5

 くたびれた舗装路はやがてレンガ道に変わった。その先がユダの温泉街だった。いかにも老舗といったふうの旅館や食事処が赤ちょうちんを並べている。ところどころから白い湯気が立ちのぼり、ほんのりと卵のくさったような匂いが漂っている。

「いかにも田舎のひなびた温泉ってかんじだね。客いないし、店もほとんど閉まってんじゃん」

 あたしが町並みを見渡して感想を述べると、智子が、

「ここ風俗街だから、夜にならないと開かないよ」

 と教えてくれた。

 まったく風俗に縁のない人生を送ってきたので、警戒をおぼえた身体が緊張する。カトリック系のお堅い女子高で育ってはきたけれど、京都という町柄、遊ぶ場所は多いしお金もかかるので、風俗というかいわゆるパパ活に手を染めた子もなかにはいた。別に派手でもなんでもない真面目で清純そうな友だちが、ふとしたおしゃべりの合間に、不特定の相手とのただれた性関係を匂わせることがあった。うちにお金はなかったが、風俗をしようなんて考えたこともない。智子も恵子もそうだったと思う。美貌や智謀や恵俊彰に風俗なんてものは似合わない。つまりババアの教えだ。

 ババアは今風にいうとポリコレというのか、女性の価値を過度に認めたがるひとで、そのぶんおとこというものを見下していた。あたしたちはある面ではババアに逆らってもいたのに、またある面ではふしぎなぐらい従順だった。疑うこともなく、あたしは、あたしたちは、おとこという概念を人生から遠ざけた。智子や恵子も同じようにいう気がするんだけど、あたしにとって、おとこは嘘くさい、と思う。おとこは嘘をつく公器だ。美貌や智謀や恵俊彰は嘘をつかない。そして嘘をつかないものだけがあたしたちの人生を成功させてくれたから、自然と人生において選り分けたものも正当化された。あたしたちの人生の成功、なんて、ババアはぜったいに認めないけれど、ババアも嘘はつかなかった、それだけは確かだ。別に感謝はしていないが、確かだと信じてはいる。

「……風俗街かあ。へー。見えないね。よく知ってたね、智子」

 あたしは努めて冷静な口調を作り、智子に話しかけながら、自然に早足となる。あたしの知る京都・木屋町の風俗街とは違い、ぎらぎらしていないぶん、逆に不気味だと感じられた。木屋町ではよく嬢として声をかけられた。こわくて走って逃げたあのときのうぶさを思い出した。おとこは嘘をつく、し、なんだかこわい。こわいからセックスをする。痛いところに触れて確認するみたいに。

「昔からの温泉街なんてたいてい風俗街だからね」

 智子が平坦な声で教えてくれた。あたしはふたたび周りを見渡すが、町はのっぺりしている。京都でいうなら強いていえば祇園に似ている気がするけど、女子高生の足をおのずから遠ざけるあれのような、重々しいかんじはしない。うすっぺらい、かるい、似ているだけのハリボテに見える。

 この町でババアは育ったんだ。ババアがどんなふうな子どもだったのか、分からないけれど、ババアが京都に出てきた理由のようなものはこの町からうかがえるような気がした。たぶんババアはこの町が嫌いだったんだろう。このうそっこの町が。そして本物を求めて、京都に来た。小説家の恵子に話せば笑われてしまうような、そんな陳腐なストーリーを想像した。

「なんか気持ちわるいね、早く行こうよ、智子」

 あたしは強い口調でそう言い、智子のお尻を叩いてうながした。あたしたちは小走りぐらいのスピードで病院へ向かった。あたしたち三姉妹はみんな運動が得意だったから、小走りでもとても速い。そしてちょっと走ったぐらいじゃ疲れない。高校のときの、哲学の道に沿って走るマラソン大会で、三姉妹とも各学年の一位を取ったのは、つまらない自慢のうちのひとつだ。

 ほんとうにつまらない自慢だ。だってババアはあたしたちを認めようとは決してしなかったから。でもほんとうにつまらないのは、異様なぐらいババアに認められたいと思うあたしたちなんだと思う。ババアのことなんて好きでもなんでもなかったのに、なんでババアに執着したのか、今をもっても分からない。きっと分からないまま、あたしたちはババアを見送るんだと思う。そして分からないまま人生は続く。

 あたしは女優の仕事をして、智子は世界的な研究機関で後世にも残るような実績を上げて、恵子は向こう千年語られるような名作を書きあげる。そんな人生がやはり、つまらない。たぶん人生の価値はそこにないから。

 あたしは思う、人生の価値とは、人生の価値をわかることなんじゃないかって。じゃあ、ババアはどうなんだろう。あたしたち三姉妹をハイスペックに育てあげて、それなのに誰のことも認めようとしなかったババアは、「分かった」んだろうか。ユダという、ババアが育った町で、ババアの人生をわずかでも振り返ってみたいような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る