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 文化祭は夏休みが明けて最初の土日に行われる。その年――平成三年は八月三十一日と九月一日だった。土曜日のほうは展示主体なうえ、校内生しか参加できないためさして盛り上がらないが、日曜日は学外にも開放されるので、ちょっとしたお祭りの様相を呈する。

 楚々としたカトリックの女子高という物珍しさも相まって、前売り券による入場制限はあるのだが、近隣の男子高生がとりわけ多く集まる。それを迎える女子生徒はといえば、ふだんの規律から解き放たれ、めったになくおとこと接する気恥ずかしさとか興奮なんかもあり、妙な期待を抱えてこっそり薄化粧をする子もいるのだが、シスターも年に一度のこのときばかりは、と見て見ぬふりをしている。

 あの女子高にとっては大人になるための儀式のようだった。毎年、実際には何も起こらない点も含めて。文化祭を通して、あたしたちはおとことの間に一本の線を引く。その線の意味を言い表すことは難しいが、とにかく男女の分断を象徴する、天の川みたいなものだ。

 だからたいそう季節外れだが、文化祭には「七夕祭」という名前がつけられていたのだろう。


 文化祭の初日、あたしと智子と恵子は待ち合わせをして、一緒に校内を見て回った。お化け屋敷を冷やかしたり、男装カフェを楽しんだり、わたあめを食べながらイラストとかアニメーションとか現代アートなんかで飾られた教室をぶらぶら歩く。

 あたしたちは「ハイスペックシスターズ」なので、三人でいると、あちこちでいろんなサービスをしてもらえるのがうれしい。ちなみに三人とも在学中に女子に告白されたことがある。おとこに一番モテるのはあたしだったが、女子に一番モテるのは智子だった。智子は人見知りなうえ女嫌いなので、かなりこっぴどい振り方をすることが多く、その噂が逆に人気を呼んで、智子に告白するだけで勇者扱いされるという、ちょっとしたカリスマか伝説みたいになっていた。

 前の世界ではそうだった。こうして三人で歩いているだけで、羨望のまなざしを集めるのが心地よかった。今の世界では違う。あたしは、あたしよりも強い女を知っている。

「……ババアってどこで何してるんだろうね」

 昼下がり、ふとした瞬間に呟いてみた。気のないような素振りを装っていたが、あたしはこっそりババアの姿を探していた。こんな文化祭の盛り上がりはババアに似合わない。あのいかめしい表情のまま、どこかにひとり佇んでいるんじゃないか、という不安で胸を詰まらせながら、あたしはババアに会いたいと思っていた。

「あー、ババアっていつも、昼過ぎぐらいまでずっと居眠りしてたんだよね。休み時間も、授業中もそう。先生も何も言わないし」

 ババアと同じクラスの智子がそう教えてくれた。平日の夜、ババアは風俗で働いていて、朝方にようやく帰ってくるのだが、すぐに教会に出かけ、また帰宅後にわずかな仮眠は取るものの、しばらくすると学校へ向かう。あたしの知るかぎり、遅刻したことは一度もなかった。すごい体力だ、と感心していたのだが、やはり疲れがあり、学校で眠ることで帳尻を合わせていたのだと知る。

「ああ見えて意外と不真面目なんやな。今も寝てるんと違うかな。保健室とかで」

 りんごあめを舐めながら、軽い調子で恵子が言った。あたしは素知らぬ顔をして、いったん話を逸らしたが、

「ちょっとトイレ行ってくるから、適当に回ってて」

 と下手な言い訳をし、ふたりから離れた。一段飛ばしで階段を駆け下り、渡り廊下を越えて、校舎の端っこにある保健室の扉を開けた。


 文化祭の日に保健室を使う子もそういないのか、保健室のなかは静かだった。先生も出払っているようだった。あたしは「ハイスペックシスターズ」というだけあって健康だったし、保健室を使ったことはほとんどない。智子や恵子もあたしに負けないぐらいの健康自慢だったので、お見舞いに訪れたこともなかった。利用したのは強いていえば健康診断のときぐらいだろうか。壁に据えつけてある視力検査の機械に覚えがあった。ただし、この世界がほんとうに昭和二十年かそこらであれば、視力検査は機械ではなく、紙によって行うはずだ。

 このように時代が混在していることの矛盾は、なんらかの意思によって恣意的に操作されているかのごとく、すっきりと解決されていた。まるで恵子の書いた小説のようだ、そう思った。人生に矛盾はつきものだし、あたしの人生だってそうだ。でも、あたしの人生をネタにした恵子の小説では、矛盾はアイドルのムダ毛みたいにきちんと取り除かれていた。あたしは恵子の小説にNGを出したことはあまりないけれど、そうじゃないんだよ、と思うことは多々あった。人生はもっと小汚くて、ややこしくて、面倒で、ままならないのだ。それは人生というより、生活と呼んだほうが適切かもしれない。

 この世界には生活感がない。ここに来ておよそ二か月。例えば、あたしには生理が来てないと思う。智子も、恵子もたぶんそうだ。あたしたちは生理は重くないし、不機嫌になったりとか、腹痛や貧血に悩まされることはない。それでも長年連れ添っていれば、生理になったかどうかはふとした変化で感じ取れるものだ。そしておそらくババアも、この世界では生理になってはいない。その理由はあたしたちとは違う。ババアが宿しているその理由にだけ、あたしは生活を感じる。この世界ではババアだけが生活をしている。この世界は何のためにあるんだろう。ずっと問い続けていた問いに、あたしはひとつの答えを見つける。


 保健室の壁際にはしろいベッドが並んでいて、一番端のものにだけ水色のカーテンがかかっていた。あたしは音を立てないようにそっと歩み寄り、しずかにカーテンを開けた。

 ババアは枕に頭を預け、真上を向いて、まっすぐな姿勢のまま眠っていた。布団にもまるで乱れがなかった。胸のうえでしっかり手を組んでいる。あたかも死んでいるかのようで、あたしはそっとババアの口元に耳を近づけてみると、わずかにだが寝息が聴こえたので安心した。あたしの知るババアは寝相がひどく悪くて、あたしや智子や恵子を蹴るなんてしょっちゅうだったし(ドサクサに紛れて蹴り返すこともあった)、いびきや寝言や歯ぎしりもやかましかった(おかげであたしは今はどんな環境でも眠ることができる)。

 あたしの知らないババアの寝顔は、あたしが知らないぐらい可愛かった。怒りのないババアの顔はまさしくマリアのようだ。

 あたしはおそるおそる手を伸ばし、ババアのおなかに触れてみる。そこはたしかに膨らんでいて、たしかな張りと手ごたえがあって、たしかに子どもがいるのだと分かった。

 聖書は、マリアはおとこを知らないと教えている。だとすれば聖書は小説のようだ。矛盾のない小説であり、ムダ毛がなくておしっこしないアイドルであり、イデアであり、愛ではないアイデアだ。

 ババアとは違う。ババアは生活そのものだ。あたしはヤスさんなんて信じてないから、たとえ罰当たりでもこう思う。ババアは、おとこを知っている、本物のマリアだ。


「ねえ、ババア。いいこと考えたんだけど」

 あたしはババアのおなかを触れたまま、そう語りかけてみた。

「『神様の葬式』の最後の場面、あるじゃん。ヤスさんが死んで、葬式があって、十二使徒に見送られて、それから十字架に打ち付けられたマリアとふたりきりになったあとのまっしろい聖堂。あたしたちが一度も練習してない、まだ誰も見たことのない、ラストシーン。あたしと、智子と、恵子と、それからババア。みんなが作り上げた名作『神様の葬式』を終えるための、感動的なフィナーレ。マリアに雷が落ちて、復活して、棺のなかのヤスさんにキスする。それと同時に幕が落ちる、たぶんものすごい拍手に包まれると思う、あの場面」

 あたしの手はいつのまにかババアのおなかをなでるように動く。そこに子どもがいるからじゃない。そこに子どもがいるべき行為があったから。いくつもの深い暗い夜を越え、怒り、泣き、笑い、ここまで来てくれたババアを。よくここまで来たね、と慰めるように、あたしは語りかける。

「最後の場面。マリアとヤスさんはキスをする。ヤスさんは棺のなかにいるから、本当にキスしてるかどうかは客席からは見えない。そして、実際には、キスなんかしない。それが、恵子の書いた脚本。『神様の葬式』のエンディングを観客の想像力に預ける、恵子らしいよくできた、みんなのための脚本」

 あたしはその場面のことを考えている。いまはまだ、観客どころか、あたしも、ババアも、恵子も、智子も、知らないそのエンディングのことを考える。どういうふうにするべきか、それを考え思い悩むのは、女優の仕事であり、本分だ。それは優れた、広がりのある脚本のなかで自由に選ばれ、試され、遊ばれ、テキストとしての脚本に本来なかった溌剌とした魅力やおもしろさをもたらす。が、女優が女優であるかぎり、脚本の範囲を越えることは決してない。仕事とは、人間同士の信頼と尊敬によって成り立っているからだ。だからあたしがババアにした提案は、仕事の範囲を越え、女優であることを辞め、信頼とか尊敬を裏切り、すなわち人生において許されるべきでない過ちへと誘うものだったんだと思う。

 でもあたしはこうも思う。それこそをひとは、愛と呼ぶのではないか、と。

「最後の場面を、あたしたちふたりだけのものにしたら、どうかな。いいよ、あたしは。ババアになら。ほんとうにキスをされても」

 初めてをあげられなくてごめんね。そんなことを思うと、顔が燃えるように熱くなり、あたしは立ち上がってババアのそばを離れた。初めてをもらえなくて残念だ、とも思った。廊下を飛ぶように走った。告白をされても、告白をしても、こんなに恥ずかしいと思ったことはなかった。そのときあたしは初めて、ババアに対する気持ちに気づいた。

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