17

 水曜日。あたしとババアには一日の自宅謹慎が言い渡されたため、通学する智子と恵子を見送ったあと、家にいた。喧嘩の傷は癒えて、疲れは取れたけれど、そのぶん暇になった。ババアはやはり風俗と教会から帰ってきたあと、ずっと寝ていたので、あたしはますます暇になった。時間を持てあましたあげく、ババアにちょっかいをかけてみようと思いついた。

 畳のうえに膝を滑らせて、ババアに近づいた。ババアは無地の薄桃色のTシャツに、紺色のプリーツスカートという簡素ないでたちだった。いつものとおり、布団やタオルケットはかけていなかったので、体型がよく見えた。畳のうえに転がっているそのかたちは、胸や二の腕のあたりに肉感があって、とても艶めかしかった。スカートは膝丈ぐらいの長さがあったが、はだけられてやわらかそうな太腿が露わになっていた。呼吸をするたびふくらみのあるお腹が上下に揺れて、シャツの裾から可愛らしいおへそが見えた。いつもより寝相が悪く、寝息が荒い気がした。色素が失われた顔色は白を通り越して青く、それなのに頬だけ林檎のように赤かった。ババアが寝苦しそうに足をずらすと、下着が見えた。真白い、地味な下着は、真ん中のあたりがどす黒い赤に染まっていて、粘っこく赤い液体が畳のうえに乱雑な線を描いていた。

「ババア!!」

 あたしは慌ててババアの身体をゆすった。ババアの腕が力なく床に落ちた。わずかに開いた口の隙間からよだれが滴った。閉じられた瞳からひとすじの水が頬を濡らした。

「ババア! 死ぬな!」

 あたしはババアの身体を背負い、四畳半を飛び出した。ババアの身体はとても軽くて、ふたりぶんではないみたいだった。脱力したままあたしに背負われるババアは全然強くなかった。あたしは全力で走った。花街を歩く人々にぶつかりそうになるたび、みんな怪訝そうな顔であたしたちを振り返った。全員蹴飛ばしてやりたかった。ババアを泣かすんじゃねえよ。ていうかなんでババアは泣いてんだよ。

 どうして海亀は子を産むとき泣くんだろう。走りながら、そんなどうでもいいことを考えていた。智子になら分かるだろうか。恵子になら書けるだろうか。あたしは演じることしかできない。あたしは女優だから。自由にはなれない。智子だって恵子だってそうだろう。もちろん、ババアだって。

 海亀が泣くのは、産んだ子どもたちが死んでしまうことが分かっているからだ。そんなことを思った。だとすれば、あたしたちは海亀だ。美貌や智謀や恵俊彰があっても、大切な人ひとり守ることができない。自由じゃないから泣く、産み亀だ。


 花街の隅に韓国人のための病院があって、初老の看護師さんが庭先で煙草を吹かしていた。彼女はババアと顔見知りだったのか、あたしがババアを背負ったままよろよろ歩いている姿を見つけると、すぐに招き入れてくれた。混乱していたため最初は気づかなかったが、前の世界でババアを看取ったあの病院だった。この時代はまだ家屋が新しく、様々な受診科が残っており、ババアは担架に乗せられて産婦人科に運ばれた。あたしは病室前でしばらく待たされる形となった。

 穴だらけのベンチに腰かけ、あたしは深くうなだれて、目を瞑り、痙攣する左手は自然と十字を切っていた。あたしは祈るということの意味を始めて知った。それはあたしが携え続けた怒りの反対にある。あたしはもっとこうして、もっとはやく、祈っておけばよかったと思った。ヤスさんに、じゃない。世界に怒ってばかりだったあたしが、世界でたったひとり祈りをささげることができる、世界を与えてくれたあのひとに。

 やがて看護師さんがあたしを呼んだ。韓国語は理解できなかったが、申し訳なさそうな表情でだいたいのことは察することができた。むしろ演技であってほしいと思った。彼女に促されて病室のなかに入ると、ましろい部屋のはしっこに安っぽいパイプベッドが一台だけ据え付けられていて、ババアが目を瞑ったまま横たわっていた。

「ちょっと光入れてくれる?」

 あたしがババアに歩み寄ると、ババアは寝てはいなかったのか、流暢な日本語で言った。あたしがクリーム色のカーテンを開くと、北向きだろう病室の窓からは淡い光が差し込んできた。ひかりを浴びたババアはゆっくりと目を開いた。額が汗で濡れ、黒い前髪が張りついていて、こんなときなのにあたしは彼女をとてもエロティックだと思った。

「やっぱり、子ども、ダメだった」

 ババアはまるで感情を含まない口調で言った。苦しそうでも、辛そうでもなく、ひどく淡々とした声色だった。あたしが来るまえ、世界の現実を受け入れてしまったのか、それともすべて割り切ってしまったのか、どちらでもないのだろうと思った。ババアはいつも現実を越えたところにいた。それはこの世界がそうだから、ではなく。

「……あたしのせいかな?」

 あたしの声のほうがずっと乾いていた。ごめん、とそれだけを言いたかったのに、その言葉は重すぎて、どうしても声にならなかった。

「いやいや、喧嘩したとき、ミコは私を一発も殴ってないじゃん」

 ババアは鼻で嗤ってそう言ってくれた。この世界のババアがあたしをミコと呼ぶのを聴くのは二度目だった。そのことだけが嬉しかった。

「……おなかを殴らないよう、手加減してくれたんでしょ? ありがとうね」

 ババアが「ありがとう」と口にするのを、前の世界も含めて、初めて聴いた。そのことは悲しかった。

「ああでも、ミコに『女を捨てた』って言われたのは、めちゃくちゃ効いたな。だって、その通りだったから」

 ババアの顔から皮肉な笑みが消え、真面目な表情に戻ると、きえそうな声で言った。

「私には障害があってね。妊娠しない身体なんだ。だから子どもができたって聴いたとき、馬鹿みたいだけど、ちょっと、いやたぶん、すごく、うれしかった。ぜったい産んで、一生懸命育てようと思った。ちゃんとした家庭をつくろうと思った」

 ババアのその言葉を聴いて、あたしはババアの妹のカンジヨンのことや、彼女が教えてくれたババアの家族の話を思い出した。父親に強姦され、母親に虐待され、妹からは見放され、ババアには家族と呼べる存在がいなかっただろうことを察した。前の世界で、ババアが「ひかりの園」を訪れ、あたしや智子や恵子を引き取ってくれた理由を察した。ババアは、家族が欲しかったんだ。

「私ね、子どもができたら、つけようと思ってた名前があるの。聴いてくれる?」

 ババアはそう言い、うるんだ瞳をあたしに向ける。あたしはババアのふっくらした手を取り、ババアから目をそらさないまま、ゆっくりと、しっかりと頷く。

「――愛子、っていうんだ」

 ババアはぎりぎりの口調でそう言ったあと、堰が切れたかのように号泣した。あたしもババアを抱き締めたまま泣いた。ババアが子どもにつけたかった名前は、美子でも、智子でも、恵子でもなかった。ババアが子どもに求めたのは、美貌でも、智謀でも、恵俊彰でもなく、愛されること、ただそれだけだった。ババアがあたしたちにそれを教えてくれなかったのは、ババアがあたしたちを愛していなかったからじゃなくて、それを教えるべき子は、もういなかったからなんだ。ババアはババアなりに、あたしたちを愛してくれていたことを知った。

「子ども、できるよ、ぜったい」

 あたしはババアのやわらかい身体に抱きついたまま、泣きじゃくりながら言った。

「子どもが、さんにん、できる。世界中の、どんな子よりも強い、誰よりもハイスペックな女の子が、さんにん、できる。ババアは、その子たちに愛されて、誰よりも幸せな人生を、送る。あたしには分かる」

 ババアはあたしの頭をやさしく撫で、笑いながら言った。

「見てきたみたいに言うね。あと、前から思ってたけど、私はババアじゃないよ」

 見てきたもん。知ってるもん。ババアだもん。そんなことを言いたいけれど、言わない。あたしはババアが大好きだから。そんなことを言いたいけれど、言えない。だからババアには、その代わりのことを教えた。

「美貌と、智謀と、恵俊彰のある女の子が、さんにん、できる」

 ババアは涙でぐしゃぐしゃの表情を緩めて、あたしの手を握り、こう尋ねた。

「美貌と智謀は分かるけど、その恵俊彰ってなんなの?」

 あたしもせいいっぱいの笑顔を作って、ババアに教える。

「ホンジャマカの……ツッコミ……」

 こんなときに、なんて馬鹿な話をしているんだろうと思う。

「なんなの、そのホンジャマカって」

 でもこんなときだから、馬鹿な話をしたかった。

「漫才コンビ……」

 だってババアには、幸せでいてほしい。ババアには、怒でも哀でも楽でもなく、喜が似合う。

「おもしろいの?」

 あたしは大きく頷いて、ぶんぶん頭を振って、ババアに見せるべき最高の顔で、言った。

「まいうー!」

 あたしはホンジャマカ石塚の一発ギャグを全力で披露した。まったくウケなかったけど、うれしかった。ババアといると、滑ったことすらうれしかった。テレビでは決して許されない、そんなことが、あたしは女優なのではなく、ババアにウケたいだけの無邪気な女の子なのだと教えていた。演技ではないその姿は、あたしは確かにババアの家族なのだと教えていた。

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