第2章 パーフェクトワールド

1

 うだるような暑さで目が覚めた。腋や太腿のあたりが汗でべとついて気分がわるい。頭がかっとなるこのさいあくな朝をよく覚えていた。あたしは寝るときに冷房はつけないが、東京の夏は窓さえ開けていればここまで熱をもつことはない。身体中から力をじわじわ奪われていくような独特の憎らしさは、京都の夏だ。あたしは久々にあの夏によって目を覚ました。

「うわっ」

 目を開けると、智子と恵子があたしを覗き込んでいてびっくりした。驚いたのはあたしを見つめるふたりの表情、だけじゃなかった。その表情はひどく幼くて、それにどうしてか制服を着ていた。馴染みのある茶色くて清楚な制服は、あたしたちがカトリック系の女子高に通っていたときにまさしく着ていたものだった。

「え、なんで智子と恵子が制服着てんの? それに、え、なんでふたりともそんなに若いの? おかしくね?」

 ふたりは高校生のときの姿そのものだった。それにあたしの声も高校のときぐらいのあどけないものに戻っていた。あたしは慌てて周りを見渡す。その四畳半は、京都であたしたちが過ごしたものによく似ていたが、もっとずっと古めかしいように感じられる。たとえばブラウン管式のどっしりしたテレビが場所を取っている。そうだ、ここは、京都ではなく、ユダの、ババアの部屋じゃないか。

「気づいた? 美子。そうなの、わたしたち、高校生の姿に戻っちゃったみたいなの」

 智子はやけに冷静な口調で言った。あたしが目覚めるまえ、世界の現実を受け入れてしまったのか、それともすべて割り切ってしまったのか、どちらもできていないあたしは、間抜けにも口をぱくぱくとさせて、高校生のままの智子の顔を見つめるだけだった。智子の額には火傷が残っていた。それであたしはあの聖堂のなかで起こったことを思い出したし、あれが夢まぼろしではなく確かな事実だったことを知った。しかし今この場所で起こっていることが、その延長線上にあることは受け入れられていなかった。

 あたしは再び部屋のなかに視線をめぐらせた。四畳半の中心にある小さなちゃぶ台は覚えているものに似ている、が、木目が浮き立っておらずまだ買って間もないものであるように見える。よく見るとテレビも覚えているものよりきれいで、埃にもまみれていない。テレビ台のなかにはやはりゲーム類が見つけられた。ほか、見覚えのない箪笥が壁沿いにいくつか置かれている。ところどころ服がはみ出していて、生活臭があった。しっくい壁はまったく綻びておらず、木目のきれいな長押に押しピンでカレンダーが留められている。カレンダーは七月。そして、平成三年を示していた。

「美子、見た? このカレンダーが確かなら、ここは平成三年の世界みたいやねん」

 恵子はあたしの耳元でそう囁いた。馬鹿馬鹿しいことを真っ当そうに言う恵子の口調がおかしすぎて、

「いやいや」

 とあたしは笑った。

「平成三年だって。それ、恵子が産まれた年じゃん。それなのに、あたしら高校生の姿って、矛盾してるじゃん。それに制服だって平成二十年かそこらの新しいやつじゃん。それに、それに、テレビもちゃぶ台も箪笥も、どう見ても昭和の古さじゃん。なんなの、これ」

 平成三年にしては新しいことと古いことが混在している。いったい今がいつなのか、いったい何が起こっているのか、混乱してあたしは頭をぶんぶん振る。

 智子があたしの背中に手を添え、落ち着かせるように言った。

「そうなんだよ。それに、聖堂が昔の姿のままなんだ。わたしの記憶が確かなら、聖堂は平成三年に一回燃え落ちてる。落雷による火災でね。今の姿に再建されたのは、確か平成九年。でもこの世界の聖堂は、燃えるまえの姿のままで、それにどう見ても出来たてなんだ。聖堂が最初に造られたのは、昭和二十六年ぐらいだったと思う」

 あたしはおそるおそる障子を開け、部屋のそとを覗いてみる。裏山の木々の向こう、そびえたつ尖塔は智子の言ったとおり、覚えのあるましろいそれではなく、いかにもカトリック建築といった体のレンガ造りで、窓と時計が目立ち、薄緑色の屋根で飾られていた。

 舗装されていない砂利道を人々が忙しなく行き交う。覚えのあるユダの温泉街は人がほとんどいなかったはずが、この世界では賑わっており、あちこちから楽しそうな笑い声が聴こえる。ぷん、と香る硫黄の匂いを追いかけて路地の奥を覗き込むと、いかにも花街らしい豪奢な町並みが開けていて、化粧の派手な遊女に腕を掴ませた初老のおとこが得意気に道を歩いていった。

「……智子さんが言うにはな、売春防止法ができたのは昭和三十一年らしいねん。そんで昭和三十三年には町中から赤線が消えたそうやで。でもこの世界のユダを見てみい。どや、どう見ても赤線やろ。せやからここには、昭和三十一年以前の世界線も混じってんねん」

 恵子があたしと並んで窓の外に目をやり、そう説明してくれた。

 確認できるかぎり、この世界でいちばん古い姿をしたものは聖堂で、それは昭和二十六年の姿らしい。そこからあたしたちが高校生であった平成二十年頃まで、あらゆる世界線が同時に存在していることになる。これはいったいどういう事態なのか、どうしたらいいかを悩むうち、それを知るためには最も鍵となるはずの人物を思い出した。

 ――ババアだ。この場所に入るまえ、ババアの葬式があった。あの儀式こそこの不可思議な転移を産んだトリガであったに違いない。この世界ではババアはいったいどこにいるのか、尋ねようとした瞬間、ガラガラと音を立てて引戸が開いた。


 そこにはあたしたちと同じ茶色の制服をきた女子高生が立っていた。おかっぱ髪がいかにも昔風で、同じ時代の女子でないことは分かった。知らない子なのに、どこかで見たことがあるような気がした。しかし見たことがないぐらい可愛らしい子だった。特に惹き付けられるのは目だ。日本人離れしているというのか、切れ長の目元が整っており、うっすらと線のうかがえるふたえまぶたが作りもののように美しい。意思の強そうな瞳は寒気がするぐらい黒く、冷たく、見つめているとその深淵に飲まれてしまいそうだった。

「あっ、ババアや!」

 恵子のひっくり返るような声が後ろからした。振り向くと、恵子は腰を抜かしたように倒れ込んだまま、その少女を指差していた。まんまるい目を大きく見開き、口元をアヒルみたいに緩めたその表情は、ババアに怒られているときの、恐怖と恥じらいと誤魔化しがないまぜになった半笑いによく似ていた。

「遺品整理してるとき、ババアの写真一枚だけ見たことあるねん! モノクロやったし、色褪せとったけど、正面から写した証明写真やったからよう覚えてる! 高校生のときの写真やった! この女の子の姿とまったく同じや!」

 恵子の言葉に驚いて、あたしと智子は再びその少女を注視した。少女が高校生ならば、あたしたちが知るババアとは六十歳ぐらい違う。ババアの顔は同年代と比べてもずいぶん疲れ切っており、シワだらけだったから顔立ちはよく分からないが、怒るときのあの特徴的な威圧感と同じものが、その少女の瞳には宿っているように思えた。

「ベル! マリア! マグダラ!」

 そして瞳と同じぐらい圧のある声で、少女は叫んだ。その声を聴いたしゅんかん、彼女は確かにババアかもしれないと思った。身体中でそう思った。その声を聴くと、全身がしぜんに強張る感覚があった。昔から何度もババアに怒られるたび身体で覚えた反応が、その少女に怒鳴られると反射として現れた。

「……え、なにこの子。あたしらのこと呼んでる?」

 あたしは智子を見つめ、そう確認する。

「洗礼名じゃん。わたしたちの。美子はベルナデッタ。わたしはマリア。恵子ちゃんはマリア・マグダレナ」

 智子はそう言って頷いた。この世界のババアは、あたしたちの名前を知らないようだ。しかし少なくとも同じ世界にいる存在としては認識している。

「いややわ。うちだってマリアって呼んでや。マグダラ読みとかあんまりや。グウタラみたいやんか」

 恵子がそう言って茶化すと、少女は激高したかのように大きく手を振り、足を踏み鳴らし、さらに激しい言葉であたしたちを罵倒した。そうだ、ババアに怒られているとき、あたしたちは最初、いつもこのようにして何でもないおしゃべりを交わして無視をしようと試み、ババアの怒りをやりすごそうとした。まるで反省を見せず平然としたあたしたちを見て、ババアはいつもこのようにして、全身で怒りを表したんだ。

 しかしあのころと違い、ババアの言葉を聴きとることができなかった。もちろんあのころもババアの言葉は聞き流していたのだが、そういう意味ではなく、ババアがいま口にしたのは英語のような言葉だった。あのころはババアの言葉なんてろくに理解しようとしなかったのに、いまになって無性にその意味を知りたくなった。

 あたしたちはあのころのように、自然と正座を組んでいた。それを見たババアのような少女は、あのころのように語気を弱めた。


 少女の怒りが収まった頃、智子が流暢な英語で少女に何かを尋ねた。うちの女子高はカトリック系の例にもれず英語教育が盛んだったので、卒業する頃にはたいていの生徒は日常英語ぐらいなら熟せるようになる。しかしあたしはろくに勉強しなかったので、英語も欠点の常連で、今でも英語は話せないし聴き取れない。確か恵子も国語と社会以外の教科は欠点ぎりぎりだったはずで、英語はあたしと同じぐらいしか分からないと思う。唯一、智子だけは高校のときから英語は全国でもトップクラスによかったし、ケンブリッジ大学を卒業し、海外に生活拠点を移した今となっては、おそらく英語はネイティブレベルに使いこなせるのだろう。少女もだいぶ落ち着いたようで、なんだか機嫌は悪そうだったが、ふたりのコミュニケーションは円滑に進んでいるようだった。智子の英語はともかく、少女の英語も同じぐらいのレベルであるように感じられた。

「……やっぱりこの子、ババアの若い時だよ、たぶん。この家に住んでるんだって。わたしらたぶん、ババアの高校生時代にタイムスリップしちゃったんだ。ババアが高校生のときはスーパーファミコンなんてないし、カレンダーにあるとおり平成三年なわけないし、いろんな時代が混じってるのは、どうしてか分からないけど」

 智子がひそひそ声であたしたちに教えてくれた。あたしと恵子はいちおう頷いてみせたが、分からないことだらけだった。それでも、タイムスリップなんてものがあるとしたら、それがあのババアの葬式に繋がっていることは理解できた。ババアが葬式のさい、最期になにかを伝えるべく、彼女の若い時代にあたしたちを運んだんじゃないかって、理屈ではありえないけど、理屈以外のすべてでわたしは分かった。なにを伝えたいのか、それは分からなくて、でもそれが分かれば、ほかのことは全て説明できるんじゃないかって、この不安定な世界にあたしはババアの弱さみたいなものを初めて感じとった。

「ここでババアは暮らしててね。で、わたしたち、つまりベルとマリアとマグダラは、聖堂預かりのカトリックの信者の子で、ババアと一緒にここで暮らしてるんだって。ここはそういう世界みたい」

 そういう世界、か。智子の言葉に、あたしは深く頷く。ババアと暮らす四畳半。それはあの京都の空間によく似ている。この空間はあたしたちがよく知るものに繋がっている。ふたつの世界が間違いなくリンクしていることをあたしは感じた。

 であれば、帰り道はあるはずだ。鍵を握っているのはババアだってことも、鍵を開くのはあたしたちだってことも、明確に意識した。


「……マグダラって名前はあんまりやわ。洗礼名とか嫌いやし、うち、自分が呼ばれてるって分からへん。智子さん、ババアにちゃんと言うてや。うちの名前は、恵子、やて」

 恵子はすねたような口調で言った。いつもしっかりしている恵子があまり見せたことのない声色で、表情だった。恵子はもしかして、ババアにちゃんと名前を呼ばれたいんじゃないか、無粋にもあたしはそんなことを想像した。

「Her name is Keiko. Please call her Keiko」

 とても簡単な智子の英語はあたしにも聴き取れた。

「……ケイコ」

 少女は怪訝そうに眉をひそめたまま、しかしとにかく恵子の名前を呼んだ。

「Yes! And my name is Tomoko. Could you call me Tomoko?」

 智子は続けてそう言い、自身を興奮気味に指差した。

「……トモコ」

 促されるまま、少女は智子の名前を呼ぶ。智子の顔がわずか嬉しそうに緩むのをあたしは見てしまい、慌てて目を逸らした。

「マイネーム・イズ・ミコ」

 あたしは自分でそう言ってみた。名前を名乗る、英語の初歩中の初歩でもあるそんなことが、いまはやけに緊張した。名前を呼ばれる、そんなことが、いまは特別なことなんだって知った。ババアが付けてくれた名前を、ババアに教えるということは、物事の道理がさかさまに輪廻している気がして、あの自我に目覚めたときのような不確かさがあった。初めていったときの感覚にも似ていた。あたしは頭がわるいから、かんたんにいう。かなしかった。

「……ミコ」

 ババアに名前を呼ばれたしゅんかん、身体中が熱くなったのは、夏のせいじゃないと思う。あたしはやっぱり、身体中で分かったんだ。少女がババアなんだって。だってあたしは、うれしかった。氷がいっしゅんで湯気に変わるというような、もしそんな現象が物理的に起きえるのだとしたら、あたしはそれを感情的に体現してた。だからあたしは泣いたりはしない。ちょっと汗をかいただけだ。


 ババアが言い、智子が翻訳してくれたことには、やはりいまはカレンダー通り七月だそうだ。つまりあたしたちは学校に行かないといけないらしい。今すぐに出ないと遅刻する、とババアに追い立てられ、あたしたちはババアと一緒に学校まで走った。川沿いの、木立のしたを通る砂利道は、京都の高校まで通った哲学の道によく似ていた。高校の校舎はあたしたちが覚えている京都のものとそっくりだった。校庭を走っていると予鈴のチャイムが鳴った。あたしたちはあの頃いつもそうしたとおり、遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んだ。

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