20

 聖堂のまえに立つと、赤い炎が舞い上がり、尖塔の半分は燃え尽きて黒い炭の姿を晒していた。ぱちぱちと木の爆ぜる音が聴こえ、時折激しい音を立てて壁や柱が崩壊した。

 聖堂まえの芝生には数人の教会関係者らしき人々が茫然と佇んでいて、そのなかにはババアの妹・カンジヨンの姿もあった。

「……ベル? ベルじゃないの? ここに来たら、危ないじゃない?」

 カンジヨンはあたしに気がつくと、シスターらしい無垢な表情であたしに話しかけてきた。

 なにかを考えるよりも先に、あたしはカンジヨンを殴り倒していた。ババアに怒られるかもしれないと思ったけれど、そんなの慣れっこだから構わなかった。地面に倒れ込んだカンジヨンの表情は、シスターにあるまじき俗世じみた怯えを表していて、あたしはそのことに満足をした。

「……これがババアの痛みや。いや、ババアの痛みの半分にも、十分の一にも、一万分の一にも届いてへん」

 あたしはカンジヨンにそう言い捨て、聖堂に向かい走った。怒るとあたしも智子と同じで関西弁になるってことを知った。たぶんあたしが本気で怒ったのはこれが初めてだった。

 あたしを止めようとする教会関係者たちを次々と殴りとばし、あたしは聖堂の扉を開けた。それはとても熱くて、重くて、あたしはこの世界がただの異世界じゃなく、どこかに確かに存在する世界だってことを確信した。


「ババア!」

 聖堂の奥にはババアがましろい手術着のまま倒れていた。それをまだ燃えていないヤスさんの像が見下ろしていた。あたしがババアに駆け寄ると、床には真っ赤な血があふれているのを見つけた。ババアの右手には剃刀が握られていて、左手首にはぱっくりとした傷が開いていた。

「なんなんこれ……、めっちゃ燃えてるやん」

 その声がして振り返ると、恵子と智子がそこに立っていた。

「ちょっとあれ、わたしの舞台装置じゃない? なんであんなところにあるわけ?」

 智子が指差した先には、たしかに智子が「神様の葬式」のために作った雷を発生させる装置が火花を放っていた。どうやらその装置が火元であるようだった。

「……ひどい、改造されてる。こんなことするのはババアだけだな。聖堂を燃やすためにわたしの装置を使うなんて、馬鹿げてるわ」

 智子は体勢を低くしてその火元に近寄ると、装置を眺めたのち一瞬でそう分析した。

「美子! 恵子ちゃん! 火はわたしが止めるから、ふたりはババアを助けて!」

 暑いのか、智子はブラウスをはだけると、眼鏡を外した。本気でデバッグするまえに智子が必ず見せる仕草だった。

「……やれんの?」

 あたしが尋ねると、智子は不敵な笑みを浮かべ、こう言った。

「ババアが改造した装置なら、わたしが解除できないわけがないじゃん。だってわたしは、ババアより賢いんだから」

 智子が装置を弄り始めてすぐに、火の勢いはわずかずつながら収まりだした。外で消火活動も始まったようだった。しかしあたしと恵子は、ババアをどうしていいか分からなかった。ババアの出血はおびただしく、顔面は蒼白で、脈拍はないか、ひどく弱くしか感じられなかった。

 止むをえずあたしはババアを背負って連れ出そうとした。

「ああああ!」

 智子の悲鳴が聴こえた。振り返ると、智子の装置から再び激しい火が噴き出したところだった。智子のスカートに引火し、智子はスカートも脱ぎ捨てる。

「大丈夫ー!?」

 あたしが叫ぶと、智子はそれが聴こえていないかのように、ほとんど裸の姿のまま、再び装置に向き合おうとした。ほそっこい身体にいくつも火傷が現れていた。

「もういい、もういいよー!」

 あたしはまた声を張り上げた。まるでババアがここから離れるのを拒むかのように、火は勢いをあげていた。この世界では、前の世界と同じように、痛みがある。喜びも怒りも悲しみも楽しみも、ある。なによりも、ババアはこの世界で、たしかに生きていた。だとすれば、あたしたちがもしこの世界で死ねば、たしかに命が失われるはずだ。あたしは智子と恵子にはぜったい死んでほしくなかったから、それにババアはもう死んだものと諦めていたから、この場からは逃げようと決めた。

「このやろー! あきらめたらもったいないだろー!」

 しかし智子は装置のまえを離れようとしない。デバッグするときの智子はいつもそうだった。周りのことが目や耳に入らなくなる。そしてこのときの智子は今までのいつよりも集中していた。

「ばかやろー! テクノロジーに限界なんてあるはずないだろー!」

 智子が逃げようとしなかったのは、信じていたのは、単なるテクノロジーだったのか。それとも、それ以外の何かだったのか。彼女の人生において。

「わたしがババアに負けるはずなんてないだろー! ここはわたしの世界なんだー!」

 智子の叫びを聴いて、はっと気づくことがあった。

 つまりこの世界の異常な構造。複数の世界線が同時に成立している。にも関わらず、矛盾が異常なほどしっかりと取り除かれている。まるで誰かが作ったかのように。


 ここは、ではないのか。


「……恵子」

 あたしは恵子の手に触れ、それを促した。

「……小説、書ける?」

 恵子は驚いた表情であたしを見た。目を大きく見開いたその表情は、彼女がその好奇心ゆえに、小説を書くとき必ず見せる表情だと知っていた。

「いま分かった。これはあたしたちが作った世界なんだ。あたしが演じ、智子が作り、恵子が書いた、そんな世界なんだ。ちょうどあの『神様の葬式』のように。だからたぶん、あたしたちはこの世界を思い通りにできるはずなんだ。あたしは演技によって、智子は設計によって、そして恵子は、執筆によって」

 恵子は黙ったまま、口元をつよく引き締めた表情をあげ、ヤスさん像に向かい、左手で十字を切った。恵子はいつも小説を書くまえ、この仕草をした。なんでヤスさんを信じてもいないのにそんなことをするんだろう、とずっと思っていた。今ならあたしにもその意味が分かる。だってあたしたちは、みんな同じひとを信じていたから。

 恵子は両手をかかげる。そこには虹色に輝くキーボードが現れる。

「恵子ちゃーん! 早くしろー!」

 智子の叫びが聴こえる。恵子はすう、と一呼吸置くと、タッチタイプで一気に打ち込んだ。


〈キリスト教的世界観におけるおとことおんなの役割がいま反転する〉


 瞬間、上空から落雷がほとばしり、天井を貫いてヤスさん像がまぶしく輝いた。そのひかりが消えると、ヤスさんの代わりに十字架に打ちつけられていたのは、マリア――ではなく、ババアだった。ヤスさん像は砕け、床に広がる血の海にばらばらと落下する。あたしたちにとってのおとこの象徴がひとつ崩れた。しかし偶像ではない本物の鬼神がババアのおなかにまだ残っているのだと知っていた。

「恵子、槍をだして!」

 あたしは恵子にそう命じる。恵子がキーボードを打つと、あたしの手に細長いものが現れた。

「はっはっは、捻るなよ。これ、槍じゃないじゃん」

 構わない。ロンギヌスでも、パルチザンでも、グングニルじゃなくても構わない。聖槍なんかじゃない。それはただあたしたちがババアに追いつくためにだけあった。マリオカートでいう赤甲羅みたいなものだ。

「美子ー! はよやれやぼけー! 死んだらええねーん!」

 すこしだけ躊躇した。智子が叫ぶ。落雷を受けて、火の勢いは一気に増していた。パイプオルガンを煙が鳴らし、聖歌か、あるいは鬼神の断末魔のような音を響かせる。あたしはババアのおなかを目がけ、思い切りそれを投げ込んだ。ぜったいに貫けない盾を、ぜったいに貫ける槍で突く。おなかにあの夏の匂いを取り戻すために。

 草の匂いがするミュージシャンは曲を作るとき、死とセックスのことしか考えていないという。同じようにあたしたちは子どもを作るとき、死とセックスのことを考える。ババアがあたしたちを受け入れてくれたときも、同じようにしただろうか。あたしたちはもしかしたら、ババアの救いだったかもしれないことを思った。

「さよなら、ババア」

 ババアのおなかにそれが刺さった瞬間、ババアの顔は一気に年老いて、あたしたちがよく知る姿に変わった。怒っているようなババアの表情がいまは笑って見えた。ババアを理解した瞬間、ババアの表情の本当の意味を知った。

 聖堂が崩れ落ちていく。ババアがあたしたちを抱き締め、守ってくれた。あたたかくて、きもちよくて、まるでひかりのようだった。ババアがあたしたちを引き取った頃、あたしたちが赤子だった頃も、ババアはこんなふうにあたしたちを抱き締めてくれたんだろうか。そのときの気持ちのことを思うと、あたしの知らないババアを見つけた。ババアの知らないあたしたちのことを、あたしは教えることができたんだろうか。世界を離れる瞬間、あたしはそのことだけを思い残した。

 「つよいこ」ではなく「つおいこ」だった理由をいま知った。ババアが「ょ」を捨てた世界を、あたしたちはタフに生きていく。

 ババアよ、見てくれ、ずっと見ててくれ。あたしたちはこんなにも、「つおいこ」だ。ババアの掛けたその鍵を解いた今、2015年に舞い戻る――。

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