朝支度〜リディの場合〜

 ギルが用意したリディの着替えは、誰も袖を通していない新しいものではなかった。明らかに古着だったけれども、洗濯してあったので不快感はない。

 砂色の厚手の長袖シャツは、袖口に幅広の帯がぐるっと縫い止められていた。

 そのシャツの上に赤茶色の袖なしのワンピース。すとーんとしたシルエットのワンピースは、リディの痩せぎすの体型を強調してしまっている。シャツの袖口のものと同じ柄の帯を腰に結んでも、女らしい丸みは少しも現れなかった。

 痩せぎすの体型は、付き合いの長いコンプレックスで、今さら気にしすぎてもしかたない。


(でも、治癒は完了したわけだし、昨夜はあれだけ……うん、きっと体型も変われるかも)


 前向きに気持ちを切り替えて、彼女はベッドの端に腰を下ろす。ふくらはぎの中ほどまであるワンピースの裾から、くすんだ茶色の毛糸の長くつ下と、ヴァルト王国から履いている革靴があった。


 手持ちぶたさになった彼女は、空色と灰色の毛糸で織られた帯をしげしげと眺める。


「魚、かしら」


 抽象化されすぎて、確信が持てない。空に群がる雲のようにも見える。


「空を泳ぐ魚、なわけないか」


 さすがに今いる旅館の空を泳ぐ魚亭にあやかってというのは、考えすぎだろうと彼女は苦笑する。


 ギルはまだ戻ってこない。


「揉めてない、よね」


 テーブルの残骸を横目に、ため息をつく。


(そういえば、あまりお腹空いてないわね)


 昨夜我を忘れてあれだけ食べておいて、ひと晩であの食欲が戻ったら、それはそれで先が思いやられる。


「魔法とか、魔力って、なんなの」


 胸に巣くっていた病魔の枷が外れて、魔力が顕現したのは理解している。

 先ほども、胸に生じた熱の正体が魔力であることも体で理解している。

 けれども、わからないことのほうが多い。


「帝国の人は、誰でも魔力を生まれつき持っているって言ってたけど、個人差も大きいのよね、たしか。もっとしっかり聞いておくべきだったわ」


 魔力を魔法として自在に行使できない者も珍しくないから、異国からやってきたリディでも生活に困らないだろうと言われて、聞き流していたのが悔やまれる。


「また一から教えてもらわないと」


 保護者のギルが戻ってこないと、始まらない。


 じっとしててもしかたないので、ベッドを離れて窓に向かう。寝椅子に膝をついて上げ下げ窓を開けると、気持ちの良い風が彼女の髪をなびかせる。


「うわぁ」


 感嘆の声を上げてしまった。


 陽の光のもとに晒された街の眺めは、第一印象のがっかり感をいともたやすく塗り替えた。

 ゴチャゴチャとひしめき合う建物たちは、それだけ多くの人が暮らしているのだと、気がつかされた。

 南向きの窓は、教会通りと呼ばれるとギルが教えた大通りに面していた。

 まだぎりぎり朝と呼べる時間帯のようで、夕暮れ時よりもずっと活気が溢れていた。

 坂道を駆け上がる子どもたち。

 野菜だったり、木材だったり、リディにはよくわからない物を積んだ荷車もたくさん行き交っている。中には、幌がはちきれそうな荷車も。度肝を抜かれたトラムとは違って、人や馬、それからロバが荷車をひいていた。


「荷車は魔道具じゃなさそうね」


 窓の外に身を乗り出して、きょろきょろと魔道具らしきものを探してみるけれども、昨日北壁をこえてきた彼女にわかるはずがない。

 魔道具はわからなくても、通りを眺めているのは楽しかった。不安がるのも馬鹿らしくなるほど、彼女の胸は踊っていた。

 しばらくすると、教会があるという坂の上のほうから、トラムが滑るように走ってきた。


「トラムだわ!」


 ひとりでに走る車は、彼女の目の色によく似た濃い緑色の屋根だったこともあって、声が弾む。

 トラムの行く手にいた人々は、慣れた様子で道を開ける。


(わたしも乗れるかな)


 坂を下っていくトラムを、見えなくなるまで彼女は目を離さなかった。


 街の活気は、痩せぎすの女一人の不安を高揚感に塗り替えていく。もしかしたら、ギルが与えてくれた服の効果があったのかもしれない。彼女が見下ろす通りには、彼女が着ている長袖のシャツと袖なしのワンピースと似たりよったりの服を着た女の人も多く行き交っていた。


 神の国の一員となったのだと、小さな実感が彼女の中にあった。


 別のトラムが坂の下のほうから走ってきて彼女が身を乗り出すと、カランカランというベルの音がした。


「ひゃ!」


 ギルはまだ戻ってこない。今、部屋にはリディしかいない。


 カランカラン


 ビクッと肩を震わせている彼女を急かすように、再びベルの音がする。


(な、なんなのよ)


 彼女が身をすくませている間も、ベルは鳴り続ける。まるで彼女を急かすように。


「落ち着きなさい、リディア・クラウン。深呼吸よ、深呼吸」


 吸って吐いて、吸って吐いて、吸って吐いて、吸って――


「うぉをっひゃあ」


 独特な声を出して彼女は肝を据えると、ベルの音がする背後を振り返る。

 カランカランとなるベルは、ドアの上にあった。


「あ、もしかして……呼び鈴?」


 怯えて損したと、彼女は笑う。


「普通、ノックすると思うじゃない」


 頬を叩いて顔をひきしめて、何事もなかったかのようにドアを開けに行った。


 防音対策用の魔道具が有効になっている施設では、ノックよりも呼び鈴が実用的だと、彼女はあとで知った。


 急かすように鳴り続けるベルの音に顔をしかめながらのぞき穴で廊下を確認すれば、案の定ギルだった。

 もう一度顔をひきしめて彼女は、ギルを部屋に入れた。


「話、ついたの?」

「ああ」


 わざとでなくともテーブルを割ったのは、リディだ。まっさきに尋ねたのは、後始末を押しつけてしまった後ろめたさがあったからだ。


(やっぱり、わたしも一緒に行って謝るべきだったんじゃないかしら)


 こともなげに返事をしたギルはクローゼットを開けて、寝椅子のそばにあった袋を引き寄せてなにか出し入れしている。


「本当に?」

「嘘ついてどうする。きっちり金で解決してきた」

「金?」


 リディの声は、不快感と非難が込められていた。手を止めたギルは、小さなため息をついて振り返る。


「飯の種にもならない謝罪が大事なときもあるが、今回は金に物を言わせたほうが後腐れなくていいだろ」

「でも……」


 昨日、ギルはロバの保証金を持ち逃げされている。まだ金銭の価値がわかっていないリディですら、それがはした金でないことは理解している。


(なんだか、わたしのせいで……)


 情けなくて、彼女は唇を噛んだ。


「心配するなよ。これでも俺は残りの人生、遊んで暮らしても余る程度には、金持っているからな」

「へ?」


 これほど説得力がない台詞もないだろう。


(もしかして、わたしに心配させないために嘘をついているの?)


 昨日と同じ継ぎの目立つジャケットを羽織っている彼が大金持ちだなんて、信じられるわけがなかった。

 嘘をついているなら、惨めすぎる。今からでも謝罪に行って、弁償する額を少しでも減らさなくては。


「あのな、信用しろって言ったばかりだよな。リディ」


 うつむいていた彼女は、ハッとさせられた。


「で、でも……」

「いや、気持ちはわかるし、ありがたい。けどな、お前はまだこの国になれていない。そんなやつが、厄介ごとの後始末なんてできると思うか?」

「…………」


 リディは言い返せなかった。


「責めてるんじゃない。恥じることもない。俺だってこの国に来たばかりは、何もできなかった。甘えられるうちに甘えておけよ」


 それにと、彼は続ける。


「俺はお前の保護者だ。責任を負うのは、当然のことだろ」

「わかってるわよ」


 頭では、とうに理解している。けれども、心が納得してくれないのだ。


(ギルのせいじゃない。わたしが解決しなければならない問題よ)


 まだギルという保護者をよく知らない彼女には、もう少しだけしっかりとした説得力が必要だった。


「でも、本当にあなたお金あるの? 信用しろって言うなら、証明してほしい」

「確かに、お前の言うとおりだな」


 どうしたものかと頭をかくギルは、できれば今抱えている仕事が終わるまで、極力自分のことを彼女に明かしたくなかった。追求されても、今はまだだとはぐらかすつもりでいた。

 はぐらかされてたまるかと、リディはまっすぐ彼を見据えている。もっとギルを信用したい彼女に、彼は応えなくてはならない。


(まぁ、保護者の俺の素性がわからないってのが、一番不安だよな)


 他人に言いふらすなよと、前置きして彼は彼女に応えた。


「俺は神ごとき皇帝に直接仕える神官の一人だ。だから、そのらへんのやつらより稼ぎがいいんだよ。養う妻子もいないし、倹約が趣味なんでね。財産は増える一方。この国の金銭がわかるようになったら、俺の全財産を教えてやってもいい。今、教えたところで、理解できないだろうからな。まぁ、ある意味、使い切れない財産を消費するいい機会になってるから、変に気を遣って遠慮するなよ」


 一気に言われても、リディは半分も耳に残らなかった。


「こんなときに冗談なんて……」

「冗談なんか言ってない。どこが、冗談に聞こえたんだ?」

「あんたが、皇帝陛下に直接仕えているってところよ!」

「やっぱ、そこだよなぁ」


 あいにく、リディに証明できる物を彼は持ち合わせていない。


「あのね、神なき国の元王子が、神の国の民になっている。それだけでも、正直たちの悪い冗談にしか聞こえないのよ。その上、神ごとき皇帝に仕えているなんて、馬鹿にしないでよ」

「俺が神なき国の元王子だったから、皇帝に拾われたんだがな」

「は? 何言ってるのよ」

「神なき国の、それも神ごとき皇帝に刃向かった男の末裔が、大河を渡って来たのが珍しくて、いきなり皇帝の前に引きずり出されたんだぞ、俺は。俺は、そんじょそこらの珍獣よりも、皇帝の興味を引いたらしい。そうでなかったら、北壁を越えられるわけがないだろ」

「つまり、ギルは神なき国の元王子だったからこそ、皇帝陛下の目に止まったということ?」

「そういうことだ。納得だろ。ま、それからなんやかんやあって、神ごとき皇帝に気に入られて今に至るわけだ」


 リディは、納得させられてしまった。

 そもそも、ずっと理解できなかったのだ。なぜギルが、神の国の民に認められているのかが。


(たしかに、神なき国の元王子なんて珍獣よりも珍しいかも……)


 物珍しさから、皇帝に招き入れられた。これほど、説得力のある理由はない。

 それはつまりと、彼女はある結論に至ってしまった。


「じゃあ、昨日言ってたアレも、冗談じゃなかったの?」

「昨日言ってたアレってなんだ?」

「わたしの帰化を認めてくれたのが、皇帝陛下だって話よ」

「俺は、冗談だなんて言ってないぞ」


 こともなげに言われてリディは、頭を抱えた。


「いやぁああああああああああああ!! わたしも、わたしまでなんて、いやぁあああああああああああああ!!」

「お、おい……」

「こんなやつと同類なんて、いやぁああああああああああああああああ!!」


 ギルと同類として皇帝の目に止まったかもしれないことが、リディはとうてい受けいれられなかった。

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