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 演劇の練習をしているうち、夏休みはあっという間に過ぎていった。智子が夜を徹して雷を発生させる装置を完成させてくれた。恵子は脚本の細部にこだわってブラッシュアップを繰り返した。智子が作ったものも、恵子が作ったものも、前の世界のそれよりずっと優れているように感じられた。そしておそらく、あたしの演技も。

 ババアには日本語が通じないし、ババアの韓国語は分からないし、あたしはババアと何かを話すことはなかった。演技を通じてのみあたしはババアと語り合った。舞台のうえで、あたしはヤスさんで、ババアはマリアだった。あたしは舞台のうえでだけ、マリアに親しみ、マリアに甘え、ときにマリアを疎ましくも思い、マリアを求め、たぶん愛し、そしてマリアの死を嘆き悲しんだ。

 あたしは恋愛ドラマこそ得意だったが、親子関係を演じる子役なんかではまるでいい演技ができず、女優として花開くのは二十歳も半ばに近づいてからだ。あたしは親を思う子がどう動けばいいのか、理屈では分かっても、感覚としてはまるで分からなかった。いまあたしはようやく、親を思う子が、母を思う子がどうあるべきなのか、身体で理解し、自然に動くことができた。観るひとはそれを「まるで演技じゃないみたいだ」と評してくれた。でもあたしがそのように動けるのは舞台のうえだけだったから、演技であることは分かっていて、でも女優にとって大事なのは舞台のうえだけだったから、それでよかった。

 恋愛ドラマの共演者を喰うことで有名だったあたしは、脚本と現実とを混同しすぎだと叱られたことが何度もある。そんな不埒な面を今こそ発揮すればよかったのに、あたしはやっぱりババアの前では、「ヤスさん」を装ってしまうのだった。そしてあたしの前ではババアは常に「マリア」で、演技はますます素晴らしく、舞台の「ヤスさん」に無上の愛を注いでくれた。それはとても痛くて、でも泣いてしまえば観客が引いてしまうだけだから、あたしは女優として涙を堪えた。女優であることが苦しかったのは初めてだった。


 盆が過ぎ、夏休みが終わりに近づくと、演劇の練習が落ち着いた合間を縫って智子が模試を受けた。智子が数学で満点を取り、初めてババアに勝ったのだとあたしに自慢をしてきた。舞台装置の設計で忙しかったのにすごいなあ、と思って成績表を見ると、数学は確かに満点だったが、ほかの科目は見たこともないぐらいのひどい出来で、智子がババアに勝つため数学だけに注力したのだと分かり、苦笑した。でもババアが悔しそうにしているのを初めて見れたから、それはよかった。

 恵子は「神様の葬式」の小説版を何度も手直しし、あたしに校正を頼んだ。あたしも細かいところまで熱心に赤入れをした。「神様の葬式」のモデルは、元々はあたしだったはずだ。でも恵子が書き直したそれのモデルはあたしじゃないことは明らかだった。あたしがモデルのものよりずっと良くて、今度はあたしが悔しかった。でも、恵子が初めて書く「あたしをモデルにしない」小説がいいものになれば恵子の成長を示しているのだと分かったから、嬉しかった。

 智子も、恵子も、成長していた。たぶん、あたしも。それぞれがそれぞれのやり方で、ババアを越えようとしていた。


 マリオカートでだけは誰もババアに勝てなかった。ババアは飛び切り速く、あたしも、智子も、恵子も、少なくともマリオカートでだけは、誰もババアに追いつけそうになかった。

 あいかわらず、ババアは夜になると派手な服に着替えて風俗に行く。ババアが着替えているとき、わずかに張ったお腹が見えた。それはやはり、とても美しくて、彼女は舞台を降りてもマリアなんだと思うと、初めて祈りたくなった。

 もしもたったひとつだけ願いが叶うなら、あたしは「つおいこ」が産まれてほしい。

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