空を泳ぐ魚亭

 リディは、なかなかショックから立ち直れなかった。


 無理もない。

 あまりにも、祖国との文明レベルが違いすぎたのだから。

 彼女の祖国では、辻馬車も都市部から少し離れるだけで珍しいし、時計だって高級品だ。ここ数十年にわたる国内の情勢が不安定だったために、北方諸国の中で貧しい国となっている。銅山を有しているし、漁港も多く、黄金山脈によって分断された大陸の東側への交易の要所となっている大きな港もある。再興のきっかけの一つとして、彼女の従妹は信仰を捨てて神なき国に嫁ぐこととなったのだ。

 もう二度と、祖国の土を踏むことはない。似ても似つかない帝国の町並みに、彼女は郷愁にかられてしまった。

 従妹のジャスミンなら、きっとうまくやってくれるだろう。帝国に次ぐ大国の後ろ盾があれば、祖国もきっとよくなるはずだ。


(わたしなんて、いてもいなくても結局……)


 うつむいた彼女の唇は、寂しそうな笑みを刻んでいた。

 神なき国に嫁ぐ従妹は、新しい自分になるための糸口だった。明るくて前向きで努力をいとわず毅然として困難にも立ち向かい、それでいて、意中の婚約者を前にするとたちまちポンコツとなる従妹は、大勢の人を惹きつける素質があった。リディもまた、その大勢の中の一人でしかなかった。

 本来なら死刑でもおかしくなかったのに、従妹の婚約者の温情おかげで異国の地にたった一人。祖国に送り返されなかったのも、温情だったのかもしれない。

 最近ようやく気がついた。両親はとんでもない不始末をした彼女を決して歓迎しなかっただろう。

 祖国にとっても神なき国にとっても、彼女はいらない存在となっている。


(だからといって、わたしのような取り柄のない女が、この国に必要とされるわけがないけどね)


 それでも生きていくしかないのだと、彼女は不安を打ち負かして顔を上げる。


 と、ギルが足を止めたのは、ほとんど同時だった。


「ついたぞ」


 そこは、今まで見てきた増改築の痕跡が目立つ建物と違い、赤茶けたレンガが壁面全体を覆っている年季の入った建物だった。

 彼女たちがやってきた教会通りと、横に伸びる路地、それぞれに開け放たれた入り口が一つずつある。教会通りに面した入口からは、美味しそうな匂いが漂い、賑々しい喧騒が聞こえてくる。対して教会通りほど人通りが多くないせいか、横道に面した入り口のほうはひっそりしている。

 ギルに手伝ってもらいながら、リディはロバからおろしてもらう。


「杖、いるか?」

「一応……」


 慣れない騎乗を終えて、若干ふらついたものの、彼女は北壁の外を発つ前よりもずっとしっかりと自身の足で立っていた。


(やっぱり、普通じゃないな。皇帝が欲しがる何かが、この女にはある)


 健康そのものの顔色をした彼女に杖をわたしながら、ギルは考える。

 気まぐれのような振る舞いを好む皇帝だけれども、けっして気まぐれなど起こさない。だから、リディにもなにかしら皇帝が例外として招く意味があるはずだった。けれども、


(問題は、だ。こいつが、そのをまったく自覚していないことだ)


 ギルは、こっそりため息をついた。

 旅行かばんをおろしている彼をよそに、リディは魚の形をした真鍮の吊り看板に書いてある面白い書体で書かれた文字を読み上げる。


「空を泳ぐ魚亭?」

「出稼ぎとか長期滞在者向けの旅館の中で、そこそこ清潔な寝床があって、なおかつ飯が美味いところは、ニーカの中じゃ、この空を泳ぐ魚亭だけだ」


 なぜか得意げなギルは、ひっそりとしている横道の入り口から出てきた従業員の若者を呼び止めると、ロバを厩舎に連れて行くように言った。従業員の彼は、ギルとすでに顔見知り程度の仲にはなっていたので、二つ返事でロバを引き受ける。


(この子とは、もうお別れかぁ)


 たったの半日にも満たない時間しか一緒に過ごしていないけれども、すでに彼女にはロバと別れるのが辛かった。

 もちろん、そんな彼女の胸中など、灰色のロバが知るわけがない。引綱を持つ男が変わったことにも無頓着なようだ。少しの名残惜しさも見せないまま、ロバは横道の奥に去ってしまった。


(元気でね、ロバさん。短い間だったけど、ありがとう)


 ロバを見送る彼女を、ギルは旅行かばんを持ち直して振り返る。


「おい、ぼさっとしてないで行くぞ」

「むっ」


 ちょっとした感傷の余韻を台無しにされたリディは、ムスッとして杖の先を足元のレンガに叩きつける。それも、先日までベッドに縛りつけられていた病人とは思えないほど勢いよく。


(こいつ、本当に病人だったのかよ)


 祖国の弟に騙されたなどとは考えたくない。けれども、先程から彼女を見ていると、どうしても疑念が首をもたげてしまう。

 軽く目を閉じて、ギルは嫌な考えを頭の片隅に追いやった。今は、他にするべきことがある。そちらが先だと、言い聞かせながら。


「言ったろ。日が沈むまでにロバを返せば、安くすむって」

「そういえば、言ってたわね」


 お金の話になって、リディはますますムスッとしてしまう。とはいえ、ロバに愛着があっても、これから世話になる保護者にどうこう不満を口にする資格がないことは理解していた。もう、ずいぶん影が長くなっている。日没は、もうすぐだ。


(そういえば、わたし、お金持ったことがなかった)


 祖国が貧しいとはいえ、裕福な家で育てられた彼女は、今まで一度も現金を実際に手にしたことがなかった。過保護なところがあった両親は、欲しい物はたいてい欲しいといえば、たいていの物を与えてくれていた。両親の手から、あるいは使用人の手から与えられていた物たちを、金額を気にかけたことすらなかったのだ。


(これっていわゆる、世間知らずなお嬢さんでは……)


 ギルの出で立ちから、これまでのように使用人に囲まれた生活は望めないと覚悟しているつもりだった。

 けれども、そもそも平民として生きていくこと自体が難しいのではと、初めて気がついた。

 愕然として立ち尽くす彼女を、ギルは具合でも悪くなったのかと誤解した。


「先に、部屋で休むか? そのくらいは……」

「だ、大丈夫! 大丈夫だから、行きましょう」


 はっと我に返った彼女は、勢いよく首を横に振る。あまりにも勢いがいいので、ギルは心配無用だったと苦笑する。


(にしても、表情がころころと変わるし、どこが神経質そうな女なんだよ)


 皇帝の思惑を抜きにしても、ギルはリディの人となりを測りかねていた。


 教会通りに面した旅館の入り口は、宿泊客はもちろん飲食のみの客も大歓迎な大衆食堂の入り口でもあった。

 入ってすぐに足を止めたギルは、天井から吊り下げられている複数のランプですみずみまで明るい店内を見渡した。

 彼が先ほど「飯が美味い」と言ったのは、どうやら本当かもしれないと、リディも彼の横で店内を見渡していた。満席ではないものの、少なくない客が夕食を楽しんでいる。久しく感じることのなかった食欲が、彼女の腹の奥から湧き上がってきた。

 彼女は、テーブルにつきたくてウズウズしていた。そして、それはすぐに叶えられると期待していた。けれども、彼女の期待はギルのひと言から崩れ去ることとなる。


「いねぇ……」


 リディだけが聞いた低い声は、今までの彼の飄々とした印象をあっさりと塗り替えるほど、危険な響きだった。

 それはそうだろう、ロバの飼い主がいるはずの店内にいなかったのだから。

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