。ギルの用につきあうよりも、リディは教会の聖堂のほうが興味があった。

 教会の外観は期待はずれだったけれども、一歩中に踏み入れれば寄木の床に八柱の眷属神のタペストリーを飾る壁と、祖国の最上級の教会に劣らないのだと知った。入り口でこれなのだから、この先の聖堂はと彼女が再び期待するのは、無理からぬ話だった。


 リディは一人で、聖堂に向かった。母娘らしき住人のあとについて行く形で。

 はたして、聖堂は彼女のがっかりはさせなかった。

 白い漆喰の壁に、柱の天井近くにはめ込まれた黄金の装飾。

 真っ白な髪と黄金の瞳を持つ大いなる神を崇めるにふさわしい場所だ。

 正面にある大いなる神と聖獣イェンの像は、まだ新しそうだった。とはいえ、彼女が見た像の中で一番立派で大きかった。

 人はまばらだったのは、お昼時が近いというのもあるのだろうか。


(来てよかったわ、本当に)


 感無量でたたずむ彼女は、背後から聞こえてきた咳払いに我に返った。

 慌てて振り返った彼女は頭を下げて、すごすごと二列に並んだベンチの一番後ろに座った。

 咳払いの主の顔をろくに見ずに頭を下げた彼女は、座ってからこっそりと後ろをうかがう。

 精悍な顔つきの青年が、入り口の横で神官服を着て仁王立ちしていた。


(赤い腕章は、たしか保安神官、だったかしら)


 ギルから教えてもらったばかりだったから、すぐにわかった。

 保安神官は、治安維持のために武装を許可されているとも聞いていた。たしかに、その腰には支給品らしき剣がある。


(あまりかかわらないようにしないと)


 警備のために入り口近くに構えているだろうと、彼女は考えた。

 ふうと息をついて保安神官に気づかれる前にと、肩をなでおろす。


(教会は久しぶりね)


 最後に訪れた教会は、神なき国のアスターにあった教会だった。神なき国でも、異国から訪れる信徒のために教会があるのだ。神なき国と呼ばれているけれども、信徒に対する偏見があまりなかったことが、意外だったと彼女は思い出す。


(あんなことがあった日が、最後だったなんて、ね)


 アスターの教会には、忌まわしい思い出しかない。ヴァルト王国の反体制派の拠点の一つで、犯罪組織にとって都合のいい巣窟だったのだから。


(忘れなきゃ。あそこは、教会なんかじゃなかった)


 こっそりため息をついた彼女は、顔をあげて壇上の神官の説教に耳を傾けた。


「今、封印を解かれている眷属神は、皇帝陛下の弟君の裡に眠る豊穣の女神のみであらせられる。農業が盛んな南部では、神ごとき皇帝と劣らぬほどに崇められている。だが、このニーカは違う。街のはずれに国営の魔道具工場が建てられて、今年で二十年。ここニーカは、我が国でも有数の工業の街として発展してきた。豊穣の女神の恩恵なく、我々住人ひとりひとりのたゆまぬ努力によって、この街は変わった。こらからもますます発展していくだろう」


 三十歳くらいの男性神官の説教は、リディにはとても新鮮だった。


(なんだか、政治家や活動家の演説みたいね)


 祖国の街頭でしばしば耳にした演説によく似ていた。彼女が聞いてきた説教は、もっと道徳的な話が多かった。もっとも、彼女の祖国が共和制になったきっかけが、教会側の過度な政治介入だったことを考えれば、政治的な説教を避ける風潮があったのかもしれない。


(この街は、工業が盛んっと)


 覚えておいて損はないだろう。これからしばらく滞在するのだから。

 説教をする神官の手には、鎖に吊るされた振り香炉があった。後で、振りながら聖堂の中を練り歩くのだろう。

 焚かれている香の匂いは、最後列のベンチにいるリディまで届いている。


(なんだかったかしら、この香は……)


 儀式によっては、焚かれる香が違う。教会で使われる香を、彼女は一通り記憶している。けれども、久しぶりに教会を訪れたせいか、馴染みのあるこの香りの正体がわからない。


「近年増え続ける出稼ぎ労働者には……」

「あっ」


 突然、ひどいめまいが彼女を襲った。

 ぐらりと歪んだ視界に、吐き気を覚える。いや、吐き気がこみ上げてきたから、視界が歪んだのかもしれない。


(なに、これ)


 目を閉じて頭を抱えるけれども、耳鳴りまでしてきた。


 ――殺せ。殺せ。簒奪者の息子を殺せ。


 耳鳴りがするのに、はっきりと聞こえてくる忌まわしい声。

(なん、で。わたしはもう……)


 固く閉じた瞼の裏に蘇るここではない光景。

 薄暗い部屋。汚れた壁。壁の向こうから聞こえてくるうめき声。耳元でささやくフードを目深にかぶった男。それから、甘ったるい匂い。


 ――殺せ。殺せ。殺せ。殺せ殺せころせころせころせコロせコロせコロ……


 終わったはずだった。

 過去やレッテルに縛られない新しい人生を始めたはずだった。


 ――簒奪者の息子を殺せ。


 フードの男の声が、いつの間にか自分の声にすり替わっていた。


 あのとき握りしめていたハサミで、人を傷つける感触。


「いやぁああああああああああああああああああ」


 終わったはずだった。

 それなのに、どうしてまだ過去に苦しめられなくてはならないのだろうか。


 ぷつりと彼女の意識が途絶えた。

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