閑話Ⅰ

黒い右腕

 彼は、常に悪夢に怯えていた。できることなら、眠りたくなかった。それでも、体は眠りを欲する。体の欲求に抗うことはできないのだと、諦めていた。

 悪夢は、常に訪れるわけではない。二十歳になった今では、たまに訪れるくらいだ。気まぐれのように。だからこそ、余計にたちが悪い。右腕の幻肢痛がなくなれば、気まぐれな悪夢に怯えることはなくなるはずだ。彼はそう信じていた。

 幻肢痛と悪夢にさいなまれ続ける人生など、願い下げだった。


(久しぶりに、よく寝た気がするな)


 たくさん夢を見た気もするし、夢も見ずに熟睡していた気もする。どちらにしても、長いこと眠っていたのは間違いないだろう。

 起き抜けのぼんやりした頭で、しばらく見慣れない天井を眺めていた。白い闇ではなく、薄暗い灰色の天井を。


「俺は確か……」


 頭にかかる靄を払おうと、記憶をたどっていく。長い眠りにつく直前のもっとも新しいはずの記憶が、どういうわけか一番ぼやけている。

 兄たちと弟の反対を押し切って大河を渡った早々に拘束され、皇帝に会った。神々しいという言葉の意味を、初めて実感をともなって理解した。

 それから、新しい腕を与えてくれると条件を持ち出された。


 大河を渡ったあたりから、夢のような出来事ばかりだった。けれども、


「夢……だったりしねぇよな」


 上体を起こした彼は、ないはずの右腕があることに気がついた。驚きよりも、信じられないという気持ちのほうが強い。

 皇帝は、確かに新しい右腕を与えてくれた。なぜか、黒檀のように黒い。けれども、失われたことなど一度としてなかったかのように、彼の体の一部として馴染んでいる。

 何度も握っては開いて握っては開いて、ペタペタと黒い右手で頬を触って感触を確かめた。それから、左手で右手の甲を強くつねる。


「いてっ」


 思わず声を上げて、黒い甲を左手でさする。

 黒檀のように黒いことを除けば、生身の右腕だった。

 それまで半信半疑だった彼の顔に、ようやく笑みが広がる。


「……すげぇ」


 興奮気味につぶやいたけれども、彼は手放しで喜ぶ気になれなかった。

 なぜなら、


「なんで真っ裸なんだよ」


 彼は、まがりなりにも王子だった。

 一糸まとわぬ裸体で、小躍りするほど喜ぶのは、育ちの良さが邪魔をする。逆に、服を着ていれば、新しい右腕を手に入れたことを、間違いなく小躍りしていた。

 冷静になればなるほど、彼の当惑は深まっていく。

 使い慣れた左手で頭をかきながら、ぐるりと首を巡らせ、気に入らないと、口の中でつぶやく。


 起きてすぐにわかったことだけれども、この部屋には彼一人しかいない。


 この部屋は、あの白い闇に閉ざされた空間に比べれば、ずっと現実味があった。

 四方を石積みの壁に囲まれ、それぞれの壁の中央付近の壁龕にあるオイルランプが明るく室内を照らしていた。彼が横になっていたのは、白い石の寝台だった。この石の寝台だけが、白い闇で皇帝に会ったことが夢でなかったと主張している。右側の壁には、アーチ型の扉のない出入り口があった。

 扉はないけれども、彼は出ていく気にはならなかった。


(まだ試されてるんだろな)


 床を見遣ると、げんなりした。


 白と黒、灰色のモザイクタイルの床には、水がはってあった。深さはそれほどでもなく、おそらく彼のくるぶしあたりまでだろう。


(嫌な臭いはしないが、ただの水とも思えん)


 この部屋はそれほど広くない。石の寝台からアーチ型の出口まで、跳躍すればギリギリ届く可能性は充分ある。


「とりあえず、待つか」


 幸い寒くも熱くもない。空気がこもっていないのが不思議ではあるけれども、ここは神の国だ。あの白い闇の中で試されたあとでは、多少の不思議は慣れてしまった。


(皇帝は必ず来る。腕を与えておいて、放置する意味がない)


 あぐらをかいて、彼は思考にふける。

 一度、状況をよく整理する必要があった。


(これは契約だ。条件は俺のすべてを皇帝に捧げることで……おいちょっと待て)


 意識を失う直前、皇帝に口づけされた記憶が蘇ってきた。と同時に、全身に鳥肌が立った。


(そういう意味じゃねぇよな、まさか。すべて捧げろってのは、俺が性処理の相手になれってことじゃねぇよな。まさか、そんなわけねぇよな)


 頭の中で必死になって否定しようとするけれども、一糸まとわぬ裸体だったこともあって、鳥肌が立ちっぱなしだった。


(マジかぁ。無理だろ、無理)


 いよいよ否定しきれなくなった彼は、震える指で唇をなぞる。その顔は、真っ青だった。


(マジ無理ッ!!)


 新しい右腕を手に入れたかわりに、彼はとんでもない代償を支払ったのではないか。

 彼は頭をかかえてしまう。


(いやいや、まだそうと決まったわけじゃないぞ、俺。落ち着け、落ち着けぇ、落ち着くんだ、俺)


 皇帝が口にした条件、彼の意識を奪った口づけに、この一糸まとわぬ裸体で放置されているこの状況が、彼を安心させてくれない。

 もし、あらかじめ皇帝の性奴隷になるかっていたら、慎重に考えたに違いない。


 祖国に帰り、これまで通り悪夢に怯え、幻肢痛にさいなまれながら生きていくか。

 新しい右腕を手に入れ、皇帝の性奴隷として生きていくか。


 どちらを選んでも、彼は後悔すると確信を持って答えられるだろう。

 つまり、どちらも嫌だということだ。


(まだそうと決まったわけじゃない。もっと楽観視しろよ、俺。らしくないにもほどがあるだろ)


 仮に皇帝がそういうつもりですべてを捧げろと言ったとしても、そういうことを回避できるかもしれない。


(案外、話せばわかってくれたりとか……それは、あまり期待しないほうがいいか)


 とにかく、新しい右腕を与えられてしまったのだ。

 今さらなかったことにはならない。


「ま、考えてもしかたないか」


 結局、皇帝を待つしかない。憶測で考えるのはやめた。

 思考放棄も、ときには有効な手段だと、彼は知っている。というよりも、彼はもともと考えてもしかたのないことは考えないたちだ。時間は有限で、人生には死という終わりがあることを、生まれ持った右腕を失ったときに学んでいる。考えてもしかたないことを考えるよりも、なるようになると楽観的に構える彼の性分が、ようやく戻ってきたようだ。

 パシパシと両手で頬を叩いて、彼は嫌な予想を頭のすみにおいやった。


「しっかし、やっぱ調子狂うよなぁ」


 これも今までとまるで勝手が違う異国に来るということかと、彼は感慨にふけった。

 しばしの間、感慨にふけったあとで、彼は再び新しい右腕をじっくり観察することにした。


(黒いのは気になるが、なかなか丈夫そうな腕だ)


 握っては開いて握っては開いて、指を一本ずつ折って一本ずつ開いていく。強く握りしめて力むと、腕の筋肉が動くのがわかる。


(中はどうなっている? やっぱ血と肉と骨も黒いのか?)


 肌触りも生身の左腕とかわらない。

 もし、黒檀のように黒くなく、違和感のない彼の肌の色だったら、ここまで念入りに観察することもなかっただろう。


「なんか、出来が良すぎて、逆に偽物っぽいっていうか、なんていうか……」


 新しい右腕が生まれ持った左腕となんら遜色ないことを確認していくうちに、不思議なことに得体のしれない違和感が生じてきた。


(なんだこの感じ。嫌な感じじゃないんだが、どうも気に入らない)


 そもそも、一度失った右腕がこうも完璧な形で戻ってくるなど、彼の常識ではありえないことだった。皇帝がまとっていた雰囲気に飲まれて、失念していたのだ。


(なんなんだよ、神ごとき皇帝って)


 ごくりと生唾を飲みこむ。

 もう黒い右腕は、得体のしれない何かにしか見えなくなってしまった。


(考えるな。考えるな、俺)


 余計なことは考えるな。考えてもしかたのないことだと言い聞かせるけれども、一度芽生えてしまった得体のしれなさはなくならない。むしろ、考えまいとすればするほど、得体のしれなさが膨れ上がっていく。


(これは、本当に俺の腕、なんだろうか……)


 目を背けられずに右手を見つめている。

 黒檀のように黒いせいで異物にしか見えなくなった右腕の輪郭が、不意に。輪郭が解けた右腕は、黒いモヤのようになって膨張していく。


「なんだ、これ!」


 驚きの声を上げて、黒い右腕だったものから離れようと上体をのけぞらせた。あぐらをかいていた彼は、そのまま背中から石の寝台から落ち――なかった。


「落ち着け」


 彼の背中を押し戻したのは、皇帝ひんやりとした手だった。


「まったく、興味深いやつだ」


 背後から回された皇帝の右手が黒いモヤに軽く触れると、たちまちもとの右腕となった。


 こつ然と現れた皇帝に、彼は間の抜けた顔を晒すはめになった。

 ポカンと口を開けている彼の正面に回った皇帝は、不満そうな顔をしていた。


「もっと喜ぶものではないのか」


 どうやら、彼が狂喜乱舞していないことが不満らしい。


「いえ、充分すぎるほど喜んでます」


 全裸で小踊りたら変態でしかないだろと、本当は言いたかった。けれども、皇帝があいかわらず半裸も同然のいでたちだったせいで、言えなかった。

 一度考えまいと頭のすみにおいやった予想が脳裏をよぎり、背中に嫌な汗が流れる。


「わしにはわからんが、いろいろと戸惑うことも多かろう。多少のことは大目にみるとしようか」


 まぁよいと、皇帝は気を取り直した。不満をあらわにしていた美しい顔に、謎めいた笑みを浮かべる。その笑みを見た彼は、自然と背筋が伸び頭を垂れた。


「新しい右腕は、気に入ったか?」


 皇帝の問いに彼は即答せずに、少し考えてから慎重に答える。


「黒いのが気に入りません。黒くなければ、ひと目で我が右腕と受け入れたことでしょう」


 不興を買うかもしれないと理解した上で正直に答えた彼に、皇帝の美しい顔から謎めいた笑みが消えた。それはほんの一瞬のことで、頭を垂れていた彼は気がつかなかった。


「つくづく興味深いやつだな、お前は。面をあげよ」


 顔を上げた彼は、皇帝の謎めいた笑みを見て、不興を買ったわけではないと安堵した。


「今は気に入らなくとも、すぐに気に入るだろう。そのように、わしが与えたのだからな」

「お言葉ですが、なぜ黒いのですか?」

「お前には、黒がよく似合う。それだけだ」

「……」


 こともなげに告げられた理由に、彼は全身の力が抜けそうになった。


「よいか、その右腕は魔力で形をなしている。お前が右腕でないと疑えば、先のように崩れる」

「まりょく?」


 聞き慣れない言葉に戸惑う彼に、皇帝はそれ以上説明する気はないようだ。


「お前が我が民として生きていくために、まずは学んでもらう。お前の先祖が捨て去ったものを、な。そのための師も用意した」


 まだ試され続けるとわかって、彼はうんざりした。

 うんざりする彼に、皇帝はしばらくこの部屋で過ごしてもらうこと、このあと着替えと食べ物を持ってくる娘が、身の回りの世話をしてくれるを教えた。


「床の水は気にするな。ただの水だ。聖水ですらない」

「ただの水……」


 体を害するような液体ではないにしても、なぜ水が張ってあるのか、疑問は残る。


「そうそう、忘れるところだった」


 いつの間にか、皇帝の左手にオニキスの首飾りがあった。

 親指ほどの大きさがある球体のオニキスに穴を開け、複雑な彩りの編み紐を通してあった。作りこそは簡素だけれども、大粒のオニキスの輝きは決して安価なものではないと教えてくれる。

 皇帝は編み紐を両手で広げると、彼は自然と頭を垂れ首を差し出していた。皇帝が首にかけてくれた首飾りは、予想していたよりもずっしりとした重みがあった。


「わし自ら聖石を授けることが、どれほど光栄なことか、今のお前は半分もわかるまい」

「すぐにわかるよう、学びます」


 不遜ともとれることを言いながら顔を上げた彼に、皇帝は満足気にうなずいた。


「本当に、お前は黒がよく似合うな」


 そう言い終わるか終わらないかのうちに、皇帝の姿は消えていた。まるで、はじめからいなかったかのように。


「そんなに黒が似合うのかねぇ、俺は」


 編み紐を指で引っ掛けて、彼はオニキスをしげしげと眺めた。


 すっかり全裸であることに慣れていた彼は、着替えを持ってきた少女に羞恥心から奇声をあげるはめになる。そのことを、彼はまだ知らない。

 神ごとき皇帝はわかっていたかもしれないけれども。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る