食堂にて

 今朝ギルにロバを貸した男は、今日は一日中この食堂にいると言っていた。

 一時的に席を外しているわけではないと、彼は確信していた。なんとなく店内を見渡していたわけではない。料理を前にした椅子に空席がないか、テーブルを囲む人数よりも一人分多い料理が乗っていたりしないかなどなど、糸のように細い目で彼はしっかりと店内を把握していたのだ。


「バックレられるわけがねぇのによ」


 口の中で低くつぶやいた彼は、右手でズボンのポケットの上から中に入っているものの感触を確かめた。

 全身から漂う不穏な雰囲気に似つかわしくないほどニッコリ笑いながら、リディを振り返る。


「わりぃ、リディ。すぐにすむはずだったんだが、そうもいかなそうだ」


 返事も待たずに隅の方にあるテーブルに向かう彼を、リディは黙って追いかける。言いたいことがないわけではなかったけれども、ギルの雰囲気に当てられてはすごすごとついていくしかない。


(怒らせないようにしたほうがよさそうね)


 リディは、さっさとすませてほしいと思った。そして、さっさと夕食にありついて横になって休みたかった。


 背後で聞こえた大きなため息をギルは無視して、目当てのテーブルを囲む男たちに声をかけた。


「なぁ、ちょっと話いいか?」


 明らかに肉体労働者のごつい男たちは、仕事帰りの楽しいひと時に水をさされてギルをにらみつける。背後からことの成り行きをうかがっていたリディのほうが、不本意にも彼の背中に隠れてしまうほどの緊迫感があった。


(一触即発ってこのことかしら、どうしよう。誰か止めてくれないかな)


 なぜかよくわからないまま、リディはハラハラしてきた。

 ギルは怯むどころか、ニッコリと笑ってみせる余裕があった。


「あんたら、ガス・アパスってやつと一緒にいたよな?」


 テーブルの男たちは顔を見合わせる。それから、赤毛の大男が肩をすくめてそっけなく答えた。


「ガスなら、帰ったぜ」


 彼らは、それでギルの相手は終わったと、中断した食事を再開しようとした。もちろん、ギルがそんな適当な答えで終わらせるわけにはいかなかった。

 ダンッとテーブルを左手で叩いて、彼は怒気を隠そうともせずに顔はニッコリと笑ってみせる。


「家はどこだ?」


 糸のように細い目をした痩身の青年の静かな迫力に、いかつい男たちはビクリと肩を震わせて戸惑い目を泳がせる。ただ者じゃない雰囲気のギルに、教えていいものかどうか迷っているのだろうか。

 すぐに答えない彼らに、ギルは表情を変えず声を荒げることなくゆっくりはっきりと言い聞かせる。


「俺は、ガスにロバを借りているんだよ、一頭。保証金5万リグ、返してもらわなきゃいけねぇんだよ。今日の日暮れまでに返せば、5百リグで、明日以降なら一日千リグってことでな。こうして念書もある」


 そう言って、彼は先ほどポケットの上から感触を確かめていた四つに折った念書を取り出してテーブルの食器をどけて広げる。

 しっかり読めと無言の圧力に逆らうことなく、男たちは一応目を走らせる。


「このまま教会の司法神官に訴えてもいいだぜ。あんたらは、犯人隠避の罪に問われることになる。かばってもいいことないだろ。さっさとやつがどこにいるか、教えろ」


 ギルはまだ笑顔を保っていたけども、こめかみが引きつり始めている。彼を知る人なら、理性が限界に近いと慌てて答えただろう。

 けれども、念書に目を通した男たちは、なんとも言えない顔を上げた。


「そう言われてもなぁ」

「あぁ」

「あんた、ガスに一杯食わされたな」


 深々としたため息をついた彼らを代表して、赤毛の大男が今度はギルをなだめるようにこう言った。


「ガスはこの街のモンじゃねぇ。出稼ぎに来てたやつだ」

「は?」


 まったく想定していなかったことを言われて、さすがのギルも虚を突かれて間の抜けた声を上げてしまった。


「あんたも、この街のモンじゃないだろ。見た目と喋り方でわかる。ここまで言えば、頭のいいあんたなら、わかるだろ。ガスは、保証金の5万リグを持って故郷にバックレたんだよ。もうこの街にはいない」


 そう言いながら、大男は念書を折りたたんでギルに突き返す。

 大男の話に、ギルはしばらく愕然として固まっていた。


「まぁ、諦めるしかないわな」

「ふ、ふ、ふ……」


 ギルの顔があっという間に真っ赤に染まる。


「ふざけんな!! 5万リグだぞぉおおお!!」


 ギルが喚くのを予想していたのだろう三人の労働者だけでなく、彼らのやり取りが耳に届いていた人々は、うるさそうに眉をひそめる程度だった。そのくらい、保証金を持ち逃げされたギルに同情的だったのだ。


「くそがぁああああああああああ!!」


 彼の背後にいたリディだけが、怯えた表情でビクッと身をすくめていた。


(こんなやつでも、うまくやっていかないとなのね)


 些細なことや理不尽なことでキレなければいいけどと、リディは先が思いやられた。

 もう早くどこか行ってくれと、店中の空気が訴えてくる。

 リディは、当事者ではないけれども、いたたまれなくなった。


 ギルは悔しそうに床を蹴って、無理やり怒りを納める。納めきれずに溢れた怒気が、愛想のいい笑顔と相まって、ただただ不気味なだけだけども。彼は銅貨を数枚テーブルにおいた。


「邪魔したな。晩飯の足しにしてくれ。リディ、行くぞ」

「あ、はい」


 大金を失ったばかりなのに、ギルはずいぶん気前がよかった。5万リグがどれほどの価値があるのか、リディはわからないけども大男たちと同じくらい困惑した。もちろん、大男たちは喜んでとはいかないものの、銅貨はありがたく頂戴する。

 リディは大男たちに軽く頭を下げてから、ギルを追いかける。


 食堂の奥には、もう一つの出入り口があった。そちらは、空を泳ぐ魚亭の旅館部分に通じていた。

 カウンターに頬杖をついていた若い女の従業員に声をかけて、ギルは鍵を受け取る。


「行くぞ。部屋は四階だ。階段、平気か」

「平気」


 疲れてお腹が空いているかもけれども、今なら杖に頼らなくても大丈夫だと、リディはあらためて自分の体調の変化を実感する。聖石に手をおき目を伏せて、神への感謝を表さずにはいられない。

 そんな彼女を、階段の上からギルが先を急かす。


「あーあ、5万リグ、泣き寝入りかぁ」


 がっくりと肩を落としたギルは、やはりロバの保証金を持ち逃げされたことを引きずっていた。ぶつぶつと5万リグなどとぼやきながら、階段をのぼっていく。


「ねぇ、なんで泣き寝入りしなきゃいけないの?」

「あ、あー、それは俺もあのクソ野郎も、この街の住人じゃないからだ」


 腹立たしそうに頭をかきむしって、彼は教えてくれた。


 この国では住民登録した街の外では明らかな犯罪に関わらない限り、司法を担う教会は動かない。それは司法に限ったことではない。住民登録した街と外では、行政でも暮らしやすさがずいぶん違ってくる。

 話を戻して、ギルが保証金を取り戻すには、相手が住民登録した街の司法神官に念書を持って訴えるしかない。それにはまず、相手が住民登録した街を探らなくてはならないのだけれども、まず不可能だ。泣き寝入りするしかない。


 しっかりと理解できたわけではない。それでも、何かあったときは教会に駆け込めばいいのだと、リディは解釈した。


「5万リグだぞ、5万! くっそ、ぜってぇ許さねぇ!」


 それから、保証金ははした金ですむような金額ではないことも、リディはなんとなく理解した。

 相手に逃げられた怒りはそれほど長く持たなかったようで、ギルは廊下の奥にあった階段の前でがっくりと肩を落とした。


「あーマジかぁ。5万リグ……あー、5万リグ……」

「ねぇ、もう一つ訊いてもいいかしら?」

「ん?」


 足を止めて振り返った彼の横に、リディは並んだ。


「ロバは、どうなるの?」

「買い手を探す」

「売ってしまうの!」


 リディは、非難の声をあげた。本人もびっくりするくらい大きな声に、ギルがうるさいと顔をしかめて彼女から逃げるように先を急ぐ。


「しかたないだろ。持ち主は逃げやがったんだぞ」

「だからって、売るなんて」


 ロバがかわいそうだと、リディはギルから離れない。


「売るしかないだろ」

「あなたが、責任持って飼えばいいじゃない」

「は? 何言ってるんだ。あのな……」


 勢いにまかせて言い返そうとした言葉を、ギルはグッとこらえて飲みこむ。


(そうだった。こいつ、北方諸国のお嬢様だった)


 厩舎に預けるだけでも、金がかかる。もちろん、それだけではすまない。餌代やその他諸々の諸経費を考えれば、早々に売ってしまうのが一番いいに決まっている。

 そのことを、彼女はまるでわかっていないのだ。

 かわいそうだと彼女の目が真剣に訴えている。彼女の瞳の緑が、ひときわ濃く深くなったようだった。


(そういや、北方の女は強情っていうよな)


 ギルは小さく息をついた。


「……あんた、よっぽど気に入ってるんだな、あのロバが」

「ええ、そうよ。なんかかわいいじゃない」


 そう言葉にしてから、リディはロバと別れずにすむのが、嬉しいのだと実感する。

 ギルは、すっかり毒気を抜かれてしまった。


「まぁ、買い手を探すのも面倒だ」

「それじゃあ……」

「ああ、しばらくは俺が飼い主だ」


 顔を輝かせる彼女に、ギルは早くも振り回され始めていた。そしてすぐに、これはほんの序の口だったと思い知ることになる。

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