閑話Ⅱ

祭壇のある石室

 彼が謎の部屋で目覚めてから、おそらくひと月。おそらくというのは、世話係の少女と教育係の上級神官が訪れる時間帯を昼間として数えているからだ。

 ただし、目覚める前の時間はわからない。


(どんだけ眠っていたか、まったくわからんのが不気味だが)


 もしかしたら、数日どころか数ヶ月、数年、いや数十年、眠っていたかもしれない。

 神なき祖国ではありえなくても、この神の国ではありえる。


「聞いていないなら、今日はここまでだ」

「あ、悪い悪い。ちょっとボーッとしててさ」


 鼻を鳴らした教育係の上級神官は、彼の言い訳を聞かずに去っていく。

 なにしろ、トアというこの三十歳前後の若白髪が目立つ三白眼の痩身の教育係は、彼が大河を渡りきった直後に意識を刈り取りあの白い闇の中に置き去りにした張本人だった。


(なにがそんなに気に入らないのかねぇ)


 思い返せば、最初に名前を呼んだときから、トアは激しい敵意をぶつけてきた。

 初めから神なき国からの不敬な愚か者として、彼は見下していた。


 一人きりになった石室で、彼は天井を見上げる。すっかり見慣れた灰色の天井だ。

 目覚めたときにこの部屋にあったのは、彼が今あぐらをかいて座っている祭壇と壁龕のランプだけだった。今は、祭壇にブランケットや枕などがある。目覚めたときに比べたら、格段に環境はよくなった。

 床には、あいかわらず一面に水が張られている。増えもせず減りもしないというのに、まったく濁らない。


(水だけじゃない。空気も澄んでいる)


 はじめの頃は、奇妙な地下牢だろうかとも考えた。その可能性は否定できないけれども、今ではそうでない可能性が高いと考えている。


(俺のための部屋じゃないことだけは確かだ。何か明確な用途があるはずだ)


 陰気な教育係は、彼の質問を許さない。この国の仕組みを一方的に語るだけだ。教本のようなものもなければ、書き留めるものもない。

 彼が理解していようといまいと、教育係のトアはただひたすら不本意な職務を終わらせたくてしかたないのを隠そうともしないのだ。彼に心を開くつもりは、毛頭ないのだろう。


「いつになったら、外に出してもらえるのかねぇ」


 すべてを見通す眼で監視しているだろう神ごとき皇帝に向かって文句を言ったわけではない。

 ただ、なんとなく意味を考えるよりまえに、声に出していただけだ。だからこそ、限りなく本音だ。

 ふっと笑った彼は、黒い右手を眼前に掲げる。


 ――よいか、その右腕は魔力で形をなしている。お前が右腕でないと疑えば、先のように崩れる。


 皇帝が言ったとおりだ。

 彼が右腕でないと思えば、掲げた右手は形を失い手首から先がドロリと崩れる。

 最初こそは、パニックに陥った現象だけれども、今の彼は平然と崩れた右手を眺めている。

 あれ以降、皇帝は姿を見せない。


(まだ、その時じゃないってことか)


 軽くため息をついて右手をもとに戻し、目を閉じる。


(本当に俺を試したいなら、いつまでもこんなところに閉じ込めておくものか。センセイは、教育係に向いてない。皇帝は、俺に何をさせたいのか。俺に学ばせるよりも、なにか重要な目的がある。それが何かわからんのが、気に入らない。落ち着かない)


 無意識のうちに、左手で耳たぶをつまんでいた。考え事をするときの彼の癖だ。


(そもそも、この部屋はなんのための部屋だ。センセイもリズも、それだけははぐらかしやがる)


 結局、思考を続けると同じ疑問に立ち戻ってしまう。

 そこに彼が求める答えがあるはずだ。少なくとも、糸口にはなるはずだ。


 床一面に張られた水に、部屋の中央にある祭壇。


(てか、祭壇って食ったり寝たりするためのものじゃねぇしな)


 本来は、神に祈りや供物を捧げるためにあるはずだ。

 思考を巡らせるのは、嫌いじゃない。むしろ、考えるのは好きだった。

 だから、一日の大半を一人で過ごす日々がひと月ほど続いても、彼はまったく苦にならなかった。もうひと月は余裕で過ごせるだろう。

 彼は、この答えが得られない状況を楽しんでいる節もあった。


「わっからんな」


 思考を中断した彼は、祭壇から降りると屈伸したり、腕を伸ばしたりと、体を軽い運動を始めた。

 朝食後のトアの一方的な講義のあとは、昼食が届けられるまで思考を巡らせるか、こうして体を軽く動かして少しでも運動不足を解消するくらいしか、やることがない。昼食のあとも、だいたいそんな感じで一日を過ごしている。

 初めの頃は、足が濡れるのに抵抗があったけれども、今はまったく気にしていない。


 この部屋には、扉がない。閉ざされていない。教育係のトアと世話係の少女リズが出入りする出口から出ていこうと思えば、いつでもできる。

 どこに通じているかもわからない出口。

 いつかは、出ていくことになるだろう。


(まだだ。今じゃない)


 その時がくることを、彼は直感的に知っていた。


 軽く体を動かすことに飽きた彼は、祭壇にごろりと寝ころんだ。


「昼食の時間ですよー」

「待ってましたっ」


 間延びした声に体を起こすと、小柄な少女がいた。

 あちこちに跳ねる栗色のくせ毛が特徴的で、ニコニコと笑顔を絶やさない少女が、彼の世話係をしているリズだ。どう見ても彼よりも年下だけれども、本人は彼よりも年上だと主張している。もし、彼女の主張が正しければ、そうとうな童顔だ。

 香ばしいパンの匂いの根源は、彼女の頭上に浮かぶバスケットだ。

 両手をこすり合わせて、彼はバスケットの到着を今か今かと待ち構える。


「はい、どうぞー、元王子様。今日のお昼は、特別にすぐりのジャムをおまけしておきましたからね」

「いつもありがとな」


 なだらかな胸を張る彼女に、彼は笑顔で頭を下げる。

 ふわふわと降りてきたバスケットを、彼は抱きかかえて覗きこむと、より一層嬉しそうに笑った。

 バスケットの中には、パリッとした焼きたてのパンの他にソーセージやテリーヌといったおかずも入っていた。もちろん、彼女が特別におまけしたと言ったすぐりのジャムも。

 さっそく昼食を頬張る彼を横目にリズは、壁龕のランプの確認をしていく。


「今日はあとで、湯浴みもしてもらいますからねー」

「今日? あ、了解」


 三日に一度、彼女が魔法で浮かせて運んでくるたらいの湯で、彼は体を洗うことになっている。


(明日じゃなかったか)


 今日はいつもより一日ばかり早い。不審に思いつつも、彼はあえてリズに尋ねなかった。

 ランプの確認を終えると、リズは彼の隣にちょこんと座った。


「それで、昨日の話の続きを聞かせてください」

「ちょっと食べ終わるまで待ってくれよ」


 このひと月、好奇心旺盛な少女に、彼は祖国のことをいろいろと面白おかしく語って聞かせてきた。おかげで、こうして打ち解けるようになったのだ。


(最初はひどかったよな)


 初めてリズがやってきたとき、彼が全裸だった。これでもかというくらい気まずい出会いをふと思い出した。いちいち思い出さなければならないほど過去の出来事になっていたことに、軽い驚きを覚える。


「どうかしました?」

「いや、なんでもない」


 首を傾げたリズに笑い返して、彼はあっという間にバスケットを空にした。


「水の都の話だったな」

「はい」

「昨日も言ったが、俺は一度も行ったことがないからな」

「はい」


 彼は話した。

 祖国の話を。悪名高い亡父の暗い話を徹底的に避けながら、祖国の良い面の話だけを。


「……だから、リセールは水の都と呼ばれるようになった」

「花の都と水の都、どちらが素晴らしい街なんですか?」

「もちろん、花の都アスターだと言いたいところだが、俺には優劣を決められない。俺が水の都に行ったことがないからなんとも言えないというのもある。だが、俺にとって、どちらもヴァルト王国の栄華の象徴の都市だというのが、一番の理由だな」

「へぇ」


 リズは、彼の話が気に入っていた。


「帝国にもあるだろ、そういう象徴的な都市が」

「うーん……たしかにわたしたちにとって、白の都ハウィンこそが至上の都です。でも、神なき国には二つもあるなんてすごいです」

「至上の都か。なるほど、神なき国の二都を足しても敵わないかもしれんな」

「そうですか? わたしは、水の都のほうがずっと素敵な街だと思いますけどね」

「嬉しいこと言ってくれるな」


 子どものような屈託のない彼の笑顔に、リズの頬が少しだけ赤くなった。


「あ、わたし、もう戻らないとです。今日は湯浴みもしてもらわないとですし」


 舌を噛むのではと心配になるほどの早口で気持ちをごまかした彼女は、彼の顔を見れないまま走り去る。

 とても年上に見えない彼女を見送って、彼はため息をついた。


(ちょいと好感度上げすぎたか、まいったなぁ)


 きちんと距離をおいて接するべきだったかと、罪悪感を覚える。彼は、素直なリズの好意に気がつかないほど、鈍くはない。むしろ、そうなるように接してきたのだ。


(コニーのように、割り切れたらよかったんだがなぁ)


 かわいい弟のように人を盤上の駒のように利用するには、彼はどうやら情に厚すぎた。

 先ほどよりも大きなため息が、石室の澄んだ空気を震わせた。




 彼が憂鬱を持て余していた頃、皇帝の完全無比の唇からもため息がこぼれ落ちた。ただし、皇帝の場合、憂鬱とは縁遠い芝居がかったため息だった。神々しいまでに美しい皇帝のため息は、たとえ白々しいわざとらしさがあっても、音楽的な響きとなって耳朶を震わせる。


「腹が減った」


 両膝を床につき頭を垂れるトアの背中に、嫌な汗がつたう。

 皇帝は、鷹揚に繰り返す。


「腹が減ったよ、トア」

「ではやはり……」


 声が震えてしまわないよう全神経を集中させたところで、目の前にたたずむ皇帝になんの意味があるのか。トアの頭の片隅に残る腹立たしいほど冷静な部分が、無様な己を皮肉る。

 トアは、皇帝が恐ろしくて恐ろしくてたまらなかった。


「ああ、予定通り明日執り行う」

「……御意のままに」


 絞り出された声は震えてこそいないけれども、皇帝への恐怖は隠しきれていない。


「トア、もう下がってよいぞ。明日のために、ゆっくりと休むと良い。身を清めるのも忘れるでないぞ」


 皇帝に畏怖ではなく純粋な恐怖を抱いているトアには、それは死刑宣告に等しかった。


 皇帝がまばたきの間に去ったことにも気がつかないまま、トアはしばらくの間両膝をつき頭を垂れたまま動かなかった。いや、動けなかった。


 トアは、皇帝が恐ろしかった。


(……化け物が)


 その恐れの中に、敬う気持ちは微塵も残っていない。

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