第三章

最悪な朝

 リディの母は、敬虔なヤスヴァリード教の信徒で過保護で虚栄心が強くて、なにより神経質な人だ。

 母が神経質だったから、一人娘のリディまで神経質な女だとレッテルを貼られてしまったのだ。


 リディが三才の冬に高熱を出して死にかけたせいで、もともと過保護だった母がますます過保護になり、たまにしか家から出ることがなかった。そのたまにの外出ですら、教会しか記憶にない。

 父は母に頭が上がらず、家の中心にいたのは母だった。

 そんな狭い世界では、母が正しいかった。それはもう、疑う余地のないほどに。

 母のようになるのが、正しかった。


 転機は、十年前。彼女が十歳の晩春に訪れた。

 神なき国に嫁ぐことが決まっている従妹が、許嫁との初顔合わせのために彼の国に赴き帰国したときの祝宴。

 祝宴とは名ばかりで、実際には初顔合わせで相手の王太子に泣かされた従妹を慰めるための催しだった。


「あんな罰当たりな国と関わるなんて、とんでもないことです」

「はい、お母様」

「あなたは、かわいそうな従妹を慰めてあげなさい」

「はい」


 神に背いた王国に嫁がなくてはならない従妹は、彼女にとって悲劇のヒロイン以外の何者でもなかった。

 従妹のジャスミンは、まだ七歳。

 彼女が年の近い子どもと関わるのは、これが初めてだった。

 傷ついている子を慰めてあげなくてはと、息巻いてすらいた。


 それなのに――


「いい女になってやるもん!!」



 小さな体で、めいっぱい胸を張って宣言する彼女の赤毛の髪は燃えるようで、新緑の若葉のような瞳は強く輝いていた。

 ジャスミンは、ちっともかわいそうじゃなかった。


 リディの母が中心にいた狭い世界に、風穴があいた瞬間だった。




「ぶわっくしょん!!」


 起きるのと同時に盛大なくしゃみをしたのか、盛大なくしゃみで起きたのか。

 どちらにしろ、リディの目覚めは最悪だった。

 若い女に似つかわしくないくしゃみの勢いで、彼女は上半身を起こしていた。


「おう、やっと起きたか、リディ」


 両手を鼻先にやる彼女を、ギルは愉快そうに笑っていた。


「み、見ないでよ!」


 今さらだったけれども、リディは顔を赤くしてギルをにらみつける。


(最悪。なんで朝からこんなやつに……)


 恥ずかしさから顔を赤くしていたのは、ギルの左手にあるものに気がつくまでだった。


「ギル、それぇええええ!!」


 今度は怒りに顔を真っ赤にさせて、ギルの左手のソレに指をつきつける。ソレは、細長く割いた紙の端を撚ってさらに細くしたものだった。

 ギルの細い目はきれいな弧を描き、明らかにリディの反応を楽しんでいる。


「ん、これか。これは、こよりだ」

「そんなこと、見ればわかるわ。わたしがいいたいのは、なんでこよりなんかを持っているかってことよ!!」


 怒る彼女に、ギルは大きく腕を広げてみせる。


「リディを起こすために使ったに決まってるだろ」

「なんでその方法なのよ」

「怒るなら、昨夜の自分に怒るんだな。俺は約束を守っただけだぜ。指一本触れてない」

「他に方法があるでしょ」

「そう言うなら、教えてくれよ。どんなに声をかけても、ぐうっすりスヤスヤお眠りのお嬢さんを指一本触れずに起こす方法をな」

「くぅううう」


 考えれば、他にも方法はあるに決まっている。

 ギルが他の方法を考えついていたかどうかは、リディにはわからない。


「さいってー」


 唸るような声で拳を握りしめた彼女の胸の奥が熱くなる。


 ギルの弧を描いていた細い目が、すぅっと険しい横一直線となる。それは一瞬のことで、リディが気がつかないうちに申し訳なさそうに目尻を下げて頭をかく。


「悪かった」

「はぁ?」

「悪かったって謝ってんだ」

「はぁ?」

「いや、だから……」

「謝ってすむことじゃない!」


 胸の奥の熱が全身に広が……らなかった。


「あれ」


 急に引いた熱に、彼女は戸惑う。彼女の額にギルの黒い右手が触れていることにすぐ気がつかないほどに、戸惑っていた。熱が生じたことに、少しも違和感すらなかったというのに。


「はい、落ち着け」


 右手を離して、ギルは身をかがめて彼女の顔を覗きこむ。


「今度は、ベッドを壊すのか。勘弁してくれよな」

「へ?」

「指一本触れるなっての、なしな。そうすりゃ、俺もマシな起こし方もできるんだよ」

「あ……」


 リディはようやく胸の奥に生じた熱の正体に気がついた。


「わたし、また魔力を……」

「ああ、使おうとしていたな」


 ギルがどうやったのかは、理解できない。けれども、彼が抑えてくれたことはわかる。彼の黒い右手が触れた額を軽くさすって、彼女はむすっとむくれる。


「わたしを試したの?」

「まさか」


 そこまで性格悪くないと、ギルは呆れた顔で肩をすくめる。


「お前は、まだまともに魔力のコントロールもできないだろ。下手に刺激して、暴走でもされたらたまったもんじゃない」


 リディの濃い緑の目は、彼を批難している。


「信じられないのか?」

「ええ、もちろん」

「まじかよ」


 ギルは、天を仰がずにはいられなかった。


(いや、ちょっと待て。ちょっと待て。俺、ちょっとからかっただけだよな。ちゃんと謝ったし。元を正せば、こいつがちっとも起きなかったのが原因だろ。それは言ったらだめだ。俺が悪い。うん、こじれるのは、なしだ)


 軽く頭を振った彼は、もう一度彼女の顔を覗きこむ。


「いいか、リディ。俺はただお前がなかなか起きなかったから、ちょっとイラッとして鼻をくすぐっただけだ。それは、俺が悪かった。だが、リディ、お前が指一本触れるなとか言わなけりゃ、普通に起こしていたさ」

「普通にって?」

「そりゃ、優しく揺すって起こすだろ、普通は。北方諸国じゃ違ったのか?」

「違わない」


 リディの目が気まずく泳いだ。


(なによ。わたしのせいじゃないわよ)


 けれども、彼女もわかっていた。昨夜、彼に指一本触れるなと言わなければ、あんなひどい起こされ方をすることもなかったのだと。


「お前は悪くないが、今後のためにも、あの約束は撤回しろ」

「撤回も何も、さっき触れたじゃない」


 彼女は鼻を鳴らしてそっぽを向く。


「俺はこう見えて、律儀な男でな」

「へぇ」

「約束を破るのは、心が痛むんだよ」

「へぇ」

「あのな、俺が悪かった。だから……」

「わかったわよ、撤回する。なんか、わたしのほうが意地悪いみたいじゃない」


 意固地になってもしかたないと、リディはしぶしぶ撤回した。もっとも、彼女が言ったとおりすでに触れられているのだから、撤回もなにもないのだけれども。


「リディ、お前、ずっとそうやって誰も信用しないまま、生きていくつもりか。なれない土地でたった一人で、警戒する気持ちもわからんでもない。だがな、これから先も、ずっと警戒したままでいいのか」

「それは……」

「よくないだろ。だから、まずは保護者の俺を信用しろ」


 ギルの言うことは、もっともだ。


(悪いやつじゃないってわかっていたのに、意地で指一本触れるなって言ったわたしも、よくなかったかもしれない。でも……)


 こよりで鼻をくすぐられた怒りは、どうすればいいのだろうか。


「まぁ、とにかく、だ。このままあーだこーだうだうだ言って一日過ごすのはごめんだ」

「わたしだって、ごめんよ」


 今日、初めて二人の意見が一致した。初めて空気がなごんだ。笑って水に流すことも大事なことだ。


 ようやく笑顔を見せたリディにギルがどれほど胸をなでおろしたか、彼女は知らない。

 ギルは本当に、ちょっとからかっただけなのだ。ちょっとからかって、指一本も触れないとか馬鹿げていると笑いあう予定だった。ようするに、彼は昨日出会ったばかりのリディという一人の女性との距離感を測り間違えた。

 ようやく笑顔を見せてくれたのだ。また怒りをぶり返される前にと、ギルはつとめて明るい声を出した。


「そうと決まったら、行動開始だ」

「わかったわ」


 ベッドから足をおろしたリディに、ギルは寝椅子の上に用意してあった着替えを渡す。


「まずは着替えろ。俺は下でアレの話をつけてくるから」


 彼の言うアレとは、昨夜リディが叩き割ったテーブルだ。


 そそくさとギルが出て行ってから、やけに丁寧に畳まれた着替えを抱えてリディはぼやいた。


「信用しろ、か」


 ギルは悪い人ではないのは、もうわかっている。

 けれども、どこまで信じたらいいのか、わからないのだ。

 保護者の彼が、どこまで信用に足る人物なのか知るためにも、新生活に慣れなくてはならない。


「考えてもしかたないときは、行動あるのみよ、リディ」


 両手で頬を叩いて、リディは行動開始した。まずは、着替えから。

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