19

 平成三年九月五日、木曜日――。あたしは久しぶりに学校に行った。マリオカートをしてばかりで寝てなかったので、午前中は居眠りをして過ごした。昼は購買で一番人気のフォカッチャを食べることができて、ラッキーだった。午後、窓の向こうには、聖堂の二本の尖塔が青い空に映えていた。それを見ているうち、あたしはまた寝てしまった。もう夢は見なかった。

 授業が終わると、あたしは病院まで走った。花街の路地を抜け、近道をして、病院の扉を体当たりで開けた。廊下を走ると木張りの廊下がぎしぎし唸り、看護師さんに韓国語で叱られたが、お構いなしだった。

「ババア!」

 ババアの病室に飛び込むと、窓が開いていて、カーテンを揺らす涼しい秋風が通り抜けた。まるで人気はなく、あたしの荒い息遣いだけがましろい部屋に響いていた。

「……ババア?」

 あたしはゆっくりとベッドに歩み寄った。手術が成功して退院したのだろうか、とも思ったが、筆記用具といったババアの私物は机のうえに置かれたままだった。一枚の紙が万年筆を文鎮代わりにして残されていた。そこにはかつて読んだことのあるババアの小説とよく似た筆跡の文字が、しっかりした日本語で書かれていた。

 あたしはおそるおそるその紙を手に取った。


〈ミコへ。ひとつ言ってないことがあったので、手紙を書きます。私は神様なんか、信じてはいません。風俗のあと、必ず聖堂に行ってたのは、そのまま寝たら妊娠するような気がしたから、妊娠なんかしたくなかったから、それだけです。それなのに妊娠したから、おかしいよね。障害があるのに妊娠したから、へんだよね。子どもができたらすごくうれしかったから、すごくすごくへんだよね。ねえミコ。私は神様なんか、いないと思う、よ。手術して知りました。おなかの子どもはおとこだったそうです。愛子なんか、最初からどこにもいなかった。私を苦しめたおとこがおなかのなかで死んだと知ったとき、私は鬼神を宿したんだと思った。私は汚れたおなかのまま、地獄に落ちようと思います。

 追伸――。「神様の葬式」ができて、すごくうれしかった。たとえ嘘っこでも、マリアの役ができてよかったです。演劇ってうれしいね。ミコがヤスさんの役でよかった。生まれ変わったら、今度こそセックスをしよう。トモコとケイコにもよろしく伝えておいてください。最期に三人に会えてよかった。さよならもありがとうもごめんなさいも私たちには似合わないから、一言だけ、伝えさせてください。

産まれてきて、うれしかったよ! まいうー〉


 窓の向こうから焦げた匂いが流れこんできた。韓国人たちが騒ぐ声も聴こえた。窓から見下ろすと、花街の群衆は山を指差していて、彼らの示す先を見やると、聖堂のふたつの尖塔から黒い煙が噴き出していた。

「ババア!」

 あたしは病院を飛び出し、聖堂に向かい走った。家のまえを通り過ぎるとき、ぼんやり聖堂を眺めている智子に出くわした。

「ババアが聖堂にいる! 恵子を連れて、すぐに聖堂に駆けつけて!」

 あたしは智子にそう伝えた。智子は何かを勘づいたような表情で数度頷くと、学校に向かい走り出した。

「道分かる!?」

 ふいに智子が方向音痴だったことを思い出し、むしょうに不安になり、その言葉を智子の背中に向かって投げた。智子は振り返らないまま、

「ずっとババアを見てたんだから、ババアの場所を迷うわけないじゃん!」

 と言い残し、道の向こうへ消えた。

 そうだ、あたしたちは、ずっとババアを見てきたんだ――。


 あたしは聖堂への階段を駆け上がった。あたしはハイスペックシスターズだから、どれだけ速く走っても息が上がることはないはずだった。それなのに、胸が苦しくて仕方がなかった。まいうーはそんなふうに使うんじゃねえよ、とか、捻れよ、とか、仕方がないことで頭がいっぱいだった。「仕方がない」とよく口にしたババアを「仕方がなくなんかねえよ」と張り倒してやりたかった。目の前をババアが走るゴーストが見えた。あたしはそれに追いつきたくて、全力で走るのだけど、ババアはめちゃくちゃ速くて、走っても走ってもババアには追いつけなかった。

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