18

「子どもは亡くなったけど、まだおなかのなかに残ってるんだって。明日、遺体を取り出す手術をするって、そう教えてくれた」

 家に帰ると、あたしは智子と恵子にそのことを伝えた。ごはんを作ってくれるひとがいないので、三人で協力して作ったばんごはんは焦げた白飯だけで、しかし味は全くしなかった。ケチな智子ですら半分を残した。

「明日、お見舞いに行こうと思う。ババアと約束したから」

 智子も恵子も何も言わないので、あたしはそのことを切り出した。智子は強い口調で、

「それ、美子に任せるわ」

 と言い、眼鏡に触れた。

「うちもパス。美子、頼んだで」

 恵子もそっぽを向いて言った。

「なんで? 一緒に行こうよ」

 あたしが誘うと、智子と恵子は思いつめたような表情を向かい合わせたまま、何かを確認するかのように同時に頷き、それぞれの、ババアと話すときの顔をあたしに見せた。

「分からへんの? ババアは、美子に来てほしいんやで。あんまりババアを悲しませんといてや」

 恵子の顔は、泣いているように見えた。

「ババア、デートしてるとき、ずっと美子の話ばっかしてたよ。『あの子は私と同じでセックスで自傷するクセがあるから、三人のなかでいちばん心配だ』って」

 智子の顔は、笑っているように見えた。

 そのことを、あたしは知らなかった。あたしだけが知らなかったんだって知った。狼狽したあたしは意味のないことを言った。

「でも、ババアは、智子も、恵子も、好きだと思うよ。ふたりだって、ババアのことを、」

「分かってるよ!」

 智子と恵子は呆れた声を重ねた。そうだ、あたしたちは、「分かった」んだ。


 曲をつくるときに死とセックスのことしか考えない草食系ミュージシャンは、かつて、愛してるの響きだけで強くなれる気がする、とうたった。あたしはそれは、ウソだと思っていた。愛してるとどれだけ言われたところで、強くなんかなれないと思っていた。でももしもその「愛してる」が言葉じゃないならば、言葉じゃなく響いてくるものがあるとすれば、あたしにはそれが分かる、気がする。少なくともあたしはいま、とても強くなれた、気がした。気のせいかもしれないのは、それが言葉じゃないから、明確に伝わってくるものではないからだ。そのぐらいの不確かさで、あたしはババアに愛されている、そんな気がしたんだ。


 あたしたちは徹夜でマリオカートを遊んだ。智子と恵子とコントローラを回し合い、ババアの走りが記録されているゴーストを一晩中追いかけた。

 空が白み始めた頃、あたしは完璧なロケットスタートを切ることができた。ドリフトがかつてなくべたべたに決まる。

「美子、行けるで!」

 恵子の声が飛ぶ。一周目、あたしはババアより早くラップを駆け抜けた。

「まだだ! ババアは周回ごとに速くなる! ここからが本番!」

 智子が助言してくれる。あたしもそのことは分かってる。走りのぎりぎりを突く。最短距離でダートをショートカットする。

 二周目もあたしはババアより速かった。三周目も。しかしババアのゴーストとの距離がだんだん縮まってるのを感じる。

「あかん!」

 恵子の悲鳴が聴こえる。四周目、最初のカーブ、わずかにドリフトが外に膨らんでしまい、内側からババアに抜かれた。

「美子、諦めんな! がんばれ!」

 智子が叫ぶ。あと二周、ババアにはミスらしいミスはなかったはずだった。ほとんど絶望的だといっていいこの場面、しかしあたしたちは、誰も諦めようとはしなかった。だってババアも、最後まで子どもを産もうとしてた。ババアは諦めようとはしなかった。子どもができなくても、あたしたちを拾い、育ててくれた。

 汗でコントローラがぎとぎとだった。いつの間にかあたしは中腰になり、身体を左右に捩りながら、ブラウン管を睨み、ババアを全力で追いかけた。

「美子!」

「美子!」

 智子と恵子の声がする。すごく近くから聴こえる。

(ミコ……)

 ババアの声も、ちゃんと聴こえる。

 ババアとの距離は縮まらなかったが、引き離されもしなかった。そのことが、諦めなかったことが、あたしにたったひとつのチャンスを与えてくれた。最後のストレート、本来であればダートを突っ切ったほうが速い。しかしババアのゴーストは、コースを走ることを選んだ。そんな正しさこそ、ババアの生き方であり、死に方であり、あたしたちに与えてくれた、たったひとつのチャンスだった。

「抜いてやれ、美子!」

 智子と恵子が同時に叫ぶ。あたしのなかのババアもたぶん、叫んでる。


 最後のストレート、ダートを選んだあたしは、ハナ差でババアのゴーストを抜くことができた。

「よっしゃー!」

 あたしはガッツポーズを決めた。そのいきおいでコントローラがスーパーファミコンからもろん、と零れ落ちた。点けっぱなしにしている照明がやけにまぶしく見えた。美しいあたしの身体すらひるんでいた。ババアがあたしに教えてくれたのは「美しく生きるやり方」じゃなかった。ババアの生き方はあたしよりずっと美しかった。韓国人であるがゆえに美しくて、女であるがゆえに賢くて、障害があるがゆえに恵まれていた。そんなババアの人生をいとおしく思った。そんなババアの葬式がしたいと思った。あたしはこの世界に転移した理由を見つけた。

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