月の憂鬱

 ギルが見上げたまどかの月は、神都ハウィンにも皓々とした輝きを投げかけていた。

 白い都とも讃えられるハウィンは、月光の中でも美しく映える。


 都を守る寝ずの番の衛士をはじめとしたごく一部のもの以外は、眠りにつく夜更けに、ツィターの調べが響き渡る。

 その調べは、誰の眠りも妨げることのない優しく、かつもの悲しい。

 耳にする者の胸を締め付け、考えるよりも早く涙を流させる。溢れた涙とともに、心の重荷も流れ出ていくことに、気がつくだろう。

 妙なる調べは、もの悲しくも、優しいのだ。


 迷路のような聖宮の最奥部にある空中庭園。

 大小あわせて何百とある庭園の中では、狭い方ではあるけれども、高層階のテラスに造られた庭園からはハウィンを一望できる。

 天上からの眺めを意図された空中庭園に足を踏み入れられる者は、もちろん限られている。誰の許可もなく自由に立ち入るとなると、皇帝ともう一人、皇帝が最愛と呼ぶ人だけだ。


 皓々たる月明かりに照らされた空中庭園の噴水を前にした大理石のベンチに、ツィターの奏者マオは腰を下ろしていた。

 太陽の元では飛沫をあげる噴水は、今、風に――あるいはツィターの調べあわせてさざなみを立てるのみ。


 皇帝が太陽ならば、マオは月。

 繊細なレースのひだを重ねた立ち襟に、手首にピッタリなカフス、くるぶしも覆い隠すスカートの裾、ドレスの色は月明かりのもとで綾なす白だ。

 月光をまとったようなしろい髪は、演奏の邪魔にならないよう肩口で一つに束ねられて床に広がっている。

 伏せられたまぶたを縁取るまつげは長く、夜の冷気のせいかかすかに紅潮した頬。ぷっくりとした紅い唇からは、物憂げな吐息が溢れる。

 まだあどけなさを残す顔立ちだというのに、大人の雰囲気を醸し出していた。


 月明かりのもとで、誰もマオの演奏を邪魔するものはないかに思われた。

 それほどまでに、月下の空中庭園は完成させれていたのだ。


 けれども、マオは音もなく忍び寄る気配に気づくと、かすかに口角があがる。


「やめいやめい、マオ、かような暗い調べを奏でるのはやめい」

兄様あにさまがお望みならば」


 顔を上げたマオは、すぐに演奏をやめ待っていましたとばかりに微笑む。

 その声は、中性的で音楽的。聞く者の耳朶に残り、ときに夢の中で蘇るだろう。

 マオの月のように優しい金色の瞳に映るのは、紗のガウンを羽織って不機嫌そうに腕を組む皇帝だった。


「まったく、せっかく愉快な光景を眺めていたというのに、気分が台無しではないか」

「では、愉快な曲を奏でましょうか」

「もちろんと言いたいところだが、今宵はよそう」


 軽く目を瞠ったマオに、皇帝は不機嫌なまま続ける。


「わしに話があるなら、他にいくらでも呼び出す手段はあるだろうに」

「すべてお見通し、ですね」


 軽くため息をついてマオは、ツィターを脇に置く。


「なら、なおのこと兄様のお嫌いな曲を奏でた甲斐があったというものです」

「嫌がらせか、マオ」

「嫌がらせです、兄様」

「なにが不満だ?」


 いくらか態度をやわらげて皇帝が問えば、マオはつまらなそうに肩をすくめる。


「なにが不満だ、ですって? すべてです。僕に何もさせてくれないことに決まっているじゃないですか」

「マオ、また同じことをわしに言わせるのか」

「いいえ。僕もさすがに聞き飽きましたからね。僕がどんなに訴えても、兄様は僕を必要としてくれないですから」

「わしが、お前を必要としていないわけがなかろう」


 すねて唇を尖らせるマオに、皇帝は組んでいた腕をほどいた。


「わかっておるくせに、またそうやってわしを困らせるのだな」

「ええ、そのくらいしか、僕にできることはありませんから」

「マオ、お前には優しいままでいてほしいのだよ」


 皇帝はベンチに腰を下ろして、マオの華奢な肩に手を回す。


「人の上に立つには、優しいままではいられんのだ。ときには、非情な決断もせねばならん。わかっておくれ、わしのかわいいマオに、そのようなことをさせたくないのだよ」

「兄様にとって、僕はまだまだ子どもなのですね」

「マオ……」

「わかっておりますとも。それが兄様の優しさだということくらい。また、同じことを言わせてしまいましたし、ね」


 目を伏せてため息をついたマオは、すぐに屈託ない笑顔でやんわりと皇帝の手をのける。


 マオを大事するあまり、皇帝はマオを滅多に聖宮の奥から出ることを許さなかった。まるで寵妃のような扱いではあるけれども、皇帝に妃はいない。おそらく、これからも皇帝が妃を迎えることはない。

 これまで幾度もマオに力になりたいと訴えられては、皇帝は優しいままでいてほしいとなだめてきた。


「兄様、僕はいつでも兄様のお力になりたいのです。そのことだけは、覚えておいてください。兄様も人であるからには、いつかは堕ちるのですから」


 諭すように言われては、皇帝も苦笑するしかない。


「わしのマオが優しいままでいてくれるなら、わしは決して堕ちることはないぞ」


 わかっていないと、マオも苦笑する。

 太陽と月、真逆のようで、二人はやはりよく似ていた。


「兄様が大好きだった父様も、堕ちたではありませんか」

「マオ、この話はやめよ」

「いいえ、やめません。今宵は、兄様に嫌がらせをしたいのです」


 妖しく瞳を輝かせながたマオに、皇帝の顔から笑みは消えた。


「兄様が堕ちたとき、大いなる神を誰が受け継ぐ世継ぎがおりません」

「必要ない。わしが最後の皇帝となるのだからな」

「父様も、同じことをおっしゃってましたね」


 皇帝が不愉快そうに口を閉じると、マオは勝ち誇ったように笑った。


「僕はもちろん、兄様も神ではなく人ですよ。人であるからには、いつかは堕ちる。そうでなければ、神ごとき皇帝が代替わりするはずもありません。そのことは、兄様が一番よくわかっているはず。なのに、兄様は女を抱けない。始祖の血を次に繋げられるのは、僕のみです」


 だから自分も皇帝の傍らで役に立ちたいのだと、マオは皇帝のしなだれかかる。

 と、今度は皇帝がつれなくマオを引き剥がす。


「マオ、できもしないことを言うものじゃない」

「兄様に言われたくないです」


 ムスッとむくれるマオに、皇帝は突き放すようにせせら笑う。


「わしが言わなくとも、事実であろう。マオ、わしのかわいい弟は、誤って豊饒の女神の封印を解いて女神の器となったのだから」

「ですが、兄様は……」

「わかっておるよ、マオ」


 弟の頭に置いた皇帝の手は、優しくて温かい兄のそれだった。


「だが、女神の属性を乗り越えてまで愛しいと思える女がいるわけではあるまい」

「……今はたしかにおりませんが」


 十中八九この兄が自分が好みそうな異性を遠ざけているせいだと、マオは確信している。


(兄様がよこす女たちは、みんなおとなしすぎるんですよ)


 このまま聖宮の奥で温室の花のように、何不自由ない暮らしを続けていてもいいのだろうか。

 マオは、純粋に兄の力になりたい気持ち。と同時に、兄に守られてばかりであるの罪悪感からというのも否定できない。それから同じくらいまだまだ兄に甘えていたいという気持ちもある。


「なぁマオ、わしもいつかお前の力を必要とするときがくる。そのときまで、わしはマオに変わらないでほしいのだ」

「結局、今宵も兄様には敵いませんでしたね」


 数え切れないほど繰り返されてきたやり取りだった。

 素直に引き下がると、不思議なくらいマオの心は穏やかになる。何を必死になっていたのかと、さっきまでの自分がおかしく思えてしまうほどに。


(兄様が必要としてくれるときが、いったいいつなのかわからないし、嘘かもしれない。兄様に甘えたい気持ちがあるうちは、きっと僕は兄様に適わない)


 それでも、きっとまた同じことを繰り返すのだ。マオに迷いや不安が生じるたびに。そのたびに、兄の皇帝はなだめるのだ。まだときではないと。

 自然と兄に寄りかかりかけたマオは、あっと口元に手をやる。


「あ、そうでした。肝心なことを忘れておりました」

「ん?」


 ようやく弟の憂鬱を晴らして満足げだった皇帝は、軽く眉を跳ね上げる。


「先日から、兄様が異国の女を民に迎えようとするのを止めるように説得してほしいと、僕のところに言いに来る者があとをたたなくて困っておるのです」

「それは、由々しきことよな」


 皇帝の険のある声に、マオは慌てて両手を胸の前でせわしなく振った。


「その者たちを罰してほしいわけではありませんよ、兄様。僕はただあまり頻繁にやって来るので、僕の女官や侍女たちが色めきだって、その……」


 言いよどんだ弟に、皇帝はため息をついた。

 すべてを見通す眼を持つ皇帝ではあるけれども、関心のないにまでいちいち目を向けてはいない。

 どうやら、弟の周りにまで目を向けてはいなかったらしい。


「もっと早う、わしに言ってくれればよかったのに」

「兄様、この頃お忙しいようでしたので」


 もっと必要としてほしいと訴えたばかりだというのに、もう兄に頼っている自分が情けない。


(僕だって、このくらいのこと自分で解決したいよ)


 マオはすっかりしゅんとしおれてしまった。


「たしかに、この頃、お前にかまってやれなかったな」

「いえ、別に兄様にかまってほしいというわけではないです」


 シュンとうなだれていたマオは、すかさずすげなくきっぱりと言い返す。

 皇帝は聞き間違いではないかと、聞き間違いであってほしいと、弟に尋ねる。


「そうなのか?」

「そうです。そんな傷ついたぞ、みたいな顔しないでください」

「うむ、実際、この兄は傷ついたぞ」

「…………忙しい兄様のお手を煩わせたくなかっただけです」

「わずらわせるなど、この兄はかわいい弟のためなら……」

「前々から思っていましたけど、兄様のそういうところ、はっきり言ってキモいです」

「なっ!」


 可愛くて可愛くてしかたない弟にすげなく言われて、皇帝はショックを隠そうともしない。


(だから、そういうところ)


 皇帝の溺愛ぶりに、一部の女たちに大変不本意な噂が絶えないことを、マオは知っている。

 面倒くさくなる前にと、マオは咳払いをして脱線した話を戻す。


「とにかく、兄様のやることに僕はとやかくいう資格はないですけど、不満はしっかり抑えてください」

「わかった。これ以上、お前を困らせる輩を近づけはしない。この兄が約束しよう」

「ありがとうございます」


 だから機嫌を直してくれと、言外の訴えは嫌でもマオに伝わっていた。


(まったく、だから僕は兄様に甘えてしまうのですよ)


 ひとまず平穏は取り戻せそうだと、安堵の表情を浮かべたマオの膝に重さが加わった。


「兄様、何をなさっているのですか」

「見てわからぬか」

「いや、わかりますよ。わかりますけど……」


 神ごとき皇帝が、女装する弟の膝を大理石のベンチに寝そべっている。


(わかるから、困るんだよ)


 露骨に嫌そうな顔をしているマオの指通りのよい髪を一房、皇帝の指が絡め取る。


「この頃、忙しかったのでな。今宵は、かわいい弟に甘えることにした。夜が明けるまで、ここを動かぬ」

「しかたないですね」


 軽くため息をついて、マオは兄の好きにさせることにした。実のところ、マオは顔に出したほど嫌ではなかった。


「それで、どのような女なのでしょうか? その異国より来た女は」

「そうだな、テーブルを叩き割る女だな」

「は?」


 きょとんとするマオの髪をもてあそぶ皇帝は、楽しそうに続ける。


「マオ、他人の評判は当てにならんものよ」

「はぁ、それはわかりますけどね。それで、彼女はどのような傑物なのですか」

「気になるのか」

「ええ、兄様が関心を寄せる女性は、これが初めてですからね。なぜ、彼女を招き入れたのか、その理由を僕に教えてくれてもよいではありませんか」

「そう、だな」


 なんの気なしにマオが尋ねた問いに、皇帝の太陽の瞳がかすかに揺れた。もっとも、マオに気づかれる前に皇帝はまぶたを閉じてしまったのだけれども。


「神ごとき皇帝が統べるこの国を、良い国だと言ってもらいたいだけなのかもしれん」

「兄様?」


 皇帝の答えには、珍しく迷いがあった。

 戸惑うマオの髪をもてあそぶのをやめて、皇帝は目を閉じたまま答える。


「変化をもたらさねばとここまでやってきたが、いざ変化を起こす段になって、これで正しいのかと不安になっておるのだ。このわしがだぞ」


 にやりと唇を曲げて自嘲する皇帝に、マオはなんと言っていいのかわからなかった。

 いくら政に携わらせてもらえないとはいえ、皇帝が口にした変化がなにかわからないマオではない。

 この兄が大いなる神の器となって皇帝として君臨した当初より進められた計画が、まもなく大きな節目を迎えようとしていることくらい、同じ聖宮にいるものとして知らないわけがなかった。


「外から来た者にこの国の民になってよかったと、そう言ってくれれば、わしのすることにも意味はあるのだと、そう思える気がしてな」

「らしくないですね、兄様」

「まったくだ」


 あえて軽い調子でマオが言うと、皇帝は目を開けて微笑む。


「のう、マオ」

「なんですか、兄様」

「この世界に終焉をもたらす永遠の少女神は、マオのように美しいのだろうな」


 もうすっかりいつもの皇帝だった。さっきまでの弱気はどこに言ってしまったのかと、マオは皓々と輝く月を仰ぐ。


「兄様、僕は男です」

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