12

 文化祭二日目は、文化祭が一番盛り上がる日であり、同時に高校一年間の山場でもある。とりわけ三年生はこの祭りが終わると受験勉強に入るため、高校生活で最高で最後の思い出を残す場所として、みんなテンションが高い。「二日目がいちばん重い」という言葉が冗談交じりに、半ば本気で囁かれた。ちょうど生理のように、その日にセックスをしないことは、あの女子高では誰もはっきりとは言葉にしない掟のようなものだった。毎年その日はひどく暑くなる。盆地特有のむしむしした熱気が地面から立ちのぼり、まだ青くさい太腿をじわりと湿らせる。汗でぐしょぐしょになった下着をあたしたちは脱いだりしない。あたしたちは濡れたまま大人になる。しなかったという後悔をクソ夏の思い出として疼かせて。あたしは「やらなかった後悔よりやった後悔」という言葉が嫌いだ。女子高の子はみんなそうだろう。あたしたちにとって、処女なんか特別なことではぜんぜんなくて、だからマリアなんか誰も信じちゃいなかった。どうせやったんだろ。言葉にしなくても、たぶんみんなが思ってた。あたしたちにとって大切なのは、処女でもなければセックスでもない。三度目の七夕祭が終われば、あたしたちは大切なものを天の川の向こうへ置き去りにする。二度とは戻れないクソ夏に託す。例えるならそれは生理ナプキンに似ている。その夏みたいな匂いを、おとこは知らない。赤ちゃんのいないおなかからは夏の匂いがすることを、おとこは絶対に知らない。


 みんな文化祭最終日に賭ける思いが強いため、前日夜は遅くまで準備する生徒が多いし、この日だけは学校に泊り込むのも許されている。これが文化祭の醍醐味でもあるので、演劇部の準備はほとんど終わっていたのだが、みんなで部室代わりの図工室に泊ることになった。いまさら演劇の練習をすることもなく、部屋を暗くし、声を潜めて取り止めのないおしゃべりをする。ババアの声は聴こえなくて、気配もあるのかないのか分からなかった。

 窓の向こうには、遠くに聖堂の尖塔がかがやいていた。前の世界では「神様の葬式」に出てくるものとよく似ていた聖堂。今の世界では「神様の葬式」と同じように落雷で燃え落ちる聖堂。ふたつの世界にまたがるそれは、ふたつの世界を分断する矛盾の象徴であるかのようだ。だとすればそれを解決すれば、あたしたちは元の世界に戻れるのだろうか。解決しなければ、あたしはこの世界に留まることができるのだろうか。

 答えが見つかってもいないのに、その答え方を悩んでいるうち、あたしはいつの間にか眠ってしまっていた。図工室の床はとても堅くて、あの四畳半の畳を懐かしく思った。あたしはいつでもどこでも、誰とでも、寝ることができる。だからこそ、それを選ぶということに、ちゃんと意味が与えられるんだ。


 まだ外がうすら暗い時間に目を覚ますと、他のみんなも起きていて、きゃいきゃい騒ぎながら化粧を整えたり、衣装を合わせたりしていた。あたしも軽く顔を洗うと、消えモノ担当の一年生が買い置きしておいてくれたジャムパンで小腹を満たし、かんたんに化粧を施した。「神様の葬式」は体育館で開かれる演目のうち最後の枠が割り当てられているので、しばらくは暇になる。直前の稽古や台詞合わせをしている子もいるが、あたしはしない。

 いまさら台詞や動きを忘れるほどやわな稽古をしてきたわけじゃないし、それに稽古はやればやるほどいいというものでもない。あまり型に当てはめすぎると、予定調和になり、ふとした変化に対応できなくなる。よくいわれるように、舞台は生ものなのだ。もっとも女優として売れてからそう思うようになったのだけれど、直前にするべきなのは、最低限の発声練習やストレッチのほか、「ひとりでいる時間」を持つことだと思っている。この時間は「自分がなんのために舞台に立つのかを確認する時間」だ。そのときどきによって理由は変わるし、動機の強さやベクトルも変わるし、時間を追っても変化する。間違いなくいえるのは、それがはっきり分かっている舞台はタフだ。残念ながら最後までそれを見つけられない舞台もあったし、最初からそれが分かっていた舞台もあった。この日は後者だった。今までのいつよりも明確だった。初めから当たり前に分かっていたそれを見失わないよう、あたしはひとりだけの空間と時間に自分を置いた。


 十時過ぎに一般客の入場が始まり、校舎内に男子高生の姿が増え、いつになく華やいだ雰囲気が満ち始めた。あたしはそこからは距離を取りたくて、ひとりになれる場所を探しているうち、屋上に通じる階段へと行きついた。扉は施錠されているため、屋上には出られないと知っていた。なんとはなしに扉のノブを捻ってみると、魔法のように簡単に開いて驚いた。階下から男子高生の下品な笑い声が聴こえたので、あたしは逃げるように身体を滑りこませ、屋上に出た。

 前の世界でも今の世界でも、学校の屋上に立ったことはなかった。屋上というのは小説や漫画の学園モノによく出てくる象徴的なモチーフであるが、主に安全上の理由のため、実際の学校で出られるところはあまりないだろう。それがリアリティだ。

 屋上に立っていると、あたかも自分が小説や漫画の主人公になったかのようだ。それはここが転移先の世界だから許されていることなのか、この世界で抽象されているものはなんなのか、どうでもよくなるぐらい屋上に吹く風は気持ちよかった。この屋上では夏はとっくに去ったかのようで、からっとした涼しい風が身体の熱をさらってくれる。背伸びとともに見上げると雲は少なくて、一面に青色の絵の具をこぼしたような空が広がっていた。夏が終わると、季節はほんとうに秋なんだろうか。あたしはそんなことを思う。夏と秋の間にはもうひとつ季節がある気がする。青春によく似た、春からはもっとも遠い、恋をするための季節が。

 屋上の端、手すりに身体を預けている背中には見覚えがあった。背中ですら可愛いと思った。彼女もまた、演技をするまえに、ひとりでいる時間が必要だったのだろうか。逆なんじゃないだろうか、そんなことを思う。話しかけてみたかったけれど、言葉が分からないから、話しかけなかった。それなのに、背中を見ているだけで、あたしはひとりじゃないのだと感じることができた。舞台に立つ理由がはっきりと分かった。それは演技をする理由とはまったく違った。ひとりじゃないのに舞台に立つのは初めてだった。演技はひとりだけではできないものなのだと知った。ひとりではひとりになれない。もしも彼女が同じ矛盾を抱えてくれるなら、あたしは「神様の葬式」の成功を確信するだろう。成功と同じ音を持つ熟語のことを考える。遅れてきた二日目はもうすぐ終わり、してはいけないことが始まる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る