16

 土日が文化祭であったため、続く月曜と火曜は振替休日となった。あたしはババアに殴られた頬がまだ痛かったし、昼ぐらいまで寝ていた。おそばの匂いがして空腹のあまり目を覚ますと、恵子とババアが並んでおそばを食べていておどろいた。

「新人の頃はよかってんけどなー」

 恵子がババアにそう話しかけている。ババアがおそばをすすりながら頷いた。

「分かるよ。新人のときとデビューしてからだと、求められる作品が変わるよね」

 ババアからその返事があった。いったい何だってふたりは日本語で会話をしているのか。恵子はババアが日本語を喋れるってことを知っていたのか。あたしですら、昨日ようやく知ったというのに。

「その点、ちーちゃんはすごいよなあ。『カンチヘ十五歳』なんて大作を書けたらもう、作家としては死んでもええってかんじやろ? うちはまだそんな作品、書けてへん」

 ちーちゃん? 恵子がババアをちーちゃんって呼んだ?

 ババアがくすりと笑う。なんだこのムード。ふつうに仲良しじゃないか?

「『カンチヘ十五歳』なんてビギナーズラックだよ。私は書けることを書いただけだし。書けないことを書こうとしてる、ケイコのほうがすごいと思うよ」

 ババアが恵子を褒めた? あたしはすっかり目が冴えてしまい、横になって寝たフリをしたまま、ふたりの様子を見守った。

 ちゃぶ台のうえにはおそばのお椀がふたつあるほか、原稿用紙の束が見えた。それを読みながら小説の話をしていたらしい。

「ケイコがいま書いてる『神様の葬式』も、ほら、マリアさま役の子が妊娠してるじゃん。それを書くのはチャレンジングだと思う。ケイコは子どもいないわけだし」

 おそばを食べ終えたらしいババアは箸を置き、原稿用紙を数枚手に取ってぱらぱらと捲った。どうやらその原稿は小説版「神様の葬式」らしい。恵子のデビュー作だが、改稿を進めていることは知っていたし、あたしも赤入れしたことはある。その原稿をババアに見せていたことは知らなかった。

「どやろ? やっぱりリアリティ足らへんかな?」

 恵子がババアの手元の原稿用紙を覗き込む。ふたりの距離、なんだか近くない? というかあたしがどうしてそんなことでイライラしているのか分からない。

「ケイコが書きたいのはリアリティじゃなくて、自分の気持ちでしょう? じゃあ、それにもっと忠実になったほうがいいんじゃないかな。たぶんそれは、ケイコにしか書けない作品になると思うから」

 ババアは真摯な口調で言ったあと、しばらく考え込み、ふと思いついたかのように言った。

「そうだ。例えば、マリアさま役の子のお腹にいる、赤ちゃんに障害があるっていう設定にしたらどうかな?」

 それを聴いた恵子は、「ええ!?」と声を荒げる。

「それは無理やわ。むしろそれだけは無理やわ。言うたやん、うち、障害者嫌いやねん。前にも障害者のこと書いたらひどいヘイトの内容になってもて、あやうく文学界隈から干されるとこやってんもん。トラウマやわ。あかん、書かれへん」

 恵子はそう言い、首を横に振った。あたしも当然そのことは知っていた。しかし恵子にとっては恥ずかしい過去なので、三姉妹以外の誰かにその話をしたことはたぶんなかったから、ババアにその話をしていることが不思議でしょうがなかった。

 いや、言うほど不思議だろうか。ババアは三姉妹にとって誰よりも近い存在だってことを、あたしも気づいてるんじゃないか。とっくに気づいてたんじゃないか。

「言われる前から知ってたよ。ケイコは障害者が嫌いだって。だってそれは小説に出てるもん。ケイコのことは、ぜんぶ小説に出てる。不器用なことも、真面目なことも、気配りができることも、口下手なことも、ほんとは優しいことも。だから、嫌いっていう気持ちのことも、ちゃんと小説に書かなきゃダメだよ。そのことでケイコを責める人がいたとして、私だけはケイコの味方だから」

 ババアはそう言い、恵子の手を取った。もしかすると前の世界のババアも、同じことを思っていたりしただろうか。恵子の小説のなかに彼女のことを見つけたりしていただろうか。前の世界では、恵子の小説を一度も褒めなかったババアだけれど、自分だけは恵子の小説の味方だと、そんなことを思っていたりしただろうか。

 恵子がデビューしたさい、掲載された文芸誌をババアはびりびりに破った。選考委員の選評が気に入らないらしかった。当時あたしはそのことが怖いだけだったのに、今になって、ババアが恵子の小説に抱いていたかもしれない気持ちを知った。

「私は、ケイコの小説が好きだよ」

 恵子の耳元でささやくように言った声はよく聴き取れなかったから、もしかすると聞き間違いだったかもしれない。でも、きっとそうなんだろう。たぶんそのこともあたしは、本当は分かってた。

「……そっか、ありがとう。じゃあ、書いてみるわ」

 恵子はそう応えると、恥ずかしそうに頭をぽりぽりと掻き、ペンを執って原稿用紙に向き合った。ババアは恵子の頭をよしよしと撫で、おそばのお椀を片付けたあと、派手な衣装に着替えておそらく風俗へ出かけた。


 あたしはそっと身体を起こし、音を立てないように這って恵子の背後に近づくと、

「なんなん、恵子、ババアとそんなに仲が良かったわけ?」

 と声をかけた。口に出すと、思ったより毒気のある言い方になってしまい、あたしがびっくりした。

「うわ、なんなん、美子、起きてたん? 盗み聴きとか、やらしいわあ」

 振り返った恵子の頬は赤く染まっていた。目元がちょっと潤んでいる。恵子の気持ちは分かるけれど、それは恵子だけのものだったから、そのことには気づかないフリをしてあげた。

「ババアが日本語しゃべれるって知ってたの? いつからよ」

 かんぜんに詰問みたいな口調だった。嫉妬かといえば、違うと思う。あたしはそんなの、認めない。

「図書室でな、鷺沢萠の『葉桜の日』いう本見つけてん。えらい懐かしいなあ、思て。若くして死んでもーた作家やけど、平成三年の今頃は現役バリバリで、たしか芥川賞候補にもなってたはずや。うちも大好きな作家やねん。ほんで、単行本で読むのもええかな、思て、借りようとしたら、貸出カードにババアの名前見つけてな。うわなんや日本語読めるんやん、思てババア捕まえたら、なんや、日本語ペラペラやし、日本の小説好きらしくてな。そんで、鷺沢萠トークが炸裂して、その日は図書室を追い出されるまでずっと話してたと思うわ。それからちょくちょく図書室で会うようになって、好きな本の話とかするようになって、小説も見てもらってんねん」

 先ほどの恥ずかしそうな表情が一転、恵子ははにかみながらも、嬉しそうに語った。恵子とババアにそんな繋がりがあったというのを初めて知った。いやむしろ、あたしだけがババアに特別な感情を抱いていたと思っていたのが勘違いだったのだ。恵子にとっても、ババアは特別な存在であって不思議ではない。そしておそらく、智子にとっても。


「ただいまー。るりらー」

 軽快な音を立てて引戸が開き、智子が入ってきた。買い物に行ってきたのか、大きな紙袋を胸元に抱えている。何を買ったのだろう、智子らしくもなく、異様に上機嫌だ。

「おかえり。智子さん、どこ行ってたん。ていうか、何買ったん? 袋、めっちゃでかいやん」

 恵子が尋ねると、智子は紙袋を畳のうえに置き、

「見る? 見る?」

 と、紙袋を逆さまにして、なかのものを広げた。

「うわ! なんなん、化粧品なんか買ったん?」

 恵子の言葉のとおり、袋から現れたのは、化粧品ばかりだった。化粧下地という基本的なものもあれば、口紅とか、チークとか、マスカラとか、あらゆる化粧品が揃っている。

「ごめん、言っちゃ悪いけど、智子って化粧に興味なくなかった?」

 あたしはおそるおそる尋ねる。あたしの知るかぎり、智子は化粧をしたことなんかなかったし、あたしが持っている化粧品にも興味がなさそうに見えた。いや、むしろ忌避しているようにすら見えた。「美子は素材がいいんだし、そんなに化粧しなくても」と言われたことが何度もある。

「興味なくなんかないよー。わたしは単に、女らしく振舞うのが嫌だったってだけ」

 智子はそう答え、化粧品のひとつひとつを手に取ると、いとおしそうに眺めた。

「いやいや、いま自分で言うてるやん。女らしいのが嫌やったら、化粧するのは変やんか」

 恵子が咎めると、智子は意味ありげに微笑し、

「それがですね。明日、ババアとデートで、花街に行くことになったんですよ。なんか仕事の合間に案内してくれるって言って。で、せっかくだからお洒落をしたほうがいいって言われて、化粧品をババアがオススメしてくれたんだー」

 と応えた。

 驚くというか、ちょっと呆れもした。女らしく振舞わないよう、それなりにポリシーを持っていたのだと思うが、ババアが絡むとこんなに変わってしまうということに。ただ智子は世間知らずで純真なところがあったので、その変化も分からなくはない。女子のなかには付き合うおとこによってファッションが変わる子がいるが、それに近いと思う。

「えー……、智子って、ババアとそんなに仲良かったっけ?」

 あたしが尋ねると、智子はふふんと笑い、

「お、嫉妬ですか?」

 と言った。だいぶイラッとした。こういうタイプは恋をするとほんとうにウザくなる。智子がいま恋をしてるとは思わないけど。

「わたしも負けず嫌いだからさ、学校で付きまとって、勉強のコツとかよく訊いてたんだよね。それがきっかけといえばきっかけかな。でもババア、勉強の話なんかひとつも教えてくれなくて、風俗の話ばっかすんの。こんな客がいたとか、あんな客がいたとか。でも聴いてるうちに、わたしも楽しくなってきちゃって。学校帰りにカフェ寄ることがあるんだけど、もうやらしい話ばっかしてるよ。四十八手とか。聖堂のしたにカトリックのカフェあるでしょ。あそこ追い出されたことあるもん。知ってる? ババア、日本語ペラペラなんだよ。今はもう日本語で会話してるね」

 智子はうれしそうな早口で言った。智子のこんな笑顔を初めて見た。

「ババアがね、わたしのほうが美子より顔が薄いから、化粧映えするよって言ってくれたんだ。いやそれならやってみようかなあ、と思って。聴いてる? 美子。ババアがね、わたしは美子よりきれいになれるって、そう言ったんですよ」

 智子の言葉は軽く聞き流しておく。いつも謙虚で、何においても自信を持てていなかった智子が、こういうふうに成長してくれるのは嬉しかったから。それは、ほんとうに。

「美子、めっちゃ悔しそうやな」

 なのに恵子にそう言われると、むちゃくちゃ腹が立って、思い切り恵子を睨んでしまった。

「おお怖。美子、昔からそうだったよね。ババアが取られそうになると、いっつもそうやって不機嫌になるんだから」

 智子にそう言われた。

「美子、ババア好きすぎやねん」

 恵子が言う。どうしてあたしが弄られる流れなのか。智子も恵子もあたしより口が立つし、反論しても泥沼になりそうなので、あたしは立ち上がり、屋上へ逃げようとした。

「ほら、すぐそうやって逃げる」

 智子の声が追いかけてくる。恵子が笑う。

「美味しいものは早いもの勝ちやねん。うちは、指し箸、寄せ箸、迎え箸、上等やねんから」

 ババアのどこが美味しいものなんだよ、と言い返してやろうかと思ったが、負け惜しみにしかならなさそうなので、止めておいた。あたしは口喧嘩で、智子と恵子には勝てたことがない。


 次の日、朝起きると、智子がババアに化粧をしてもらっている最中だった。ババアの化粧はとても上手くて、たしかにあたしより綺麗になったかもしれないと思うと、悔しかった。どうしてあたしには化粧を教えてくれなかったんだ、と思うと、そのことはもっと悔しかった。ババアに衣装を借りた智子は、胸がぺったんこな点を除けば、誰もが振り返るような美人だった。眼鏡を外すのはまだ抵抗があるようで、かけたままだったが、それすらも色っぽく見えた。

 昼過ぎ、智子とババアは手を繋いで出かけ、夜更け前に智子だけ帰ってきた。智子は花街での体験を興奮しきりで語った。自慢を多分に含んだそれを、あたしと恵子は「はいはい」と受け流したが、やっぱり羨ましかった。


 ババアは朝方には帰ってきて、教会に出かけたのち、帰ると少しだけ昼寝をして、そのあとはマリオカートを遊んだ。四畳半には智子や恵子の寝息と、ババアの持ちキャラのマリオの声だけが響いていた。あたしは何となく眠れなくて、ババアの操作するマリオカートを眺めていた。やっぱりババアはめちゃくちゃ速かった。ババアには話しかけなかったし、ババアもあたしを殴ったことを謝るわけでもなく、気にしているふうでもなさそうで、あの怒ったような表情のまま、暗がりにちらつくブラウン管を見つめていた。喧嘩したとき、ババアは日本語が使えるんだって知った。だから会話をしようと思えばできたのだろうけれど、いまさら何を話していいか分からなかった。前の世界でも、あたしはババアとほとんど会話をしなかった。ババアといる四畳半は、どれだけ沈黙が続いても、まったく息苦しくなかった。

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