壁の向こう側

 国境検問所は、拍子抜けするほどすんなりと通された。

 ギルが提出したオニキスの聖石を、役人がゴツゴツしたルーペで確認する。それだけで、石造りの国境検問所をクリアしてしまった。

 密入国を試みた無謀な者たちを引っ捕らえてどこかに連行されて行くのを目の当たりにしたのもあって、リディは拍子抜けすると同時に胸をなでおろしていた。


「この国じゃ、聖石はヤスヴァリード教の信徒の証より、重要な役割が二つある。一つが、身分証の役割だ」

「へぇ」


 リディは、身分証と聞いてもピンとこない。それどころか彼女は、内側から見てもつなぎ目が一つもない北壁に夢中だった。


(これこそ、神の御業だわ。五百年も、真っ白なままだなんて、素敵。灯りがないのに、太陽の下みたいに明るいなんて。そういえば、外の街に影がなかったわ。わたしったら、どうして気がつかなかったの)


 ギルの到着を待っている間、彼女は何度も北壁を眺めていた。それなのに、今、そびえ立つ巨大な壁が、壁外地区に影を落としていなかったことに気がついたのだ。本来なら、一日の大半を影に覆われて薄暗いはずだった。


 つなぎ目と影が一つもない真っ白な壁が、彼女の信仰心を刺激しないわけがない。

 鞍の前にくくりつけられた旅行かばんから両手を離せないけれども、彼女は少しの間目を閉じることはできた。


「真白き一つ目の聖獣イェンの導きのまなこは、大いなる神のもとにとどまりて……」

「すべてを見通す眼となって、太陽となる、な」


 彼女がうっとりと諳んじていた聖句を、ギルがげんなりと引き継いで終わらせてしまった。そして、彼女が怒りに任せて口を開く前に、彼は彼女とロバにだけ聞こえるように、急いで言う。


「壁の向こうで、やたらめったら聖句を口にするんじゃない。いいな?」


 有無言わせない厳しい口調だった。けれども、リディは怒りを煽られただけだった。


「神の国で、聖句を唱えるな、ですって? 信じられない。なんのための聖句よ。神に感謝の言葉を捧げるなって言うの?」

「大きな声を出すな。いいか、まさに信じられないだろうが、俺たち帝国人が聖句を唱えるのは、教会に行ったときくらいだ」

「は? あり得ない」

「いいから、よく聞け。さっきも言ったが、壁の向こうじゃ外国人は珍しい。目立つような振る舞いは、避けるに限る。トラブルに巻き込まれたいなら、話は別だがな」


 ギルは、思いの外自分も大きな声を上げていたことに気がついた。前と後ろを行く通行人に聞こえていないか、さっと周囲に目を配った。幸い、彼らに関心を払う者はいないようだ。


「神の民ってあんたらが羨ましがっている帝国人にとって、神は身近な存在だ。身近すぎるほどにな。いちいち聖句で感謝を捧げなくても、常に神に感謝している」

「あなたも、常に感謝しているの?」

「ああ、そうだ」


 嫌味のつもりで言ったのに、ギルは真剣な顔で肯定した。


「俺がこうしてまっとうに生きていられるのは、神ごとき皇帝が拾ってくれたからだ。この右腕だけじゃない。人生そのものを与えてくれた。感謝しないわけがないだろう」

「そ、そう。でも……」


 その真剣さに気圧されながらも、彼女はまだ聖句を唱えないなど承知できかった。

 ありありと不服だと顔に出ていたので、ギルは肩をすくめて顔の筋肉を緩める。


「聖句は心のなかで唱えればいい。とにかく、目立つような真似はしてくれるなよ。くどいようだが、帝国は平和で善良な楽園じゃない」

「わかったわよ」


 しぶしぶリディは首を縦に振った。


(まるで、大いなる神よりも皇帝その人に感謝しているみたいじゃない。ひょっとして、ギルだけじゃなくて、帝国の人ではそれが当たり前なのかしら)


 リディは、ギルと神に対する考えがずれていると確信していた。彼の口ぶりは、皇帝は人智を超えた偉大な存在ではなく、一国の主として敬っている。

 彼女にとって、神ごとき皇帝は神そのものだった。彼女だけではなく、祖国の人々はそうだった。


(それとも、帝国では神は権力者の皇帝以上の意味を持たないのかもしれない)


 だとしたら、帝国に馴染むのに苦労するだろう。ため息をつきたくなった彼女を、ギルの声が現実に引き戻す。


「それで、さっきの話の続きだが……」

「続き?」

「ああ、聖石が身分証の役割もあるって言っただろ。聞いてなかったのか?」

「聞いてたわよ」


 上の空で聞き流していた彼女は、気まずそうに目をそらす。そんな彼女をからかうように、ロバがヒーホーと長々と鳴いた。思わず笑い出しそうになった彼は、咳払いでごまかす。咳払いがわざとらしすぎて、彼女は睨みつけたけども、黙って彼の話の続きを待った。


「細かいことはあとでゆっくり教えるが、あんたの聖石はまだ身分証の役割を持っていない」

「だから?」


 祖国でも、神なき国でも、身分証と縁がなかった。身分証はあるにはあったけれども、裕福な家に生まれた彼女が身分を証明する機会がなかった。


「あんたは、俺の被保護者ってことになっているから、当分はそれでいい。まぁ、ゆくゆくは身分証として登録することになるがな」

「これが?」


 胸元で揺れる蛍石の聖石に目を落としたものの、リディはどうも実感を持てない。

 戸惑う彼女に、彼は懐かしさを覚える。


(そういや、俺もこんな感じだったな)


 二十三年前、彼も彼女と同じ二十歳だった。

 これから、彼女はたくさんの戸惑う光景を目の当たりにすることになるだろう。彼がそうだったように。


「まぁ、今はわからんだろうが、とにかく覚えておけよ。一人でトラブルに巻き込まれたら、身分を証明できないあんたは、考えうる最悪の事態に陥るってことをな」

「そんなに、帝国じゃ身分を証明することが重要なの?」

「そういうことだ。さぁリディ、顔を上げろ。もう壁の向こうだぞ」


 ギルに言われて顔を上げると、北壁を抜けるのはほとんど同時だった。彼の話はつなぎ目一つない北壁に気を取られていた彼女は、目の前に広がる光景に目を丸くした。


(これが、神の国、なの?)


 足を止めた彼に従って、ロバも足を止める。


「さて、初めて目にする神の国のご感想を聞かせてくれないか、リディ」


 リディはまばたきを繰り返して、第一印象を表現する言葉を探す。


 そこは、赤いレンガが敷き詰められた広場となっていた。半円を描く広場からは、きれいに三分割した角度で三本の大きな通りに続いている。

 朝市が立つこともあるのか、無人の屋台がちらほらと放置されている。

 それだけなら、彼女の祖国でもよく似た光景を目にすることはある。

 実際、彼女は広場はあまり印象に残らなかった。

 まばたきをいくら繰り返しても、目の前の光景が変わらない。彼女は現実を受け入れるしかなかった。


「なんというか……」


 戸惑いがちに口を開いた彼女が見つめているのは、広場を囲む建物だった。


「とても……ごちゃごちゃしているわね」


 神の国だから、もっとマシな感想を口にしたかったけども、敬虔な信徒である彼女でも無理だった。


 広場を囲む家々は、見るからに無計画に増改築を繰り返されている。主に上へと。たとえば、正面の建物は、土台となっているレンガ造りの二階建ての上に、くすんだ漆喰の壁があるし、さらに上には羽目板張りの外壁と、そのさらに上にもといった具合に、全部で十階ほどあるだろう。一軒だけなら、よく崩れないなと感心するだろう。けれども、広場を囲む建物がみなそうなのだから、いい眺めとは決して言えない。


「な、帝国は楽園じゃなかったろ?」

「そ、そうね」


 得意げなギルに、リディは嫌でも同意せざるを得なかった。


(わたし、いったい何を期待していたんだろう)


 具体的な光景を想像していたわけではないのに、彼女は落胆して自覚していたよりもずっと帝国に期待していたのだと思い知らされた。

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