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 ユダ駅で降りたのはあたしと智子だけだった。わずか二輌のワンマン電車を見送ったあと、遮断機のない踏切を渡って改札を抜ける。駅舎は簡素なバラックで、駅員はおらず、申し訳程度のロータリーに停まる車もなく、閑散としている。

「へー、ここって温泉らしいよ」

 智子がかたわらに足湯を見つけた。となりには巨大な白い狐の像が立っていて、あたしたちを出迎えてくれた。

 智子はその狐のまえで手を合わせた。たぶん三姉妹のなかで一番信心ぶかいのが智子だと思う。ただ彼女の信心は相手を選ばないのが特長で、ブッダだろうかアッラーだろうが八百万だろうが道端の地蔵だろうが、まんべんなく祈りをかけようとする。いわく「祈りはタダだからやらないともったいない」と説明したことのある智子は「もったいない」が口癖のひどいケチでもある。勉強も「タダだからやらないともったいない」らしかった。大学受験に向かう日の朝、空港で拾った饅頭を「これは吉兆」とばかりに拝んだすえ口に運んだのは呆れたけど。でも結果として超名門大学に受かったわけだし、神なんかもしいるとしたら、ご加護みたいなものがあったのかもしれない。そんな智子でも、ミサなんかでヤスさんを拝むのだけはひどく怠そうだった。

「この温泉は、隠れキリシタンの里であり、白い狐は信者のシンボルである」

 あたしは白い狐のとなりに立っている看板をわざとらしく読み上げる。

「えー! なしなし! 祈り、取り消し! コントロールゼット連打!」

 それを聴くと智子は眼鏡に触れながら露骨に嫌悪を表す。

「智子、ヤスさんに祈ったからぜったいろくなこと起こんないね」

 あたしが意地悪くいうと、智子は白い狐に向かってあかんべえをした。

 ユダは傷ついた隠れキリシタンが湯治に使っていた土地らしい。この温泉には白い狐が棲みついていて、外敵からキリシタンを守る神のような存在でもあったという。

「せっかくだから温泉入っていこうかと思ったけど、白けたなあ。ババア見送ったらさっさと帰るわ」

 智子は誰にともなくそう言い、うあー、とじじむさい声を出しておおきく背伸びをした。

「まあ、夏だし温泉っていう気分でもないしね」

 あたしはぎんぎんに照りつける太陽を見あげ、乾いた笑いを浮かべる。駅のまわりはわずかに住宅地と、その向こうにはどこまでも広がる水稲、そしてまっさおな空にいきりたつ入道雲。象徴的に、夏。

「いろんなところで夏を過ごしたけどさあ、やっぱり京都の夏がいちばん印象深かったわ。ケンブリッジの夏、サンタクララの夏、バンコクの夏、ソウルの夏、クアラルンプールの夏、台北の夏。まあやっぱ京都がね、いちばん……暑い!」

 智子も太陽を憎々しげに見つめ、うっすらと微笑んでいう。あたしは智子の言ったどの町も知らないけど、黙ってうなずく。京都の、あの夏がいちばん暑かったと思う。ババアと、三姉妹で過ごした、あのなつ。うだるような、あたしにとってはムカついて仕方なかった夏。智子にとっては泣いてばかりだった夏。恵子にとっては笑ってばかりだった夏。ひとしく、クソ夏。


 どこへともなくあたしたちは同時に足を踏み出した。ぶらぶらと歩きながらあたしたちは思い出話をする。

「三人で祇園祭行ったよね」

「行った! ババアのお下がりのクソださい浴衣着てね。お金もないのに家から円山公園まで歩いて、そこからひとつひとつ月鉾とか船鉾とか見て。毎年バカみたいに、いま思えば何が楽しかったんだろう?」

「ヒマだったし、ババアといたくなかったからじゃん? 覚えてる? 智子がお腹空かせて、おこづかい出しあってチマキ買ったんだけど、何も入ってなくて、智子ギャン泣きした!」

「ウッソだそれ。でもババアといたくなかったのは本当」

「裏山からあたしが竹をパチってきて、カップ焼きそばで屋上から流しそうめん……というか流し焼きそばした」

「覚えてる! ババアがブチ切れた! で、美子がババアにビンタして、十倍にしてやり返された!」

「あれ痛かったなあ。あと、夏はババアがお風呂を沸かしてくれなくて、みんなで水風呂入ってた」

「あったねそれ。わたしよりケチだったよね、ババア。でも馬鹿みたいにわたしらずっと風呂から出なくて、それでまたババアが怒ったんだよ」

 住宅地を抜けると、とぎれとぎれに水田沿いの長い道があって、その向こうには森の奥にましろい尖塔が二本うかがえた。ユダのシンボルでもある聖堂らしい。そのすぐ傍にある病院にババアは入院している、と昨日恵子が教えてくれた。

 アスファルトは焼けつくように暑く、焦げた匂いが漂っている。風が時折吹くと水稲がみなものように揺れ、鼻をつくような青くささが一瞬香る。電車はほとんど通らないが、あたしたちが歩いているうちに二回追い抜かれ、一回すれ違った。これは夏じゃない、あたしたちはそんなことを考えながら、そんなことを確かめながら、歩いていたような気がする。こんなもの、あたしたちが知ってる、あの夏じゃない。

 噛みしめるような沈黙を挟んだのち、智子はぽつりと言った。

「やっぱそのうち温泉行こうよ。三人で」

 その口ぶりがあまりに不器用で、あたしは、はは、と笑う。

「そんなセレブな趣味あったっけ? 智子」

 いじわるく茶化すけれど、あたしは前向きに考える。温泉、か。いいかもしれない。京都市内には温泉なんてほとんどなかったし、銭湯に行くお金すらなかったので、三姉妹で温泉に行ったことは一度もない。

「台湾は火山地帯だからさ、日本と同じで、けっこう温泉があるんだよ。だからわたし、たまに行くよ。台湾は物価安いから温泉も高くないし」

 智子がそう教えてくれた。意外な趣味に驚く。

「まじで、似合わねー!」

 そう叫ぶと、智子が冗談っぽくあたしの手の甲を叩いた。エンジニアらしい、かたい手だ。おんなじぐらいの温度の。だってあたしたちは、姉妹だから。

「いいよ、行こうよ、温泉」

 あたしはそう応えた。

「まじで。約束」

 智子らしくもなく、うれしそうな返事がある。さりげなく小指をからませてきた。

「約束。まあ落ち着いたらね」

「そうそう、落ち着いたら」

「このクソ夏が去ったら」

「そうそう、世界一クソな、この夏が去ったら」

 ほんとうに、かつてない、最低な夏だ。しかしババアを見送れば、この夏もさよならだ。あたしたちはしりとりみたいにどの温泉に行きたいかの提案を交わしながら長い道を歩いた。終わらないしりとりのような道だった。ババアのいる病院には行きたくなくて、それぞれの理由で、あたしたちは新しい夏の提案を思いつくかぎり口に出し続けた。それはどうしてか、あの夏に繋がっている気がする。メビウスのように。三姉妹で入ったあの水風呂がいい、なんてあたしは言わないし、智子も言わないのに、つながってしまうのはどうしてだろう。言葉が有限なように、記憶もまた有限なのだろうか。

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