第六話:漢方薬


 細かい葉の隙間をキラキラ零れる葉漏れ日が美しいとある日の午後、陽敬宮に侍医じいが訪れていた。普段は獅龍帝に医薬をたてまつったり皇族の診療に当たる、崇爛城お抱えの、知識量が豊富な医者だ。診察は滞りなく事なきを得、女官達が揃って侍医を見送る。


 「――先生、ありがとうございました」


 「昌映しゅうえい様を労わるよう、みな、頼んだぞ」


 「はい。心得ております」


 「うむ」


 侍医は宦官かんがんに連れられ陽敬宮を後にした。女官達は診断の結果に一先ず安心し、それぞれ持ち場に戻り中断していた作業を再開する。


 しかし優淑うしゅくは先程まで落ち葉を履いていた裏庭には戻らず、お使いで出払った上級女官に代わって昌映の傍にいた。


 「昌映しゅうえい様、侍医が書き記して下さった調合で早速、漢方を煎じてきました。漢寿茶かんじゅちゃです」


 ケイヒ、シャクヤク、トウキ、ツアイシンなど、十六種類、一定時間煮だした生薬だ。昌映の体質に合わせた配合の漢方薬になる。


 長年季節を問わない冷え・・で悩んでいた昌映は半年前ついに体調不良で倒れ、憂慮に耐えない皇后が崇泰内地すうたいないちにある屋敷からここ陽敬宮に昌映を移したのだ。特別な待遇は、皇后を寵愛する獅龍帝の計らいでもあった。


 「ありがとう。うん先生の漢寿茶は美味しいのよ」


 「陽敬宮の薬室やくしつは漢方に使用される薬草がたくさんあって、初めて入らせて頂いたときは驚きました」


 陽敬宮の敷地に小ぢんまりと建つ薬室は、棚一面が薬棚になっている。引き出しに薬草の名前が書かれているけれど、幾分、数が多すぎて優淑はさすがにまだ薬草全部の場所を覚えられていない。


 「ふふ、そうでしょう?」


 「はい。葉華ようかさんが貸して下さった漢方の本に人の体はけつすい、の三つで構成されていると考えられている、そう書かれていました。けつの不足を補い、気の流れを良くし、余分なすいの偏りを改善する。影響し合うこの三つのバランスが大切なのです。ハトムギ、シソ、ハブ草なども体の器官や組織に栄養を与えるとか」


 「勉強熱心ね優淑、他の侍女も感心していたわ。でも徹夜は褒めてあげられないわね、体を壊しては本末転倒よ」


 「微力で恐縮ですが昌映様のお役に立ちたく……」


 昌映は指摘をするものの眼差しは優しい。心情を吐露した優淑は俯き、消えゆく語尾に反省の色を滲ませた。「気づけば朝だった」の言い訳は通用しない。


 「無理をしない約束を守れるのなら、今度、貴女が煎じたものを飲みたいわ」


 「……はいっ!」


 昌映の人情の厚い申し出に、顔を上げた優淑は満面の笑みだ。優淑は素直で純粋、一心一意の姿勢に豊かな感受性を持ち、謙虚で慎ましく笑顔が絶えない、観察力も備わっており加えて後宮の女御にょうごに負けず劣らず容姿端麗だ。陽敬宮に入って一週間になる優淑と接し、昌映は孫の煌侃が彼女の魅力に惹かれている理由に納得した。


 身分差婚が許されない時代――、の仕来りが現在も根強く残る貴族育ちの多くの女性は身も蓋もないが男性の富、地位、名誉が何より大切だ。嫁いだ後も相手の性格云々の良し悪しは二の次で、夫の出世が生き甲斐となる。


 もちろん名門貴族出身の昌映も例外ではない。その中でも良き夫に嫁ぎ二人の子供に恵まれ、大事にすべき女の徳を学んだ数十年、夫は冥土に旅立ち二人の子供は自立、何時しかあとは陽敬宮にてどのように余生を送るかだった。


 正しくそんなときだ。孫の煌侃の縁談が増え、昌映の心配の種となったのは――。


 獅龍帝が即位後――結婚相手が曲がりなりにも自分で選べる現代、煌侃は「生涯を共にする人は愛する者がいい」ときた縁談をすべて断り続けている。

 昔の昌映なら煌侃の意思など関係なく品位ある貴族の令嬢と祝言を挙げさせていただろうが、彼女も人生であらゆる経験をし、今となっては煌侃を尊重し希望に沿う相手を娶らせてあげたい心胸しんきょうだ。十九歳の煌侃を昌映も急かすつもりはない。

 しかれども彼自ら慕う女性が近い将来現れるかどうか、最良の縁を天が運んでくれるかどうか、夜条風華家の行く末を不安視していた。


 煌侃は頑固者で自分で決めたことは譲らない。長引くだろうと夜条風華家の誰もが諦めかけていた問題に、いま、突如として解決の兆しがみえる。目の前にいる優淑が唯一の希望かもしれないのだ。


 新しい世を担う先駆ける若者の力になりたい。


 「優淑、貴女アナタ、心に想う殿方はいるの?」


 年老いの最後の務めだ。昌映は御節介な話題を振った。


 「あ――いえ、機会がなく」


 働き詰めの毎日だ。色恋に費やす時間は微塵とない。


 唐突な質問に疑問を抱かず優淑は答えた。望んだ返答に深く息を吸う昌映は優雅で華奢な刺繍の入った刺繍扇子ししゅうせんすを開き、胸の高さで顎に向かって仰いだ。


 扇子に染み込ませた香りがふんわり空気に溶けていく。


 「まことの自分でいなさい。言明は避けますが、いずれ良き殿方と出逢えるはずよ」


 昌映は言外げんがいの意味を含んだ言葉を告げた。手を下腹部で重ね合わせて背中を傾ける優淑は、昌映の予測を実現できるよう声を発した。


 「肝に銘じます」


 「そうそう、失念していたわ。優淑にお願いがあるの」


 語調を荒立てず芝居臭さを消す昌映は演技が上手い。


 「何なりとお申し付け下さい」


 「煌侃に手拭いを縫ってあげられないかしら?」


 「煌侃様に手拭いを、ですか?」


 鸚鵡おうむ返しする優淑の頭上に疑問符が吹き出る。


 「ええ。来週に控えた武道演武大会の演習が本格化すると数枚は不便でしょう? 自主練を怠らない子が家に帰らず兵留房へいりゅうぼうに寝泊まり……、洗濯も追い付かないわ」


 あながち外れていない。実のところ煌侃の手拭いは底を突きかけていた。


 「武道演武大会……! 謹んでお受けしたいと存じます!」


 手拭いの謎が解け、優淑が嬉々として引き受ける。武道演武大会は崇爛城の盛大な行事だ。鑑賞許可が貰えない平民と縁遠い催しのため、優淑もすっかり忘れていた。宮中女官となったいま、優淑は無条件で大会を観れる。


 昌映は扇子を前後に揺らし、縫仕ぬいしを呼んだ。


 「淡淡たんたん、淡淡は居る?」


 「はい昌映様、こちらに」


 音なくスッと出現した淡淡が扉のない部屋の境目で膝を突いた。宮中衣服や軍服を職掌しょくしょうする最下級女官で、通常は原毛を糸にして生地を織る織物製造所・縫玲殿ぬいれいでんにいる。衣は上下薄黄うすきの女房装束に黒の三枚歯下駄、顔立ちは平面的で黒髪のお団子頭には数本の待ち針を指していた。


 「手拭いを縫いたいの。生地を持ってきてちょうだい」


 「――


 「肌触りの良い晒し生地に、そうね、色合いは数種類。相手は殿方よ、粗雑で派手な柄は避けて」


 昌映の指示に淡淡が首肯する。まるで侍衛や宦官の立ち居振る舞いだ。


 「――只今ただいま

 

 要求に応じる判断が素早い。淡淡はほんの数分で退出した。


 「私も手先の痺れがなかった頃はよく縫物をしていたわ」


 「後宮随一であったに相違ございません」


 優淑の弁舌に昌映は頬に皺を寄せ苦笑する。


 「ふふ、まったく優淑ったら大袈裟ね。陽敬宮外で言ってはなりませんよ」


 「みなうべなう事実でございます」


 「優淑、ひんは癇癪持ちです。敲刑たたきけい10回じゃ済みません」


 「……はい」


 苦言を呈され甘受した。優淑が唇を尖らせて子供染みた仕草をする。

 

 「煌侃が気に入るよう、お願いよ優淑」


 「全力を尽くします」


昌映の期待を超えたい。瞬時に気持ちを切り替えた優淑は、意気込んでこうべれた。同時刻、兵軍処へいぐんしょにいた煌侃がくしゃみを繰り返し、自然現象か噂かはたまた風邪か騒いだフォンネスのそれはまた別の話だ――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る