15

 舞台が終わるとすぐに、あたしとババアは顔を青くした教師たちに取り囲まれ、裏口からむりやり外に出された。そのまま生活指導室に力ずくで連行されたのち、正座を命じられて厳しい叱責を浴びた。

 あたしは「キスなんかしてない」と言い張った。実際、あたしは棺のなかに横たわっていたわけだから、「キスをしたかどうか分からない」という脚本の意図どおり、決定的場面は客席からは目視できないはずだった。しかし想定以上の観客が体育館に殺到し、二階のベランダの端っこまで客席が広がる形になったため、相当数の観客からは、キスをしている場面がはっきり見られてしまった。

 時代が時代ならスマホで撮られた写真が一瞬のうちに校内中に広まっただろう。しかしあくまで口頭によってのみ広まった噂は、スマホのメール以上の速度で、スマホの写真以上の生々しさで、生徒や教師含め、文化祭に関わるすべての人の知るところとなった。なによりも、キスをされたあとに起き上がってしまったあたしの表情こそ、もっとも饒舌にそのキスがあったのだと証明していた。皮肉にもその表情は、いままでのどんな演技よりもリアルだったんだと思う。もちろんそれは、演技じゃない。

 けれど、今後することになるだろうすべての演技において、その表情は規範となるに違いなかった。あたしはこれから女優として、あの「ババアにキスをされたあとの表情」を追いかけていくだろう。あたしはあたしの人生をたしかに導いてくれるマイルストーンをこの世界に見つけた。いつでも振り返れば色付きで感触ごと思い出せる、たしかな礎だ。

 シスターをはじめとする教師陣はひどく慌て、落胆し、憤ってもいるようだった。カトリックの女子高を象徴するだろう清くあるべき文化祭のラスト、公然とキスシーンが行われたわけだ。「七夕祭」の役割を考えれば、あたしは頭がわるいけど、先生たちの気持ちは分かる。観覧していた父兄から苦情の電話が入っているだろうことも容易に推測できた。でもあたしは、反省しなかったし、キスがあったことを決して認めようとはしなかった。教師たちも直接それを目視したわけじゃない。それに、認めなければあたしはあのキスをババアとふたりじめできる気がして、かたくなに否定し続けた。

 叱られているあいだ、ババアは日本語が分からなかったのか、何も言わなかった。あの怒ったような表情のまま、ふてぶてしく窓の向こうを眺めているババアを見ると、あのキスがなかったことのようで、そのことだけあたしは不満だった。あるいはあたしと同じ気持ちでシラを切ってくれているのか、ババアの気持ちを知りたくてたまらない。キスをした理由を知りたかった。同時に、それはすごく怖いことだったから、いつまでもこのつまらない説教が終わらないでいてほしいと、それだけをつよく願った。

 窓の外が暗くなり、夜が更けた頃、入れ替わり立ち替わりあたしたちを問い詰めていた教師たちもさすがに諦めたのか、「キスをしていないとキリストに誓えば許す」という提案がなされた。生活指導室の壁にはヤスさんが磔にされたちいさな額縁があり、それに向かって誓うことになった。あたしとババアは並んでひざまずき、同時に十字を切ると、目をつむり、手を合わせ、頭を下げた。ヤスさんなんか信じてもいないのに、どうしてかいまさらの罪悪感で胸がいっぱいになった。


 あたしとババアは家までの道を並んで歩いた。暗い砂利道をオレンジ色の灯がほのかに照らし、ふたりぶんの影をうっすらと伸ばす。道沿いには小川があって、その向こうには聖堂のある山があり、どこか秋めいた虫の音が聴こえる。昼間の熱気や湿り気はとっくに去っていて、半袖の腕は肌寒く、夏が遠のいていくのを感じる。

 前の世界で「神様の葬式」を終えたあとと同じ道だった。前の世界でも教師には怒られたし、これほど遅い時間ではなかったが、ヤスさん役の子とふたりだけで帰った。そして帰り道の途中、あたしとその子とは、森のなかで初めてのセックスをしたのだった。

 同じことが起こり得るだろうか。あたしはそのことを考えた。それは心配でも、期待でもなかった。ただの予期だった。なんら恐れることもなく、望むこともなく、ただあるべきことがあるべきように起こることを想像した。ただし、前の世界とは違い、あたしはヤスさん役で、マリア役はババアだった。前の世界のセックスでは、あたしはいわゆる「攻め」だった。その反転が起こり得るだろうか。あたしはババアに襲われることを想像した。前の世界ではこの時点では失われなかった処女膜を、ババアの可愛らしい中指に貫かれることを想像した。

 あたしは韓国語が分からないし、ババアは日本語が分からないから、並んで歩いている間、あたしたちは何もしゃべらなかった。やがて、小川にかかっている小さな赤い橋を見つけた。前の世界では、この橋の奥の森で、あたしはセックスをしたのだった。果たして、ババアは導かれるようにその橋を渡った。あたしも彼女の後ろを続いた。ここまでは、前の世界と同じだった。

 違うのは、前の世界とは違い、森のなかは真っ暗じゃなかったということだ。前の世界では、森のなかは何も見えなくて、手探りのまぐわいは穴を間違えたり強くしすぎたりというひどく不器用なものになった。この世界では、森のなかは、明滅するあおいひかりがあちこちを飛び交っていた。季節外れのホタルだろうか。それとも鬼火だろうか。それはセックスを象徴するものだろうか。それとも死を象徴するものだろうか。

「    」

 それを説明するかのように、ババアはひかりを指差し、なにかを呟いた。あたしは英語が苦手だから、はっきりとは聞き取れなかった。Shineと呟いたようにも、Sinと呟いたようにも聴こえた。だからホタルか鬼火かもわからなかった。セックスをひかりだと言っているのか、死を罪だと言っているのか、それともその反対なのか、分からなかった。だからあたしは、しようと思った。

 気がつくと、あたしはババアを押し倒していた。むしゃぶるようにくちびるを求め、ブラウスをボタンごと剥ぎとり、ブラジャーをめくり、右胸を揉み、左乳首を食んだ。空いているほうの手で股間に触れた。湿り気のある下着をずらし、中指を沈めた。ゆたかな蜜をふくんだ裂孔は中指をずぶずぶと根元まで飲み込んだ。いやになるぐらい熱くて、湿っていて、ここがクソ夏だと思った。

「う、」

 中指を曲げてなかを刺激すると、ババアが呻いた。あたしはそのまま人差し指も滑り込ませようとしたが、ババアが思い切り腕を振り払ったため、側頭部を打たれたあたしはそのまま地面に寝転がった。

 ババアは身体を許してくれるものだと思っていた。でも、ShineだかSinだかに照らされたババアは、はっきりと怯えていた。見たことのないババアの顔を見てあたしは驚いたし、ショックだった。あたしはババアに偏見があったのだと思う。風俗ばかりしているのだから、きっと腰が軽くて、セックスも好きなのだろうと。そうじゃなかった。あたしはババアは強いのだと思っていた。ぜんぜんそうじゃなかった。本当のババアは、むりやりされることを当たり前にこわくていたくてつらくてかなしいと思う、ふつうの女の子だった。そしてあたしはおとこみたいだった。ヤスさん役がマリア役を抱く、そんなことの不道徳さよりも、ただおとこが少女を抱く、そのことだけの不道徳さを思った。

 前の世界のババアもふつうの女の子だったのかもしれない。そのことに気づいたけれど、もう止まれなかった。気づいたところで、ババアがいないいま、今更なのだった。あたしはただ、いま目の前にいるババアに抱きつきたくて、再び彼女を襲おうとした。ババアは悲鳴をあげながら掌底であたしを突いた。顎に思い切り直撃を食らったあたしは、また地面に倒れこんだ。

「……なにが美智恵だよ」

 あたしはよろよろと立ち上がった。頭がぼんやりとして、思考が定まらず、何を言おうとしているのか分からなかった。ただ、なにかひどいことを言ってしまうような、そんな予感だけがあった。

「……美智恵じゃねーじゃねーか。お前は、姜智恵カンチヘじゃねーか」

 ババアの表情から怯えは消え、のっぺりとしていた。その表情をあたしはよく知っていた。おとこに抱かれるとき、きっとババアはその表情をしているのだろうと思った。

「姜の字を捨てて、美を名乗って。なんだそれは。女を捨てて美しくなったとか、そんなことでも言いてーのか。捻れよ」

 あはははは、と、のどの奥からひっくりかえったような笑い声が出た。でも顔は笑っていなくて、ばかばかしいことに、瞳から涙があふれ出た。あたしは、女優がもっともしてはいけないことをしていた。観客を引かせるだけの、どうしようもない、ほんとうのことをあたしは表現していた。ほんとうのことは、矛盾している。あたしはババアが大嫌いなのに、大好きだった。ババアのすべてを否定することはすごく気持ちよくて、それなのに、最悪に悲しかった。

「私は、女なんか、捨ててないー!」

 ババアはそう叫ぶなり、あたしに飛びかかってきた。ほんとうに怒ったときのババアの表情はずっと怖くて、可愛かった。あたしはババア目がけて右ストレートを放った。しかしババアに見事なクロスカウンターを合わされ、あたしはさんたび吹き飛ばされた。

「やっぱ日本語分かるんじゃねーかよ!」

 あたしはすぐさま起き上がり、ババアに立ち向かった。あたしは喧嘩で負けたことが一度もない。中高では不良グループに目をつけられていたこともあり、何度かやりあったことがあるが、複数人相手でも、おとこ相手でも、必ず最後は相手をぶちのめすことができた。演劇でも、殺陣は得意中の得意だった。唯一、智子と恵子とだけは本気でやりあったことはなかったが、他の誰が相手であっても、とりわけ女子との一対一であれば、ぜったいに負けるはずがないと思っていた。

 しかしあたしの攻撃は殴打も蹴りもババアに全てかわされ、逆にババアの攻撃を一方的に浴び続けた。とりわけ速くて重い肘鉄を頬に受けると、口のなかに熱い血の味が溢れるとともに、あたしのなかで何かがキレた。

「……なにが風俗だよ。……つまんねえセックスしてんじゃねえよ」

 あたしはババアを肯定したかった。でも伝えることができたのは、ババアを否定する言葉だけだった。前の世界と同じだった。あたしは前の世界でババアにしたことを後悔していたに違いないのに、同じことを繰り返すしかできなかった。あたしはババアに対し、怒ることしかできなかった。それは世界を何度生まれ変わっても決して変わることのない、あたしがババアに対して抱えている根源的な思いだった。あたしはババアを愛することができなかったから、せめてこの思いのことを、愛と呼びたいと思った。

「ババア! てめーが人生で抱かれたおとこの数なんか、あたしが一晩で越えてやるよ!」

 そう叫ぶと同時に、あたしはババアの強烈なドロップキックでとどめを刺された。意識が飛び、色付きの夢を見た。あたしと智子と恵子とババアが四人で暮らしている夢だった。みんな女子高生の姿だった。みんな処女だった。それなのになぜか子どもがいて、あたしたちはその女の子を「つおいこ」にするため、一生懸命育てた。みんなあいかわらず喧嘩してばかりだったけど、あたしがおしめを替え、智子が哺乳瓶で乳をやり泣きやませ、恵子がいないいないばあで笑わせ、ババアが子守歌をうたって寝かしつけた。赤子を囲み、卍の字を作って、四畳半に四人で寝た。馬鹿みたいだけれど、幸せな夢だった。幸せとは、馬鹿みたいなことだと思った。


 気が付くと、あたしはババアにおんぶされていた。いつ以来だろう、背中は思ったより小さくて、こんな背中で三姉妹を育てたのだと思うと、こんなに近いのに、すごく遠い。ババアは四畳半の床にあたしをそっと寝かせると、ぐずりながら屋上に上がった。そこはババアと喧嘩したときのあたしの逃げ場所だった。そうだ、そこからは京都タワーが見えたはずだ。いまは聖堂の尖塔が見える。おなじ景色をババアは京都に求めたのだろうか。逃げ場所で見ていた、彼女の信じていたもののことを思う。

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