皇帝陛下はご機嫌

 神ごとき皇帝に拝謁するとき、なによりも重要となるのが、皇帝の機嫌だ。

 皇帝の機嫌しだいで、拝謁する者の寿命が伸びるか縮むか決まる。皇帝に直接仕える者たちは、急な呼び出しでもない限り、拝謁の前に必ず本日の機嫌を確かめる。必ず、だ。


 その日は、故郷にいる可愛い弟から、王太子暗殺未遂に巻き込まれた女について相談された翌日だった。


(今日は、機嫌は悪くないようだな)


 誰かに問いたださなくても、聖宮内の空気で皇帝の機嫌がわかる。伊達に二十年以上も、皇帝の側で人生を捧げてきたわけではない。それでも、信頼できる近侍に確認するのを怠らない。それほど、機嫌しだいで心構えが違ってくるのだった。


 本日の機嫌がまぁまぁだからといって、気を緩めるわけにはいかない。

 ギルは見上げるほど高い天井を支える柱が並ぶ大広間のような荘厳な廊下を抜けて、入り口の上に黄金山脈から太陽が三分の一ほどのぞかせている陶板画がある部屋に入っていった。

 広すぎる廊下を長々と歩いてきたせいで、こぢんまりとした部屋だと錯覚してしまいそうになる。実際、聖宮の中では四番目か五番目くらいに狭い部屋だ。けれども、ギルが生まれ育った王城のちょっとした広間くらいはある。

 民家がすっぽりおさまってしまう聖宮のには、暁の空の色をした絨毯が敷いてある。

 奥の一段高い場所には、猫脚の豪奢な肘掛け椅子が一つだけ。


 ギルの他には誰もいない。

 部屋の中ほどまで進み出た彼は、両膝をついてひざまずく。


(二十三年、か)


 皇帝に仕えるようになって、二十三年。大陸の西側では、まもなく一つの節目を迎えようとしている。

 帝国をしのぐほどと言われている神なき国の国王が、息子に王位を譲る決意を固めたのだ。次の春には、新たな王の即位式が行われる。


(あの小さなコニーが、よくやったよ)


 いよいよ現国王コーネリアスの死期が迫っているのだと、ギルは嫌でも気がついてしまった。

 彼の弟でもあるコーネリアスは、もともと大人になれないだろうと宣告されたほど病弱な体の持ち主だった。


(クリス兄さんが生きていれば、コニーの体を治してやれたってのに)


 黒い右腕を授かるよりも、病弱な弟を治癒するほうがずっと簡単だと、この国に迎え入れられてすぐに知った。故郷に置いてきた唯一と言っていい心残りが、かわいがってきた弟だ。

 皇帝の許しを得て、無茶を押し通して国王となった弟と連絡をとりあってきた。その中で、王国を他の者に任せて治癒してやるから来いと、彼は何度も弟を誘ってきた。長兄のクリストファーを崇拝していた弟が、国王の責務を投げ出すわけがないと、わかっていながら。


(コニーは、幸せだっただろうか)


 もう、文字を書くことすらままならなくなっている。

 大人になれないと宣告されていた病弱な弟が、四十すぎるまで生きている。決して楽な人生ではなかったはずだ。


(逃げた俺が、あいつの人生をどうこう言えるわけがない)


 体が弱いくせに、負けず嫌いで意地っ張りで頑固。それでいてどこか抜けている弟を、守ってやりたかった。

 一つ年上の兄に、今まで一度も頼みごとなんかしたことがなかった弟が、昨日死にかけている女を一人、どうにかしてくれないかと、相談を持ちかけてきた。

 初めての頼みごとを、彼は全力でこたえてやりたい。


(しかし、難しいよな。俺にできることといえば……)


 なんの前触れもなく、あたりの空気が一変した。

 彼はすぐに考えごとを中断し、背筋を伸ばして頭を垂れる。

 初めて会ったときから、彼はこの瞬間が苦手だった。神性を帯びた空間は、決して居心地のいいものではない。意識していなければ、呼吸を忘れてしまうことも少なくなかった。肺に取り込まえる空気は、あまりにも清らかすぎて息苦しさが増してしまう。息を止めるよりはマシだけれども、息をしていてもなにかの責めをおっているようだった。

 皇帝が口を開くまでのほんのわずかな時間が、いつも永遠に続くかのような錯覚を覚えてしまう。


「楽にせよ」


 音楽的な皇帝の声一つで、神性を帯びた空気がやわらぐ。


 声に促されるまま顔を上げ、腰を下ろし片膝を立てると、ギルはようやく生きた心地を取り戻せた。

 椅子に腰を下ろした皇帝は、いつものように神々しく美しい。

 ギルはきちんと二十三年分、年をとったというのに、彼の父よりも長く生きている皇帝は二十三年前とまったく変わらない。


(今日も、腰布一枚か)


 そして、肌の露出度が高すぎるのも変わらない。

 くるぶしまである山吹色の絹の腰布以外は、何も身にまとっていない。

 年に二度、夏至と冬至の祝祭で民衆の前に姿を見せるとき以外、皇帝は半裸で過ごしていると、世間に知れ渡ったらどうなるだろう。ギルだけではなく、聖宮を出入りする者たちは、一度ならず考える。そして、親しい者に教えたことろで信じてもらえないだろうと結論にいたり、たいてい口をつぐんでしまう。


「今日中に、ニーカに向かうつもりです」

「うん、期待しているよ」


 それでと、皇帝は太陽の瞳を子どものように輝かせて声を弾ませた。


「前回は、声変わりも迎えていない少年だったね」

「はい」


 ギルの仕事の活躍ぶりが広まりすぎたため、たびたび姿を変えなければならなくなって、かれこれ十年以上経つ。皇帝が言ったように、少年の姿をしていたときもあれば、老人だったときもある。他にも様々な姿にされた。中には、思い出したくもない姿に変えられたこともあった。


(やべぇ。またいつものやつかよ)


 嫌な汗が背中を伝う。


「今回こそは、またおん……」

「嫌です」

「まだ最後まで言っていないぞ」


 不敬だからと、皇帝の言葉を遮れないようでは、側近は務まらない。


「言わなくても、わかります。俺は、二度と女にはなりません」

「そうか」


 残念そうに眉をハの字にした困り顔も、皇帝は美しい。物憂げに純白の髪をかきあげて、ギルを見下ろす。


「嫌なのか?」

「嫌なです」

「どうしても嫌なのか?」

「どうしても嫌なのです」

「ちょっとだけでもか?」

「ちょっとだけでもです。ってか、ちょっとだけですまないでしょうが!」

「……チッ」


 皇帝が不毛なやり取りを面白がると聞いても、信じてもらえないだろう。


「なかなか様になっていたのに」

「なかなか様になっていたから、余計に嫌です。いまだに話のネタにされる身にもなってください」

「あいにく、わしはそのような身になることはまずないのでな」

「そうでしょうね。とにかく、女は嫌です」


 ここで折れたら、また笑い者にされる。ギルは、何が何でも女体化だけは避けなければならない。


「だいたいニーカに女一人で旅行に行くとか、怪しさしかない」

「……一理あるな」

「とにかく、俺を女にするならニーカへは行きませんから」


 皇帝は、ため息をついて軽く首を横に振る。諦めてくれたかと、ギルは胸をなでおろす。けれども、


「お前好みの、むっちり肉厚爆乳ボディでも嫌なのか?」

「嫌に決まってるだろぉおお!!」


 ギルの叫びは部屋中に響き渡っても、誰の耳にも届かない。


「そうか、今回はわしが折れるとしよう」

「ありがとうございます」


 自分はなぜ感謝の言葉を口にしなければならないのか。などと、ギルは考えない。考えたところで、むなしくなるだけだと経験上わかりきっているからだ。


(今回は、じゃねぇよ。二度と女にされてたまるか)


 ひとまず男としての尊厳を守りきったことで、よしとするしかない。ひとまずは、であるけれども。


「ところで、彼岸の王からなにやら相談事があったようじゃないか」


 皇帝が唐突に変えた話題を、ギルはまったく予想していなかった。

 ひとまず胸をなでおろしていたギルの顔がひきつる。


(すべてお見通しなのはわかっていたが、まいったな)


 今まで一度も、皇帝が彼と祖国の弟のやり取りを言及したことはなかった。

 この神聖帝国において、皇帝が知り得ないものは、人の胸のうちにのみにしまい込んだ秘密だけだと言われている。皇帝も肯定しているけれども、本当のところを確かめようがない。なにしろ、すべてを見通す眼を持っているのは、その体の裡に神が眠っている皇帝ただ一人だけなのだから。

 だから、ギルが驚きを隠せなかったのは、初めて言及されせいだ。


「わけありで死にかけている娘をどうにかしてくれないか、だったな」


 先ほどとは別の意味で愉快そうに皇帝は、首を軽くかしげた。

 ギルは、慎重に言葉を選んで答えなければならない。


「なんでも、北方諸国から来た娘だそうですよ。敬虔なヤスヴァリード教の信徒だそうで」


 敬虔な信徒だったせいで、王太子暗殺未遂に巻き込まれたのだけれども。


「陛下。せめて、壁の外で治癒を受けるように、助言することをお許しください。俺の大切な弟の頼みですから」


 ギルは腰を上げて両膝をつき、再び頭を垂れる。


「助言、か」

「はい。俺にできるのはその程度ですから」


 そのくらいなら、わざわざ皇帝に許可を得る必要もない。そう考えていた。皇帝が言及してくるまでは。

 フムと顎に手をやって、皇帝は腰を上げる。


「助言を与える必要はない」

「しかし、陛下……」


 顔を上げて言い募ろうとするギルを、皇帝は笑顔一つで制する。


「身元引受人となれ」

「はい?」


 歩み寄ってくる皇帝に、ギルは戸惑いを隠せない。


「わしの元に連れてこいと言うておる」

「俺のときのようにですか?」

「お前のときのようにか。あぁ、それはちと面白くない。どうしたものかな」


 足を止めて思案にふけったのは、ほんの少しの間だけ。すぐに皇帝は、ギルに何をさせるのか決めた。いや、もしかしたら思案にふけるフリをしただけなのかもしれない。


「では、こうしよう。ニーカで、その娘にこの国の民になるということが、どういうことか教えてやるがいい」

「それはつまり、仕事をしつつ、いわくつきの娘の面倒を見ろ、と?」

「そうだ。ニーカは河岸街。壁外地区には、彼岸の国の領事館もある。不都合はあるまい。それに、お前は面倒見が良いだろう」


 ニッコリと笑みを深める皇帝に、ギルは肩の力が抜けた。


「理由は、どうせ教えてくれないですよね」

「もちろんだとも」


 皇帝に仕えて間もない頃ならば、気まぐれだろうと深く考えることはなかった。

 けれども、今のギルは嫌というほど思い知らされている。

 皇帝は、決して気まぐれを起こさない。必ず、何かしらの意図がある。


(つまり、その娘は特別な何かがあるってことか)


 ギルは背筋を伸ばして、答える。


「かしこまりました。では、ニーカに向かう前に、我が弟にそのように伝えましょう」


 満足げな笑みを浮かべた皇帝は、ギルの前で足を止める。


「期待しているよ。お前の物語は、いつもわしを楽しませてくれる」


 皇帝の右手が、ギルの額に触れる。

 顔に刻まれた年相応のシワが引き伸ばされるような感覚から始まり、内臓が裏返りそうな吐き気をこらえる。皇帝の右手が離れるまでの、ほんの短い時間までも引き伸ばされているように、ギルは錯覚する。

 そうして、ギルは四十すぎの壮年の男から、二十代半ばの青年へと外見を作り変えられた。


 皇帝は二歩後ろに下がり、自分の作り変えたものに満足気にうなずく。


「御身の裡にある神の眠りが安らかであらんことを」


 ギルは両手を床につき腰を折る。皇帝の足の甲に、うやうやしく額を当てる。


「汝、神に物語を捧げよ。さすれば、我が裡に眠る大いなる神も良い夢を見れようぞ。大いなる神の眠りは妨げられてはならない、永遠の少女神が訪れるその日まで」


 美しい音楽的な声の余韻が消える前に、皇帝は現れたときと同じように姿を消した。




 皇帝がなぜ帝国に招き入れたのか、ギルは会えばわかるだろうと考えていた。ひと目でわかるほどの何かがなければ、皇帝は関心すら抱かないだろうと。

 ところが、ロバにまたがっているリディは、いたって普通だ。


(祈っているだけで快復というのは、気になる。が、それだけではとてもあの皇帝が招き入れる理由にはならんな)


 北壁の検問所の行列に並ぶ頃には、リディはキョロキョロと物珍しそうに周囲を眺める余裕が出てきたようだ。よく見れば、ずいぶん顔色もよくなっているではないか。


「ギル、やっぱりわたしの顔になにかついている?」

「いや、そういうわけじゃねぇけど……わりぃ」


 ジロリと睨まれて、ギルは素直に謝るしかなかった。

 フンと鼻を鳴らしてそっぽを向くリディは、やはり特別には見えなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る