奇跡と魔法
国境検問所の順番を待つ間に、ギルはリディに入国前に必要な最低限の情報を教えた。
まず、しばらくの間、ギルがリディの保護者となること。
それから、壁の向こうの街がニーカと呼ばれていること。そのニーカに、しばらく滞在すること。滞在している間に、この国で生きていく術を学ばなければならないこと。その間の費用等といったものは、すべて保護者のギルが保証してくれること。
(やっぱり、わたしを売る気なんて毛頭ないんじゃないの)
なぜ、ギルがそこまで自分の面倒を見てくれるのか――あるいは、そういう風に誰かから指示されているのか、リディは気になったけれども、追求できなかった。なんとなく、まだ知るべきではない気がしたし、知ったところで何もかわらない。
(とにかく、少しでも早く神の国の民にならなくてはね。それだけでも、わたしには手一杯になるはずよ、きっと。頑張らないと)
今は、この国で生きていけるようになることが、何よりも優先すべきことだ。
ギルの素性や事情は、二の次でいい。
「ああ、それから、奇跡ってお前らが呼んでいるあれな」
神に選ばれた者のみが行使する不思議な御業をそんざいに言われて、リディはムスッと保護者をにらみつける。
「この国じゃ、そう呼ばない。奇跡なんかよりも、ずっとありふれているからな」
「ありふれている?」
「細かいことは、おいおい話すが……」
顔を曇らせたギルは、言いにくそうに続ける。
「この国で生まれたら、誰でもそういう力を持っているんだよ。魔力って呼んでいるがな」
「誰でもって……」
リディの額に嫌な汗が浮かぶ。
北国に生まれたリディには、当然そんな力はない。
顔をこわばらせた彼女に、ギルは大丈夫だとこともなげに笑いかける。
「まぁ、魔力は個人差も大きいし、今は魔道具も発達しているし、生活するのに、魔法を活用することなく一生を終えるやつも珍しくないし……ああ、魔法のほうが奇跡をより的確に言い換えているかもな」
「えーっと、つまり、魔力というのは、わたしたちが奇跡と呼んでいた魔法を起こすための源の力、ということ?」
「そうそう。そんな感じ。そのへんの説明は、修学院の連中のほうがうまいから、そのうち俺が修学院の知り合いを紹介してやるよ。ああ、修学院ってのは、帝国生まれじゃない魔力の持ち主を集めて教育しているところな」
「わたしたちは、彼らを奇跡の担い手と呼んでいるわ」
「ああ、そうそう、それだ。やれやれ、どんなに年をとっても、世の中は知らないことばかり、初めて知ることばかりだ」
わざとらしく肩をすくめて首を横に振るギルに、そういえばとリディは尋ねる。
「ギルは、どうなの?」
「俺は、まぁちょっといろいろあってだな……」
ニヤリと笑ったギルは、肘までしかない右腕を軽く振る。すると、黒い靄のようなものが肘から先に集まってくるではないか。
ギョッとするリディは、黒い靄が腕の輪郭をはっきりと形どるのを見た。くったりと垂れていたチュニックの袖口から現れた右手は、まるで黒い革の手袋をしているようだった。
「この右腕そのものが魔力の塊でできている。そもそも、俺は例外だしな」
ニヤッと笑って、ギルは黒い右手をヒラヒラ振る。
(こんなことで驚いているようでは、きっと帝国でやっていけないでしょうね)
なぜ今まで黒い右腕を見せなかったのかと尋ねようと口を開きかけて、リディは悟った。
(ギルの祖国とはいえ、神なき国の人たちがないはずの腕を見せられたら、ややこしくなるだけだもんね。神なき国の人たちは、神の御威光を理解しようともしないんだから)
そう考えるリディは、神ごとき皇帝に刃を向けた王国の人々の考え方が理解しようともしなかった。それは、従妹に付き従ってヴァルト王国にいたときも、変わらなかった。
「ねぇ、何がいろいろとあって魔力の塊をもらえたのか、教えてくれる?」
「ダメだとわかってて尋ねるなよ。少なくとも、今はまだ教える気はない」
「今はまだ、ね。わかった」
リディとギルが出会ってから、まだ半日もたっていない。お互いに話せないことが多くて当然だ。個人的な話となれば、なおさらだ。
どうやら、複数人まとめて検問所を抜けたらしく、急に前が大きく開いた。
ギルが綱を引くと、灰色のロバは素直に前に進む。リディが聞きかじった知識では、ロバは馬よりもマイペースな生き物だった。
「このロバ、なんて名前なの?」
「名前? ああ……」
リディの問いに、ギルは困ったような驚いたような表情を浮かべて、黒い右手で頭をかいた。
「こいつの名前、聞いていなかったな。こいつ、俺のロバじゃないんだわ」
「え?」
驚きの声を上げたリディは、ロバの鳴き声を初めて聞いた。見た目によらない美しいソプラノ歌手のような鳴き声に、リディはますます目を丸くする。
「今朝、借りたんだよ。久しぶりに故郷の奴らに会うってのに、手ぶらじゃあれってことで、手土産を用意したらついつい運べる量じゃなくなってな。まぁ、帰りにあんたを乗せるのもありかってことで、借りたわけだ。けど、名前くらい聞いておくべきだったな」
ギルが足を止めると、一緒に足を止めたロバはもう一度美しい声で長々と鳴いた。まるで呆れたように。
ロバに悪かったなと笑いかけてから、ギルはリディに向かって話を続ける。
「明日返す予定なんだが、今日の日が沈む前に返せば、安くすませられる。いやぁラッキーだったぜ。あんたが、こいつに乗れるくらい回復してくれててさ」
「……え」
さすがに聞き流してはいけないことを言われた気がして、リディはピクリと頬をひきつらせてしまった。
「いやぁ、助かった助かった」
「ねぇ、参考までに聞きたいんだけど、わたしがまだ寝たきりだった場合は、どうするつもりだったの?」
「そりゃあ、真っ先に治癒魔法であんたの病魔を取り除いていたな。それからでなけれりゃ、話にならないだろ」
「…………そう」
「そんな気を悪くするなよ。あんたの治癒を後回しにしたのは、他にもちゃんとした理由がある」
「神なき国の人々の前で、奇跡なんて行いたくないでしょうね」
「なんだ、わかってるじゃないか。神への信仰を捨てた人間は、人知を超えた力に触れないほうがいい」
「でしょうね」
ギルの考えは、理解できる。けれども、リディとしては一刻も早く病魔を取り除いてほしかった。
(悪い人じゃないけど、いい人でもなさそうね。それに……)
リディは、ギルの評価を若干下方修正した。
(どうりで、ロバと気が合うわけよ。ギルも、そうとうマイペースなのね)
ギルは、悪いやつではないかもしれない。だとしても、振り回されないようにしなくてはと、リディは気を引き締める。
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