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 高校はほんとうに、覚えてるかぎり、あたしが京都で過ごした場所そのままだった。高校三年生の七月、生徒のほとんどは大学に進学するため、教室内には独特の緊張が張り詰めていて、なつかしかった。大学に進む気のなかったあたしがなんとなく阻害されていたところまで同じだった。あたしは高校では、誰とでも分け隔てなく仲良くできたかわり、これといって仲の良い友だちはいなかった。だから誰がどういう子であったか、あまりはっきりとは覚えていなかったのだけれど、おそらくあの頃のように、休み時間なんかは違和感なく会話できた。

 いつの間にか手にしていたトートバッグのなかには、見覚えのある教科書のほか、一澤帆布のパチモンの長財布とか、ようじやの赤い手鏡とか、あの頃使っていたものが入っていた。化学の教科書のアボガドロの肖像画に書かれた落書きもそのまま残っていた。授業では、あの頃のように、現代文も数学も英語も、さっぱり分からなかった。ただあの頃とは違って、あたしは英語の授業のときだけ、昔よりも真面目に教科書を追い、先生の話を理解しようとした。ババアが英語しか話さなかったからだ。そうなってしまったのは世界を転移したことによる歪みなのか、分からなかったが、とにかくこの世界でババアと会話するには英語を理解できないといけない気がして、ちょっとだけがんばってみた。それとも、あたしが本当に理解したかったのは、英語だったんだろうか?

 立派な噴水のある中庭のそばには、購買があり、昼休みにはカトリック系のパン屋さんが出張してきて、イタリア風味の凝ったパンを出してくれる。一番人気なのはフォカッチャで、運が悪ければ安っぽいロゼッタしか買えない。あたしは昔と同じく小銭を握りしめて行列に並んだ。二階の渡り廊下には、智子とババアの姿が見えた。手すりに身を乗り出し、なにかを会話しているようだった。二階には二年生の教室があるため、ババアもこの世界では智子と同じ二年生なのだろう。遠すぎてふたりの表情までは窺えなかった。パンを買うとすぐにその渡り廊下まで走ったが、智子とババアはすでにいなかった。あたしは彼女たちが見ていたものと同じ景色に向かい、イースターのパンとして有名なコロンバをかじった。やっぱり、あられ糖が飛び切り甘かった。校舎のずっと向こうにはこんもりした山と、そこから突き出した聖堂の二本の塔がちいさく見えた。それは京都では見えなかった。じゃああたしはあの頃、何を見ていたのだろう? それを思い出そうとしたけど、思い出せなくて、少なくともそれはこの世界にはないのだと知った。


「ただいまー」

 学校から帰るなり、あの四畳半の引戸を開けると、昔と同じように声をかけてみた。

「わっ、びっくりした!」

 薄暗い部屋のなか、智子が壁に背中を預けたまま考え事をしていて、驚いた。高校のとき、あたしは部活のある日以外はいつもすることがなかったので、授業後のそうじとホームルームが終わればすぐに帰宅していた。恵子は図書室に寄って帰ることが多く、あたしのちょっと後ぐらいに帰ってくる。智子はいつもなら進路指導室で勉強してから帰るため、あたしたちよりずっと遅かったはずだ。

 ちなみに水曜日だけは演劇部の活動があり、三姉妹とも演劇部員であったため、部活に出たあと一緒に帰る。演劇部はなにか大会を目指しているわけではないし、年に一回、夏休み明けに行われる文化祭の劇にだけ力を注ぐという、極めてゆるい部活だ。部活のあとにコンビニスイーツを買い食いするのが一番の楽しみだった。そのぶん文化祭の劇には本気で向き合うので、夏休みの練習はかなり苛烈になる。しかしそれ以外の十一か月は、週に一回だけ簡単な声出しや稽古をするぐらいの、のんびりした部活を謳歌していたのであった。

「座敷童かと思ったじゃん。電気、点けなよ」

 あたしはそう声をかけ、電灯のひもを引いた。豆球があたたかいオレンジ色で和室を照らす。

「……座敷童か。いや、違うな」

 智子は眼鏡に手を添えたままぶつぶつと呟いている。知的探求心の旺盛な彼女のことだ。ババアやこの世界のことを分析していたのだと察する。

 三和土に降りてサッシ戸を開けると、隣の家の壁と、山手の石垣とのあいだにわずかな廊下があり、そこがうちのキッチンになっていた。その奥まで歩けばトイレとお風呂。ほんとうに、あたしが過ごした京都の家とそっくりで、ドキリとする。冷蔵庫を開けると麦茶がぎっしり詰まっていたのも同じだった。夏が近づくとババアはこうして麦茶を大量生産する。

「ババアのこと、考えてたんでしょ? 見たよ、渡り廊下でババアと話してたの。何か分かった?」

 あたしはそう尋ね、コップに入れた麦茶を智子に渡そうとした。昔使っていた、テレタビーズのグラスがここの戸棚にもちゃんと入っていた。あたしはラーラの黄色グラス、智子はディプシーの緑色グラス、恵子はポーの赤色グラス、ババアはティンキーウィンキーの紫色グラスだった。このグラスを間違えるとババアに怒鳴られた。あの頃はめちゃくちゃ怖かったのに、いま思えば何てくだらないんだろうと笑ってしまう。いや、いま思うなら、あの頃ババアが怒っていたことなんて、ぜんぶそんなものだったのかもしれない。

 智子がグラスを受け取ろうとしないので、あたしは彼女の足元に置いてやった。グラスのなかで氷がかららんと弾ける。あたしは智子と向かい合うような形でちゃぶ台前に正座すると、麦茶をのどに流し込んだ。どの世界でも、こんなクソ夏に飲む麦茶は最高だ。身体の芯から冷たさが染み渡ってくる、この快感を越える快感をあたしは知らないかもしれない。首筋をすっと流れる汗のぞくりとするような感触も。

「ババアは確かに存在する。いや、実在する。ババアはやっぱり、自分のことを話そうとはしなかった。だから分かる。美子にも、恵子ちゃんにも分かると思う。あれは、ババアだ」

 智子は重々しい口調で言った。たぶんそのことにはあたしが、誰よりも先に気づいてたし、誰よりもはっきり分かってると思う。智子はいつもその賢さのぶんだけ回り道をする。石橋を叩いて渡るタイプなのだ。あたしは石橋は叩かずに渡る。恵子は石橋を叩かずに渡らない。恵子がそれを分かるのは、もう少し後かもしれない。

「なんでこの世界のババアは英語しか話さないんだろうね。やっぱりそのことも、前の世界と繋がってるのかな。あたし、ババアがいつも話してたことって、英語みたいって思ったことあるよ」

 あたしは智子にそう教えてみた。ババアの言葉、特に怒っていたそれはいつも理不尽で、いつも意味が分からなかった。そして怒っていないときの言葉も、そんなことはほとんどなかったが、やはり意味を分かりかねた。今しがた智子が言ったとおりだ。ババアはいつも、自分のことを話そうとは決してしなかった。だからあたしたちは、ババアのことを全く分からないままだ。


「あっつー! たまらんわ!」

 引戸が勢いよく開き、そう声を張り上げて、恵子が入ってきた。学校指定の革靴を玄関に脱ぎ散らかすと、畳に上がり、スカートを下品にもバタバタと仰ぐ。それから智子の足元にある麦茶を見つけると、

「あっ、麦茶やん。智子さん、気が利くなっ」

 と言い、智子が止める間もなく麦茶を奪い取り、「あーっ」とおっさんみたいな声を上げて一気飲みした。

「は、死んだらええねん! それディプシーのグラスやんか!」

 智子がはっと我に返っていきり立つが、恵子は素知らぬフリで、

「めっちゃ汗かいてんけど。着替えある?」

 と呟き、四畳半に置かれた箪笥を検めはじめた。京都の四畳半にはなかった、この世界にだけあるもののうちのひとつである。しっかりした木製で、ニスがてらてら光っている。鉄のようなものでできた黒塗りの取っ手が派手な紋様で装飾されている。どこか古さを感じるデザインのそれは、昭和初期のものだろうか。ババアがかつて持っていたものであり、ババアの私物が入っているのではないかと察せられた。

「うわ、なんやこれ!」

 恵子は箪笥の引き出しを次々に開けながら素っ頓狂な声で叫んだ。振り返ると、引き出しから衣服を出している最中だった。やはりあたしのものでも智子のものでも恵子のものでもない、見たこともない服だったので、ババアの服なのだろうと思われた。ヴィヴィッドな赤や紫を基調としたそれらはひどく派手で、色使いも露出も品の無さを感じる。やがて下着も出てきたが、それはもっとひどかった。

「なんや、水商売の服やんけ。こんなん、よう着られへんわ」

 恵子はからから笑いながら、いちばん下の引き出しを開けた。瞬間、恵子の動きが固まるのが分かった。恵子は急に口をつぐんでへたりこみ、先ほどまでとは違う慎重なしぐさで、その引き出しに入っているものを整理しはじめた。

「ちょっと、なんか言いなよ。へんなものでも見つかったの?」

 智子もあたしと同じように目ざとく恵子の様子をいぶかしんだようで、恵子に歩み寄り、箪笥の一番下の引き出しをのぞきこんだ。あたしも彼女のあとを追いかけて、何が入っているのかを目視した。


「――うわ、なんなん、これ」

 なんのものか分からない、しかし懐かしい匂いがぷんと香る。それは強いていえば、幼稚園か小学生の頃の、「おどうぐばこ」の匂いによく似ていた。文房具や工作に使うさまざまな小道具の匂いが混じりあったそれを、あたしは好きだった。それは「なにかをつくる」原風景にあった匂いで、その延長線上にあたしの女優活動はあったし、智子の電子設計も、恵子の執筆も、この匂いに繋がっているはずだ。「おどうぐばこ」を開けたときのわくわくする感覚を思い出した。そしてそれと同じものを、ババアも大切にしまっていたのだと知った。

 その引き出しには、文房具がぎっしり詰まっていた。鉛筆や、万年筆、インキ、物差し、それから大量の原稿用紙。インキはちんまりした小瓶が十本近く入っていたけれど、どれも黒色だったので、主に文章を書くために使われているのだろうと思われた。

「この万年筆、ペリカンのシュトレーゼマンのプロトタイプや。アンティーク文房具のマニアの間では有名で、いまめっちゃプレミアついてるやつやで。本物は初めてみた。ペン先がちょっと痛んでるな。でもこれそうとう丁寧に手入れされてんで。……どんだけ文字を書いたらこんなになんねやろ」

 いつも粗雑だった恵子が、いまはスカートの裾に万年筆を丁寧にくるみ、あたしたちに見せたあと、慎重な手つきで引き出しに戻した。いつくしむような目線で引き出しのなかの文房具を眺めている。物書きとしての矜持を刺激されたのだろうか。恵子をうならせるぐらい文房具を大切に扱っていたババアも、なにかを書いていたのだろうか。原稿用紙は数百枚あったが、どれも白紙だった。

「一枚目からしてあまりに白すぎるな。箪笥に眠らせてるんじゃなくて、ふだんから何か書いてたんじゃないか?」

 智子が原稿用紙を手に取り、そう分析した。その言葉を合図に、あたしたちはババアが何かを書いた原稿用紙が見つからないか、探索を始めた。

 おそらくあたしたちは同じように、この世界にあたしたちが転移した理由を探そうと思っていた。それは等しく、ババアを理解することと等しいんだって、あたしたちはみんな分かっていた。始まりにはババアの葬式があった。であれば、終わりもまたババアの葬式であるはずだ。つまりこの世界で起こっていることは、ババアの葬式そのものであり、この世界であたしたちがすることは、ババアを見送ることとも同じだ。あたしたちは、ババアなんか大嫌いだったのに、いつの間にかババアの葬式や、死と、生、彼女の人生そのものに向き合おうとしていた。


 恵子は箪笥の上の段に戻って衣服のなかに原稿用紙が紛れてないか再確認を始めた。智子はテレビ台の下あたりを探った。あたしは隣の箪笥を下から順々に開けていった。隣の箪笥に入っているのもほとんどが衣服で、やはり派手で品のないものばかりだった。化粧品のようなものも見つかったが、おしろいのほかは色がどぎつく、匂いも強かった。一番上の段はふたつに分かれていて、片方は何も入っておらず、もう片方には鍵が掛かっていた。

「ちょっと、智子、恵子。見てみて、ここじゃない? なんか鍵がかかってるよ」

 そう声をかけると、智子と恵子が駆け寄ってきた。

「めちゃくちゃあやしいな。ダイヤル式の鍵か。四桁の数字を入れるやつやな」

 恵子がいうと、智子が即座に、

「つおいこ、か」

 と応じた。

 あたしは智子と恵子の覚悟を確認するように目線で合図をしたあと、ゆっくりと数字を「2015」に合わせた。息もひそめた静かな部屋に、かちゃり、という硬質的な音が響いた。


「開いた! 開いた!」

 焦って中身を取り出そうとする智子と恵子を制し、あたしは慎重に引き出しを開けた。箪笥は背が高いため、一番うえの段に何が入っているかは見えなかった。背伸びをして、そっと両手を差し込むと、予想通り、原稿用紙の束の感触があった。おもったより枚数が多いのか、ずしりとしている。しっかりと手を添えて、ちゃぶ台の上まで運んだ。智子と恵子が落ち着かない様子でちゃぶ台を囲み、正座のまま上半身を傾けて原稿用紙を覗き込んだ。

「……なんて書いてあるか、全然分からへん」

 恵子がまずそうコメントした。

 原稿用紙はずいぶん古いのか、端が茶色く焼けたうえに撚れている。黒ペンによる手書きで、ところどころ赤字での修正コメントのようなものが入っていた。

「これ、ハングル文字やんな。でもたぶん、プロの校正が入ったやつちゃうかな。校正の入れ方が日本のと似てる。あと、ペン書きってことは、ほぼ最終稿なんやろか」

 恵子は誰に尋ねるともなく、そう呟いた。恵子の言ったとおり、原稿用紙一面に書かれているのは、ハングルだった。あたしには一文字も読めなかったし、どうしてババアがこれを書いたのかも分からなかった。それなのに、これをババアが書いたという一点においてだけは確信があった。筆跡がよく似ている。たとえば、ピリオドを打つとき、点を打つのではなく、左下から右上に短い線を引く。これを仮にババアが書いたとしても六十年近く前だろうし、いろいろ変わったに違いないし、根拠としても薄弱なのに、あたしは「ピリオドの打ち方」それひとつにおいてのみ、それがババアによるものだと信じた。だってあたしは、ババアが人生においてどう「ピリオドを打ったか」を知っている。それはきっと変わらなかっただろうと、あたしは人生を通じて一貫していたババアの恐ろしさを根拠として、あたしの知るババアと繋がっているこの世界のババアを信じた。

「智子さん、確か一時期、プサンにいたときあったやんな? ハングル文字読めるやろ。ちょう、翻訳してや」

 恵子が横をむいて智子を頼んだ。

「……プサンじゃなくて、ソウルね。数ヶ月だけだったし、会話はほとんど英語だったから、分かんないな。あと、ハングル文字じゃなくて、ハングルね。グルは文字って意味だし」

 智子はぶつぶつ文句を言いながら、しかし真剣な顔つきに変わり、眼鏡をなおすと、ひとさしゆびを伸ばして一文字一文字を確認した。

「……たぶん最初の行にあるこれがタイトルだよね。その次が著者名かな。あ、タイトルのなかに著者名が入ってる。私小説なのかな。著者名は……カン……チ……ヘ……。たぶんカンチヘ。でタイトルが……カンチヘ……ヨル……ああこれ、数字か。カンチヘ……十……五……歳。うん、著者名が『カンチヘ』で、タイトルが『カンチヘ十五歳』だ」

 それを聴いた瞬間、恵子が飛び上がるようにして立ち上がった。

「なんやて!? 『カンチヘ十五歳』やて!?」

 興奮のあまり、恵子の声が上ずっていた。顔を見上げると、恵子の頬が紅潮し、大きく見開かれた目には、いつもの好奇心とよく似た、少なくとも同じものに由来する、怯えのようなものが現れていた。

「なに、知ってるの? 恵子ちゃん」

 智子も戸惑った様子だったが、冷静な口調を整えて尋ねると、恵子は智子の目を覗き込み、まくしたてるように言った。

「知らんの!? 智子さん! ああそうか、時代的に、日本では広まってへん作品やもんな。1950年代の、韓国文学のいにしえの名作や! カンチヘいう作家が書いた私小説でな、戦後を生きる少女が、売春をやって生活を立てていく、フェミニズム文学の走りにして、完成形や! 日本でも翻訳本が出てたけど、小さな出版社やし、戦後の混乱もあって初版で打ち切りになったし、ほぼ出回ってへん。でも戦後の韓国文学を語るうえでは避けて通れへん金字塔やし、アジアのフェミニズム文学を書く作家は、みんな『カンチヘ十五歳』に倣い、追いつけ追いこせって書いてきたんや。うちかてそうやで」

 あたしと智子は目を白黒させて顔を見合わせた。あたしは「カンチヘ十五歳」なんて作品を知らないし、智子だってそうだろう。何よりも、その手書きの原稿がここにあるということがいったい何を示すのか、まったく分からなかった。

「ちょっと紙とペン貸して! カンチヘいうんは、こう書くねん!」

 恵子に追い立てられるまま、あたしは箪笥の下の段から原稿用紙一枚と、できるだけ擦り切れていない鉛筆を取り出し、恵子に渡した。恵子は苛立たし気に髪をがしがしと掻いたあと、原稿用紙の罫線を無視して、大きくこう書いた。


〈姜智恵〉


 それを見たしゅんかん、全身に寒気が走るのが分かった。智子も同じことを感じ取ったのだと、ぶるっと身震いするのを見て知った。恵子は鉛筆を取り落とした。原稿用紙のうえを三角形をした鉛筆がころころ転がり、止まった。

 誰も何も言わなかったけれど、誰もが同じことを考えているのが分かった。カンチヘは、姜智恵は、――美智恵じゃないか。ババアだ。これはババアが書いた小説だと、そういうことにすれば多くが説明づけられる気がしたけれど、私小説だとすれば同じぐらいの説明づけられないことを背負っている気がして、あたしたちは混乱した。

 いつかの「ひかりの園」を思い出した。あのときババアが喋っていた、「ひかりの子どもたち」が喋っていた理解のできない言葉は、もしかすると韓国語だったのではなかったか。少なくともひとつの確実な事実、それはつまり、ババアは韓国人だった、ということだ。そして「ひかりの子どもたち」であるあたしたちも、おそらく韓国人だった。


 大きく音を立てて引戸が開いた。びくっとして振り返ると、そこにはババアが立っていた。相変わらず見たこともないぐらい可愛い顔をした彼女は、しかし表情をよく見れば、あのババアと同じような怒りを宿しているように見えた。ババアの怒りはいつも理不尽に感じられた。だが今になって、若い頃のババアと向かい合ってみれば、その怒りにも根拠があったのだと察せられた。おそらく彼女にもどうしようもないぐらい、明確で揺るぎない根拠が。

 ババアはあたしたちが原稿を盗み読んでいることに気づいたようだったが、我関せずといった具合に顔を逸らしたあと、しかしあの怒った表情であたしたちの傍を通りすぎ、箪笥の引き出しを開けてそこから真っ赤なワンピースと、紫色の透けたレースがなまめかしい下着を取り出して床に並べた。それからババアはスカートのホックを緩めた。スカートがましろい足を滑りおち、うつくしい流線形をした生足が露わとなった。ババアはブラウスをはだけ、ブラジャーを外した。決して大きくはない、しかしよく張った形のよい乳房が現れた。ババアは器用に足を持ち上げ、下着を抜き取った。毛は剃っているのだろうか、太腿の奥にうかがえる、ゆたかな肉感から目が離せなかった。

 ババアの裸は、昔から何度も見たことがある。たとえばふと風呂上りのそれを見たとき、あたしたちは「最悪、寿命が一年縮んだ」と、ババアには聴こえないようにして気持ち悪さを訴えた。実際、気持ち悪かったし、あたしの知るババアの裸は何よりも醜かった。なのに、いま目の前にあるババアの裸は、それとは真逆だった。あたしはそれほどうつくしい裸を見たことがなかった。

 ババアは先ほどよりずっと派手な下着を着用し、赤いワンピースを着ると、箪笥から小さな鏡台とおしろいなどを取り出し、化粧を整え始めた。可愛らしかったババアの顔付きが一気に大人びていく。あたしもテレビに出演するとき、メイクさんに化粧してもらうことはあるが、誰の手付きよりもババアのそれは素早く、器用で、あっという間にババアはあたしよりもずっと美しい姿に変わった。あたしはあたしと同年代で自分より美しいおんなを初めて見た。

 ババアは自分が注目されていたことに気がつくと、ふんと鼻を鳴らし、脇と股間にオイルのようなものを塗り、立ち去って行った。四畳半にはオイルのいやらしい匂いと、茫然としたあたしたちだけが取り残された。


「ババア、風俗に行くんだ……」

 智子がぽつりと呟いた。そうだ、カンチヘの、ババアの私小説では、売春によって生計を立てる少女の姿が描かれていたと、恵子はそう教えてくれた。この世界の構造は不確かなままだったが、ババアの若い頃と繋がっているのだとすれば、あたしの知るババアもまた同じように売春をしていたのだと、そのことを小説に残していたのだと、そのことは確かめられた。そして、ババアが美しい韓国人であったことも。

 ババアはいつもポリコレにうるさかった。それに逆らうかのように、あたしたちはそれぞれ、ある点において差別的になった。恵子は障害者を見下していた。智子は女が嫌いだった。そしてあたしは、韓国人を差別していた。それを見とがめるたび、ババアは激怒して、あたしは反発した。反発するとき、あたしはいつもそれらしい理由を並べたが、今になって思えば「差別に理由はなかった」んだと思う。そして今になり、あたしが韓国人だったと知り、ババアの美しさを知って、あたしはありもしない理由を失いそうになっていた。


「……うちは認めへんで」

 恵子が絞り出すように言った。あたしはいつも笑ってばかりだった恵子が泣くのを初めて見た。原稿用紙のうえに大粒の涙がぼたぼたと落ちた。なにが悔しいのだろう、うつむいて、歯ぎしりする音が聴こえそうなほど、口元を強く締めていたのが印象的だった。

「認めへん、あんなん、ババアちゃう。ババアがカンチヘやったなんて、あんな小説を書いてはったなんて、ありえへん。うちは認めへんよ、うちより小説がうまい人間なんか。しかもそれがババアやなんて、ぜったい無理や。うちはそういう人間や。美子と智子さんかて、そやろ」

 それから恵子はあたしと智子を交互に見つめ、涙でいっぱいの瞳を歪めて睨み、強い口調で詰問した。

「美子かて、自分よりきれいな人間を認められへんやろ。智子さんかて、自分よりかしこい人間を認められへんやろ。うちらはそういう人間や、そやろ」

 頷かなかったけれど、同意しなかったけれど、恵子の言うことは完全に正しいと思った。あたしたちはそういう人間だ。そしてプライドを持つ小説においてババアに凌駕された恵子が、ババアを認められないというのも、分かる気がする。それはあくまで、恵子の領分においてであり、あたしと智子の領分ではなかったが。

 しかしそののち、あたしたちは恵子とまったく同じ思いを共有することになる――。

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