第五話:陽敬宮


 「――大母おおはは様、私はそろそろ兵軍処へいぐんしょに戻ります」


 「煌侃こうかん様、ありがとうございました。お気を付けて」


 優淑の見送りに力強く頷いた煌侃が陽敬宮を後にして、かれこれ半刻はんときが経った。優淑はいま、陽敬宮の更衣所で昌映しゅうえいに「皇后から拝受はいじゅ致しました」と手渡された女房装束にょうぼうしょうぞくに着替え直している。女房装束は女官の常服だ。


 「……かわいい」


 無論、宮仕みやづかえ全員が同じ常服じょうふくではない。貴夫人に仕える官女きゅうじょはそれぞれの階級で身形も様々だ。優淑の場合、上衣とスカートが繋がった形状――くるぶしをすっぽり覆う長い丈のワンピースで、襟元や袖口には繊細で可憐な桜の刺繍が施されていた。

 彼女の肌を際立たせる上質な生地は、理想を求めた良好な白だ。髪はもとどりの上に幾つか輪を作り、根元を余った髪で巻く、女房装束に合う唐輪からわにし、履物は女官が唯一義務付けられている高さ6センチの黒の三枚歯下駄だ。宙に浮く表現し難い感覚が優淑を襲っている。


 「……大丈夫」


 きっと慣れるはずだ。優淑は自分を励ましていた。


 「――よし」


 そして最後に藤の花の耳飾りをする。これは優淑の父が母に贈った、優淑にとっては亡き母の形見でありお守り代わりだ。


 「ねえ~、私手伝うわよ~?」


 準備を終えて優淑が気合いを入れたとき、タイミングよく間仕切りのカーテン越しに声が掛かった。優淑は慌てて返事をする。


 「すみません! いま終わりました!」


 「なんだ、終わってたのね……」


 至極残念な語調でカーテンを開けたのは、陽敬宮の上位階級の侍女、佐々ささ葉華ようかだ。彼女は自ら昌映に新人女官の世話を買って出ており、優淑が感謝と共にその理由を訊ねると「貴女アナタは十八、私は二十、可愛い妹が欲しかったの」であった。斜め上をいく答えに優淑の目が丸くなったことは言うまでもない。


 「さすが皇后様がお選びになった装束ね。似合ってるわよ」


 上下、前後、じっくり確認し、葉華が緊張気味に反応を覗う優淑を褒めた。


 「ありがとうございます」


 葉華の高評価を受け、優淑はほっと安堵する。


 葉華は稀にみる美形の女性だ。目鼻立ちが通った中性的な顔立ちで、しっかりした顎の骨格に余計な丸みはない。深い彫りが各パーツの主張を強めていて、化粧っ気がない彼女の元々の美しさを印象付けた。


 彼女の女房装束も又、優淑同様ワンピースの形だ。明るい緑味の青生地に雪輪が描かれている。高い位置にある二つ結びのお団子頭にはかすみ草と紫陽花の髪飾りをしていた。履物はもちろん黒の三枚歯下駄だ。174㎝と高身長な葉華は、下駄の厚みを含めると180㎝に等しい。


 「じゃあ今日は花壇の手入れを教えるわ」


 「よろしくお願いします」


 優淑は葉華の後ろをたどたどしく歩き、すれ違う女官に挨拶しながら移動した。陽敬宮は昌映が好んだ花がたくさん植えてある。


 優淑は石畳の前庭ぜんていに案内された。日当たりと風通しが抜群によく、植物を育てるのに適した環境だ。


 「昌映様がいま一番気に入っていらっしゃる、ジニアよ。暑い夏から秋まで咲き続けるの。100日以上のあいだ咲き続けるから百日草と呼ぶ他国もあるみたい」


 葉華が丁寧に解説してくれるジニアは、耐久性に優れていそうな鉄製のアイアンフェンスに囲われる。赤、白、橙、黄、と花の色が豊富で、形も大輪、小輪とこんもり咲いていた。


 「ジニアは株が蒸れると病気になりやすいの。朝夕の水やりは株元を意識してあげるのよ」


 「はい。株元ですね」


 「小忠実こまめ枯葉こようや花がら摘みもね。終わった花を早く摘めば次の花に栄養が回るでしょ」


 「はい。注視します」


 「夜条風華侍衛とは仲が良いの?」


 「は――、え?」


 突然、煌侃の質問が飛んでくる。危うく流れのまま優淑は肯定しかけた。聞き間違いか瞬きをする。


 「だって、あの・・夜条風華侍衛が女子じょしと立ち話をするなんて。幻かと思ったわ。で優淑、夜条風華侍衛とは仲が良いの?」


 

そこはかとなく、葉華の口振りには棘が刺さっていた。再度問い、首を傾け催促する。優淑に逃げ場はない。


 「煌侃様はお優しく、崇爛城に不慣れな私を何かと心配して下さって……。仲が良いと断言するにはいささか付き合いが浅い気が……」


 優淑は煌侃と知り合ってまだ数日足らずだ。仲が良いも悪いもない。ただ否定も極端すぎる。優淑は角が立たないよう言葉を選んだ。


 「お優しい……心配……、確かに誠実な方で女性蔑視しない殿方だけど、女性と個人的に親しくする姿は初めて見たわ。夜条風華煌侃、容姿端麗で才色兼備、軍将官で前途洋々、おまけに名門貴族で右に出る者がいない伯爵家の息子、女官の憧れの的なのよ?」


 葉華はどこか鈍い優淑に興奮気味に熱弁した。だが上手く通じず、優淑は的外れな解釈をする。


 「――三拍子揃った素晴らしい煌侃様に、葉華さんも好意を抱かれているのですね」


 「いいえまったく微塵と毛程もないわ。じゃなくて、ああ、……こんなに可愛くて純粋な子が宮中に……、夜条風華侍衛は審美眼しんびがんをお持ちなのね……、いいの、もう、忘れて……」


 優淑の考えをぴしゃり打ち消し、葉華は頭を抱えぶつぶつうなり出した。ひとり自己完結に至る葉華の様子は諦めに近い。


 息をひとつ吐く葉華は、優淑に届かない囁き声で呟いた。


 「外戚がいせきに仕える秀女しゅうじょの私に楯突く女官は滅多にいない。嫉妬に狂った女官が万一、私の手に負えなくても、夜条風華煌侃が黙ってないでしょ」


 「葉華さん?」


 「陛下が即位なされて数年、法律も改正されたわ。優淑、後宮は知識も必要不可欠よ。学はあるの?」


 ころり再び、唐突に話題が変わる。優淑は貧乏でないにしろ、勉学に励める環境におらず、字の読み書きや礼儀作法は父親に教わった程度の最低限だ。


 恥に思ってないものの、あるに越したことはない。優淑は申し訳なく謝った。


 「すみません」


 「優淑、貴女をいやしんでいるわけじゃないの、絶対に誤解しないで」


 「はい、葉華さんを信用しております」


 「賢明よ。いい? 優淑、ここ数年で秀女選抜試験の廃止、貴族の側室廃止、崇爛城や後宮の在り方がめまぐるしく変転してるの。無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり、他国の学者の名言ね。女性も学んで、知識を得て、行動や経験が大事な時代になるわ。私と折を見て勉強しましょう。私は貴女を指導する立場だもの、ね?」


 まるで異国の言語だ。矢継ぎ早に呪文を唱えられ、途中、優淑は意識が遠退きかける。語尾の「勉強」「指導」が耳で拾えた精一杯の単語だった。


 果たして葉華の手ほどきに耐えれるか不安が募る。片や令嬢、片や平民だ。


 「…………」


 暫しの間を置き、優淑は喉奥に溜まった唾液を飲み込むと、意を決してこうべを垂れた。基礎は土台になる。この機会は逃せない。


 「……ご厚意有難く、ご教授願います」

 

 「ええ、こちらこそ。じゃあ裏手に周りましょうか、続きは夜ゆっくり話しましょう。質のいい茶葉があるの、美味しいわよ楽しみにしてて」


 「わ、わ、葉華さん! ま、待って、転びます!」


 優淑の手をぐいぐい引く葉華の機嫌は最高に良い。優淑は足が縺れ転倒しそうになるのを必死に耐えながら、満面の笑みを湛える葉華につられて小さく微笑んだのだった。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る