突きつけられた問題
まず感じたのは、前髪を揺らす風だった。
それから子どもたちが走り回る声。
まぶたが重い。
頭も重い。
(わたし、なにをしてたんだっけ)
嫌なことがあったのだと、ぼんやりと覚えている。
二度と思い出したくないほどの嫌なことがあった。
(思い出したくないのに、忘れちゃいけない)
なぜ忘れてはいけないのか、わからない。
考えるだけで、体が震えるのに。
(そうだ、わたし、教会で……)
あのときのことを思い出してしまった。それも、吐き気をもよおすほど鮮明に。
「あ、あ、あ……」
吐き気となってこみ上げる恐怖に震える肩を掴んでくれた手が、彼女を現実に引き戻してくれた。
「しっかりしろ、リディ」
「ギル?」
まばたきを繰り返すうちに、心地よい風や子どもたちの声といった現実が戻ってきた。もちろん、心配そうに顔を覗きこむギルの存在も。
「ここは?」
「教会の外だ」
ぎこちなく周りを見渡すと、ギルの言ったとおり、教会広場のすみにあるベンチに座らされていたのだと知った。
困惑する彼女に、ギルは意識を失っているあいだに起きたことを教えてくれた。
聖堂で意識を失ったリディにまっさきに駆けつけたのは、聖堂で警備にあたっていたあの咳払いをした神官だったこと。
ひとまず別室に運ぼうとしたところに、騒ぎを聞きつけたギルが駆けつけたこと。
「で、外の空気を吸わせたほうがよさそうだったんで、ここで休ませてたってわけだ」
「なんで、外の空気をなの?」
たしかに、目が覚めてもまだ教会の中だったら、また悲鳴を上げて錯乱していたかもしれない。
ギルの判断は正しかった。こうして、外の空気を吸っているだけで、すっかり体の震えや吐き気はおさまっているのだから。
「うわ言。はっきりと聞き取れたわけじゃないが、それを聞いて教会の中で休ませるのはまずいと判断した」
「うわ言」
どんなうわ言だったか察したリディの顔が青ざめる。そして、ギルが気を遣ってくれたことも、自分が何をしでかしたのか彼が把握していることにも、気がついてしまった。
(当たり前、よね。当たり前じゃない。わたしが王太子暗殺にかかわったことくらい把握しているに決まっているじゃない)
うつむいて震える彼女に、ギルはどうしたものかと左の耳たぶをつまんだ。
(まぁ、触れないつもりだったが、しかたないわな。まったく、ここまで退屈させてくれないとはな)
彼は耳たぶから手を離した。
「リディ、お前がヴァルト王国を追放された経緯は把握している。反体制派がどうやってお前を王太子の暗殺に利用したのかも、顛末も含めて、公にされていないことも知っている。当然だろう、人を預かるからには、事前に相手の詳しく調べるのは」
「……そう……そっか、そうよね」
ビクリと肩を震わせた彼女は、今にも泣きそうだった。
(どう考えても、リディは被害者なんだがな)
魔女のクスリと呼ばれる禁断の薬物で洗脳された上で、王太子暗殺未遂の実行犯にされたのだ。本人の意思をねじ伏せられたのは、明白だった。
リディは明らかに被害者だ。
「わかっているのよ。頭ではちゃんと理解しているのよ。割り切ろうとしているのよ。わたしは悪くないって。巻き込まれただけだって」
とはいえ、人を傷つけて平然としていられるほど、リディは図太くない。咎められることなく、むしろ寝たきりになるほど病状を悪化させた彼女を大河をわたらせて健康な体を与えてくれるように取り計らってくれた。罪悪感を抱かずにいられるわけがない。
言い訳じみてて、格好が悪いなと、頭の片隅で自嘲する声を無視して、彼女は嗚咽とともにこみ上げてきた思いを吐き出し続ける。
「わたしを生かしてくれたのだって、体裁を取り繕うためだって、わかっている。純粋にわたしのためだなんて思っていない。ちゃんとわかっている。わかっているのよ。わたしは被害者で、利用されただけで、わたしがこうして生きているのは、そのほうが国の利益になるからだって、わかってる。わかっているのよ」
子どものように泣きじゃくるリディを、ギルはただ黙って見守っていた。
「全部、わたしの知らないところで終わったこと。今さら、今さらじゃなくても、わたしみたいなのがどうこうできることじゃない。それもわかっている。だから、だから、こうして生かされていることが、生きていくことが、わたしの償いなんだって……一から新しい人生を始めなきゃいけないんだって。だからわたしはここにいるのに」
なのにどうしてと、リディは顔を上げる。無意識のうちに答えを求めたのは、ギルだった。けれども、おそらくギルでなくともよかったのだろう。涙で滲んだ視界では、隣に座る男の顔もよく見えなくなっていたのだから。
「どうして、またあんなことになるのよっ。もう終わったことなのに、終わったことだって割り切ろうって決めていたのに……なんでなんで…………あ、もしかして、まだ魔女のクスリの影響がわたしの体に残っているんじゃないの。そうよ、そうに決まってるわ。そうなら、わたしを治癒してよ」
魔女のクスリの後遺症はないと、大河を渡る前に神なき国の医者が太鼓判を押してくれていた。リディは無条件でそれを信じていたし、実際、それらしき症状はなかった。
涙を拭って懇願するリディに、しかしギルは首を横に振った。
「なんで、なんで! わたしの胸の病を、あんなにあっさり治癒してくれたじゃない! 魔女のクスリの後遺症なんて……」
「落ち着けよ、リディ。あのな……」
リディの肩に手をおいて、ギルはなだめようと口を開きかけて一度閉じる。
彼女の背後に視線を移した彼は、ニッコリと仮面のような笑顔を浮かべると、彼女の肩をポンポンと叩いてささやいた。
「ちょっと黙って座ってろよな」
「え、なんで……あ」
戸惑う彼女は、すぐに彼の視線の先にいたのがあの神官の青年だと知った。
短く刈りこんだ茶色い髪とガタイのいい体格の青年は、神殿のほうからまっすぐこちらに走ってきた。
(わたしに真っ先に駆けつけてくれた人、よね)
聖堂の入り口で感極まって立ちすくんでいたところに、咳払いをされたときは、関わりたくないと思った。赤い腕章しているのが、街の治安を守るために武器の所持を許可された保安神官だと聞かされていたせいもあるけれども。
あまりいい印象を持っていなかった彼だけれども、日の光のもとでは、どこか頼りない好青年に見えるから不思議だ。
お礼の言葉だけでもと腰をあげようとした彼女に、ギルは仮面のような笑顔のままもう一度ささやいた。
「ひどい顔をしている自覚がないのか、リディ。いいから黙っていろ」
「うぐ」
たしかに泣きはらした顔なんて見られたくない。けれども、ギルが自分のために言ってくれたのだと思うほど、彼女は彼を信用しきれていなかった。なにより、ギルの仮面のような笑顔が不気味でしかたない。
(でもたぶん、わたしが下手なこと言って話がややこしくなるかもしれないからなのよね、きっと)
彼女がおとなしくうつむき目を伏せていると、ギルは彼女をかばうように腰を上げる。
駆け寄ってきた保安神官は、すぐに頭を下げた。
「お待たせして申し訳ございません」
「いえいえ、僕の又従姉妹を助けてくれたうえに、お手を煩わせてしまったのです。頭を下げるのは、僕ですよ」
リディは鳥肌が立つのをおさえられなかった。
(
鳥肌は拒絶反応だった。
彼女はもともと外面がいい人が苦手だった。何を考えているのかわからないからだ。
嫌悪感を抑えるように腕を抱いた彼女が、保安神官の目には具合を悪くしたように映ったらしい。
「しかし、まだ顔色が悪いようですが。中で休んでもらったほうが……」
「結構ですよ。彼女に今必要なのは新鮮な外の空気ですからね」
実はと、ギルは仮面のような困り顔で続ける。
「実は、彼女の家が複雑なのですよ。人には聞かせられないほどのことが、この一年ほどの間に立て続けにありましてね。彼女は悪くないのですよ。ええ、もちろん。どうも生まれつき星のめぐりが悪いというかなんというか。さすがに不憫すぎるということで、ハウィンにいる僕の知り合いの家に引き取ってもらうことになったのですよ」
「は、はぁ、あの……」
「とても複雑な事情のある家で、彼女はほとんど外に出ることもなかったのです。神聖な教会を悪くは言いたくないのですが、静かで少し暗い室内はどうも嫌なことを思い出させるようでしてね。僕も教会なら問題ないだろうと一人にさせたのがよくなかった。不憫な彼女の境遇を考えれば……」
ギルが何を言っているのか、リディはさっぱり理解できない。
(なんなのこいつ。どれだけ舌が回るのよ)
ちらりと保安神官の様子をうかがうと、彼も戸惑いをあらわにしていた。おそらく、今すぐにでもギルの前から立ち去りたくてしかたないのだろう。
「彼女がいかに不憫な境遇だったのかお聞かせできたら、彼女の様子に納得していただけるはずです。しかし、僕の口からお話しては、彼女を傷つけてしまうだけ。あなたは、少しも悪くないのです。悪いのは、彼女をそうさせてしまったあの醜い継母です。僕にもっと力があればよかったのですが……」
ギルの内容のない話に終りが見えない。
親切な保安神官のためにも自分のためにも、リディは終わらせたい。けれども、終わらせ方がわからない。下手に口を挟めば、自分が異国から来たことがバレてしまいかねない。
(なんなのこれ。なんなのこれぇえええええええええ!!)
彼女はますます強く自分を抱きしめる。
「あの、本当は中で休まれたほうがよろしいのでは?」
「え、あ……」
ギルのほら話に付き合いきれなくなった保安神官は、膝をついてリディの顔をのぞきこむ。
「いえ、もう大丈夫ですから。心配してくれて、ありがとうございます」
「そうですか……」
ぎこちない笑顔になってしまい、保安神官は納得してくれなかった。
ちらっと不満そうなギルをみやった彼は、リディにだけ聞こえるようにささやく。
「自分はベイズ・フィーといいます。困ったことがあればいつでも力になりますよ。保安神官として」
「ありがとうございます。本当に大丈夫ですから」
「わかりました。あなたがそう言うなら」
ベイズと名乗った保安神官が、ギルこそ自分の不幸の原因ではないかと疑いを持っていたのではないか。彼女がそのことに気がついたのは、もう少しあとのこと。
「では、こちらを」
「たしかに受け取りました」
彼はギルに何かを手渡して、もう一度心配そうにリディを見やると、教会に駆け戻っていった。
親切な保安神官が教会の中に入っていくのを見届けてから、ギルはどかっとベンチに腰を下ろした。仮面のような表情を脱ぎ捨てた彼は、リディが信用しようと決めた彼に戻っていた。
「ほら、お前のだ」
「あ、わたしの聖石」
聖石を教会に預けたままだったことに、彼女はようやく気がついた。
「お前を外に連れ出さなきゃならんかったからな。あいつに受け取ってもらうように頼んでいたのさ」
蛍石の聖石は、預ける前に比べていくらか輝きを増している気がした。
首にかけると、不思議と気分がよくなった。
(感情に左右される魔力の安定装置なのよね。それってつまり、感情も安定させているってことなのかな)
そういうことなら、先ほどまで恥ずかしいくらい取り乱していたのも、説明がつく。
裏付けるように、輝きを取り戻したオニキスを首にかけたギルが教えてくれる。
「聖石を預けている間は、魔力が暴走させないために教会の中にとどまるように推奨されている」
だがと、彼は左の耳たぶをつまむ。
「だが、お前は教会に行かないほうがいい」
「それは、魔女のクスリが……」
「いや、魔女のクスリの仕業じゃない」
彼ははっきりと魔女のクスリの後遺症を否定した。
「これは、心の問題だ」
「心の?」
「トラウマと呼んでもいい」
心の傷は治癒ではどうにもならないのだと、彼は続ける。
「そんな……」
信仰の場所である以前に、心の拠り所でもあった教会。
それが心の傷をえぐる苦痛の場所になってしまった。
愕然とする彼女から目をそらしたギルは空を見上げる。
「厄介だよな」
「そんな知ったようなことを……」
「知っている。この身をもって、知っているさ。トラウマってやつが、どんなに厄介か」
ギルが空にかざした黒い右手。
失った右腕の苦痛を癒すすべを求めて彼が大河を渡ってきた話を、リディは思い出した。
失言だったと唇を噛む彼女に、ギルは手をおろして肩をすくめた。
「参考になるとは思えんが、聞かせてやるよ」
大河を渡ってきた人生の先輩として、今までに誰にも語ったことのない失った右腕にまつわる物語をつむぎはじめる。
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