予期せぬ覚醒
リディが意識を取り戻したのは、三十分ほどしてからのことだった。
目を覚ました彼女の鼻孔をくすぐったのは、一階の食堂の美味しそうな匂いだった。
「お、起きたか。今から飯にするところだったからな。食べるだろ。いや、食べたほうがいい。今日は、疲れただろうからな」
ムクッと体を起こした彼女が目にしたのは、窓際の寝椅子の前にあったテーブルいっぱいに並んだ料理だった。
その瞬間、
(食べなきゃ)
空腹が彼女の体を支配した。
ベッドを降りた彼女は、テーブルの向こうで座って待っているギルが見えていなかった。見えていたとしても、空腹に支配された体は彼の存在を無視した。
「ん?」
無言で席についたリディに、ギルは困惑する。異様なまでの無表情。
「リディ、大丈夫か? やっぱり、寝ていたほうがいい、ん、じゃ……」
じゃないか――と、最後まで言えなかった。いや、リディが言わせなかった。
いつも欠かさない食前の祈りすら忘れて、彼女は食べ始めた。一心不乱に、飢えた獣のように、ガツガツとなどなどなど、およそ育ちのいい令嬢にふさわしくない食べっぷりだ。
「えぇ……」
あまりの食いっぷりに、ギルの食欲はすっかり失せてしまった。
二人分にしては、多めに注文した料理があっという間にリディの胃袋に消えていく。
(なんだこれ、聞いてねぇぞ。てか、つい最近まで寝たきりだったやつが、こんなに食べるとか、予想できねぇよ)
テーブルの上にあったものは、すべて彼女が食べてしまった。ギルは、ひと口も食べていない。
「ふぅ」
満足げな息をついて、彼女はようやく体を支配していた空腹から解放された。
我に返った彼女は、お世辞にもきれいにとは言えない食後のテーブルを見下ろしてまばたきを繰り返す。
「えーっと、これ、全部、わたしが食べた、の?」
「おいおい、他に誰がいるんだよ」
ギルの呆れた顔を直視できず、リディはテーブルを見つめたままさらにうなだれてしまう。
(これは夢よ、夢。わたしがこんなに食べられるわけがないもの)
そう言い聞かせる彼女は、はっきりと自分が食べたことを覚えていた。
香辛料をたっぷりきかせた帝国北部の癖のある味付けの肉の串焼きも、野菜炒めも、パリッと香ばしいパンも、他にも全部味を覚えている。味だけではなく、歯ごたえや匂いも、全部覚えている。そして、はっきりした満腹感もある。
夢だと思いこみたくても、無理があった。
これ以上ないくらいに、顔が赤くなる。
「……ギルも、食べたんでしょ?」
「いや、一口も食べてない。見てるだけで腹いっぱいだったからな」
二人分食べた事実を、リディは受け入れられなかった。
(わたし、どうしちゃったのよ)
無理もない。
彼女は、周囲に心配されるほどの自他ともに認める少食だったのだから。
「まぁ腹が減ってたんだろ。気にするな」
ギルはよくわからないなりにも、彼女を気づかったつもりだ。
(そんだけ食べられたってことは、健康になったってことだしな。元気になりすぎたかもしれんがな)
耳まで真っ赤になった彼女は、まだうつむいて顔をあげられないでいる。
あまり言いすぎても逆効果だろうと、彼は食器を重ねて部屋の外にあるワゴンに返しに席を立った。
(しかし、治癒魔法でここまで元気になりすぎるものか)
ギルは、治癒魔法は使えるけれども得意ではない。なので、それほど詳しくない。そもそも、魔法は自分が使える範囲で使いこなせればいいとすら考えている。余計な知識や理論には、無関心だ。そういうことは、研究者たちに任せればいいと、日頃から彼はよく言っているくらいだ。
(ハウィンに戻ったら、やっぱ一度診せたほうがいいな)
などと考えながらギルが戻ってくると、リディはガバっと顔を上げた。
膝の上で拳を震わせる彼女は、怒りと恥ずかしさといった感情がぐちゃぐちゃに混ざったひどい顔をしていた。
「わたしに何をしたのよ!」
「は?」
いきなり何をと、ギルは思わず間の抜けた声をあげてしまった。
(なんか、誤解されてないか、これ)
リディの目には、ギルがとぼけているように映った。
「ふざけないでよ! 治癒で、こんなっ……こんなに食べられるようになるわけないもの! 絶対、あんたがなにかしたに決まってる」
「落ち着けよ、リディ。俺は、治癒魔法しかしていない。それもかなり初歩的なやつだ」
なだめるようにギルが言うけれども、納得できわけがない。
「信じられるわけがないじゃない」
「お前が自覚していなかっただけで、腹が減ってた。それだけだろ。別に恥ずかしがるようなことじゃない」
「ありえないわ! いくら疲れてお腹が空いていても、わたしはあんなに食べたりしない!!」
頭に血が上っていた彼女は、思わず両手でテーブルを叩いた。
バキッ
「へ?」
「え?」
ただ昂ぶった感情にまかせて叩いただけだというのに、テーブルが真っ二つに割れた。
真っ赤だったリディの顔が、一気に真っ青になった。
両手が小刻みに震えている。
自分が割った実感はあった。
叩いた瞬間、心臓のあたりに生じた熱が肩から手のひらへと、一瞬で駆け抜けてた。その熱が、まだ両手に残っているのだ。
「もぉおおおいやぁああああああああ!!」
床に膝をついたリディは、子どものように泣きじゃくる。
限界だった。
保護者のギルに舐められまいと張っていた虚勢や見栄。
いまだに拭い去れない見じらぬ土地への不安。
初めてロバに乗ったし、ギルの剣幕を見せつけられた。
想定外のギルによる治癒から意識を失って、目が覚めると我を忘れて暴食。
それらだけで、充分すぎるほど限界だったのに、テーブルを叩き割るという怪力を発揮してしまった。
泣きじゃくる彼女は、むしろよく頑張った。
「ギル、わたしになにをしたのよ」
ひとしきり感情を発散させた彼女は、涙を拭ってギルを睨む。
ところが、ギルは左手で耳たぶをつまんで思案にふけっていた。
「なんか言ったらどうなの!!」
「……そういうことか」
彼女のヒステリックな声をあげると同時に、彼は答えを導き出してニヤリと笑った。それが、彼女の目にどう映るか気がつかずに。
「バカにしないでよ!!」
両手を振り上げた彼女に、ギルは焦る。
「ストーップ! ストップ。今度は床をぶち抜くつもりか。落ち着け、リディ。な、落ち着け。ちゃんと説明してやるから」
「本当に? やっぱりあんたがなにかしたってこと?」
無意識のうちに振り上げていた両手をおろしても、彼女はまだギルを睨んでいる。
「とりあえず、椅子に座ったらどうだ。いつまでも、みっともない姿を晒したくはないだろ」
「うぐっ」
言われなくてもと口の中でつぶやいてみたものの、彼に言われてようやく自分が醜態を晒していたのだと気がついたのだ。
(わたしとしたことが、子どもじゃないんだから)
深呼吸をひとつして、彼女は椅子に座りなおす。
今度こそ大丈夫だと、ギルは安堵の息をついた。
「リディ、あんたの身に起こったことを説明する前に、一つ試したいことがある」
「試す?」
警戒するリディをよそに、彼は寝椅子の下にあった大きな麻袋から何かを取り出した。
「ほれ」
「ほれって……これ、ランタン?」
ギルに渡されたそれを、リディは考えるよりも先に手にとった。
それは、小ぶりで頑丈そうなランタンだった。真鍮とガラスでできたランタンは、一見するとどこにでもありそうな代物だった。けれども、普通のランタンと違って、中にはろうそくではなく液体の入った細いガラス管がある。
「リディ、明かりのついたランタンを思い浮かべてみろ」
「なにそれ。思い浮かべるって」
興味深そうにランタンをじっくり見ていた彼女は、ギルに唇を尖らせた。
(なんか、また変なことが起きなきゃいいけど……)
ギルに不信感をいだきながらも、彼女の頭の中にランタンに明かりがつくイメージが自然と沸き起こってしまった。
暖かな色であたりを照らし、勇気づけてくれるランタンの明かり。彼女の脳裏に浮かんだのは、そういうイメージだった。
その途端に、
「きゃっ!!」
ランタンのまばゆい光が部屋中を真っ白に染め上げる。
突然の強烈な閃光に、彼女はランタンから手を離して目を覆う。
彼女の手から離れた途端、ランタンの光は消え失せる。けれども、瞼の裏に焼きついた白は、なかなか消えない。
黒い右手で目を守ったギルは、決してこうなることを予想していたわけではない。
(とんでもない魔力量だ。なるほど、これは陛下が欲しがるのも納得だな)
リディの手を離れたランタンは、壊れることなく床を転がり、ギルのつま先にコツンと当たる。
ようやく目を開けた彼女が見たのは、ランタンを軽く振って苦笑している彼だった。
「リディ、よく聞け。お前は人一倍魔力を持っている。それも、生まれつきな」
「魔力、生まれつき?」
何を言われたのか、リディはすぐにわからず目を丸くするだけだった。
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