灰色のロバ

 リディアが言ったとおり、支度はすぐにできた。

 ほとんど荷物がなかったおかげだ。


(パーティー用に誂えたドレスもみんな置いてきてしまったものね)


 神なき国で一度も袖を通す機会がなかったドレスを思い出して、ため息が出る。


(どんな暮らしが待っているかわからないけど、きっとあんなドレスを着る機会はないでしょうね)


 ギルバートは、元王子らしからぬみすぼらしい服を着ている。彼より豪華な服なんて望めるはずがない。


 今、リディアは裏口の日の当たらない場所の椅子に座って待っている。


 そのギルバートは、場所を提供してくれた商会の偉い人と、お人好しの外交官と話をしている。

 すぐにでもと言っていたけれども、やはりそうもいかないらしい。

 開け放たれた扉の向こうから聞こえてくる話に耳を傾けていたけれども、自分とは関係ないようだった。


(そうよね。わたしは口実のようなものよね)


 外交官としては、神聖帝国の内情を探るまたとない機会を与えられたのだ。少しでも長くギルバートを引き止めておきたかったに違いない。

 ギルバートも、そんなことくらい承知していただろうし、彼は彼で祖国のことを気にかけていたようだ。

 聞かれたくない話なら、ドアを開けたままにするわけがない。


(もしかして、わたしへの配慮だったりするのかしら)


 だとしたら、それはきっとお人好しな外交官が配慮してくれたのだろう。

 彼女の荷物は、小さな旅行かばん一つにおさまった。

 小さな旅行かばん一つ。それが、リディアの全財産だ。

 中には、下着が二枚と、従妹からの餞別の本が一冊。それから、誰にも読ませられない手紙が入った文箱。


(どこかで、燃やさないと)


 うじうじとした手紙を持って行きたくなかった。けれども、誰かの目に触れられるくらいなら、持っていった先で燃やしてしまうほうがいい。

 なので、負の財産がつまった文箱を抜いてしまえば、彼女の持ち物は両手で抱えるほどもない。

 二度と出ることはかなわない北壁をこえる。これまでの自分と決別して、新しい人生を始めるには、荷物は少ないほうがいいのかもしれない。とはいえ、やはり心もとない。

 心もとなさを埋め合わせるには、身元引受人を信頼するしかない。


「なんとかしてくれるはずよ。……それにしても不思議」


 人の手を借りながら簡単すぎる支度を終える頃には、ある予感があった。


(たぶん、最悪なことにはならない。最高ってほどでもないだろうけど)


 予感は、幼い頃からよく当たる。もっとも、その予感のほとんどが嫌な予感ばかりだったけれど。


(これは、神のお導き。ギルバート様を信じるしかない)


 期待に胸をふくらませるのとは違う。けれども、彼女はもう不安に悩まされたりしないと決めたのだ。


 しばらくして、話を終えたギルバートたちがやってきた。


「待たせたな」

「いいえ、とんでもありません。ギルバート様」


 彼女は杖の助けを借りて立ち上がる。


(それで、馬車はどこに用意してくれているのかしら)


 商会の裏手の路地に、馬車が入ってこられるわけがない。かといって、徒歩なんてことはないはずだ。彼女の体力では、北壁に辿り着く前に倒れてしまう。

 なので、甘えとか抜きで、彼女が馬車を期待するのは当然のことだった。

 外に出た彼は、ちょっとした裏庭の奥に向かって手招きする。


「じゃあ、こいつに乗ってくれ」

「……え?」


 少年が連れてきたのは、リディアには馴染みのない灰色の動物だった。彼女の旅行かばんがくくりつけられた動物は、馬によく似ているけれども、違う。馬にしては小さすぎる。兎のような長い耳に、短いたてがみ。


「ロバは、初めてか?」

「これが、ロバ」


 耳にしたことはあった。


(へぇ、これがロバ。なんだか、マイペースな感じだし、馬より可愛いかも……って)


 近づいてくるロバを珍獣のように見つめていた彼女は、はっと我に返る。


「あの、わたし、乗馬は無理です」


 体が弱かったせいで、乗馬どころか犬や猫といった動物と触れ合う機会をあまり与えられなかった。

 動物は苦手というわけではないけれども、乗れと言われても困ったしまった。


(贅沢は言いたくないけど、どうしよう)


 ギルバートは、少年から引き綱を受け取って鞍をポンポンと叩く。


「しがみついて乗っているだけなら大丈夫って、医者が言ってたから安心しろ」

「しがみついてって……」


 断れるはずがなかった。

 ギルバートは、立ちすくんでいる彼女を抱きかかえてロバに跨がらせた。


(大丈夫なの)


 思っていたよりも、不安定なロバの背中。ちょっとロバが身動ぎするだけで、振動が伝わってくる。


(馬なんて、わたし、とても乗れない)


 ロバの上でずり落ちないかと顔をこわばらせている彼女に、ギルバートはすぐに慣れると気休めにもならないことを言う。


「じゃあ、行くか」

「あ、はい」


 ギルバートは、見送りに来ていた人々に軽く手を振って綱を引く。

 お別れをしなければとわかっていたけども、リディアにはそんな余裕はなかった。


(もうお別れの挨拶をしていたもの。いいよね)


 そう言い聞かせて、鞍の前にくくりつけられた旅行かばんを掴む手に力を込めた。


 ギルバートは、細い路地を抜けて、運河沿いの広い通りに出た。北壁を抜ける門が正面にある通りだった。

 まだ距離があるのと、北壁の厚みのせいで、門の向こう側は見えない。


 リディアの唇が、ギュッと引き結ばれる。

 うなじが見えるくらい短く切りそろえられた褐色の髪が、頬にはりついている。

 始めは旅行かばんを握りしめる手元にばかり、濃い緑色の目を向けていた。けれども、今ではまっすぐ前を見据えている。無意識のうちに、背筋を伸ばしてバランスを取ろうとしていた。

 そんな彼女の横顔を、ギルバートはさりげなく観察していた。


(それにしても、普通、だよな)


 リディアが、祖国の次期国王の婚約者の従姉だということを含めても、彼にはとても彼女が自分と同じ例外には見えなかった。


(だが、なにか、なにかあるはずだ)


 彼女が神の国に新たな民として迎えられた意味をみいだそうと、ギルバートはその細い目を糸のように細める。


「あのぉ、なにか?」


 さすがに視線に気づいていた彼女は、前に向けた目を動かせないまま、遠慮がちに尋ねる。


「落ちないか、目を離さないほうがいいだろ」

「……そうですね」


 ニッコリと笑ってギルバートは、わかりやすくはぐらかした。はぐらかされても、彼女は少しも腹を立てられなかった。


(なんだか、油断できない)


 追求したところで、彼が正直に教えてくれる気がしなかった。

 見た目は二十代半ばにしか見えなくても、やはり父親と同じくらい生きてきたのだと悟る。


「帝国の方々は、みんなギルバート様のように年をとらないのですか?」

「まさか」


 ギルバートは、肩をすくめて否定する。


「何度でも言ってやるが、帝国は善人ばかりの楽園じゃない。俺だって、普段は年相応のおっさんだ。仕事の都合でしばらくの間、外見だけ若い姿に変えてもらってる」

「じゃあ、神の御加護というのは嘘だったの?」


 キッと目尻を吊り上げたリディアににらまれて、ギルバートは苦笑する。


「嘘じゃないさ。正真正銘、神のお力。ただ、全部話さなかっただけだ。話したところで、あいつらに理解しきれるわけがない」


 だろ、と彼は同意を求める。

 同意したくなくても、反論の余地が見つからない。面白くないので、リディアはむっつりと口を閉じた。


「それに、あまりいいもんじゃない。頭の天辺からつま先まで窮屈な服を無理やり着させられているようなものだからな」

「へぇ……外見だけでも若返りたい人は、たくさんいると思うけど」

「違いない。あんたはどうなんだ?」

「わたしは、考えるほどまだ年をとっていない」

「なら、考えなくてもいいように、しっかりと年をとることだ」


 どこか自嘲するようにギルバートは唇の端をかすかに吊り上げていた。

 ロバの上のリディアは気がつかずに、次の質問に移った。尋ねたいことは、次から次へと湧き出てきているのだから。


「わたしの帰化を許してくれたのは、誰なの?」


 ギルバートが答えるまでに、間があった。


「神ごとき皇帝陛下だよ」

「また冗談を」


 ムスッとした彼女に、ギルバートは肩をすくめる。


「ま、そのうち会うことになるさ」

「そう」


 リディアはため息をついた。


(まぁ、今、名前とか聞いてもさっぱりだものね。帝国の内情なんて、まったく知らないもの)


 覚悟していたとはいえ、帝国で暮らしていくための課題は山のようにある。


「俺からも、いくつか言っておくことがあるがいいか?」

「ええ」


 彼女は素直にうなずく。


「ギルって呼んでくれ。ギルバート様はなしな」

「ですが……」


 そうは言われても、相手は元王子だ。元王子らしからぬとはいえ、自分が面倒を見てもらう相手だ。


「ギルバートなんて名前、そもそも帝国にはないんだよ」

「そうなんですか?」

「そ、だから、ギルって呼んでもらわないと困る。わかってくれるよな」

「まぁ……」


 ほとんど鎖国状態の国内で異国の名前は目立つし、なにかと不便だろう。


「じゃあ、わたしの名前はどうなるの?」

「リディアはないが、リディならありだ」

「リディは、あり」

「嫌なら、他の名前を考えてやってもいいが、馴染んだ名前のほうがいいだろ」


 ギルもリディも、名前を短縮した愛称だ。


(なんか、馴れ馴れしい気もするけど、しかたないか)


 従妹をはじめとした親しい人の顔がよぎる。もう二度と会うことのない面々に、一瞬胸が苦しくなった。


「リディでいい」


 名前を変えなくてはならないのなら、せめて今までのリディア・クラウンとしての人生を否定しないほうがいい。


「じゃあ、あらためてよろしくな、リディ」

「ええ、よろしく、ギル」


 ギルは初めてリディの素直な笑顔を見た。


(やっぱり、どこにでもいる女だよな)


 年相応の笑顔を見せる彼女に、ギルは彼女の身元引受人となることになった日を思い出す。

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