物語のきざはし

衞藤萬里

物語のきざはし

《すごい! 庸子ようこちゃん、上田さんおめでと!》

 突然のハナからのショートメールは、文字からしてすでに興奮ぎみだ。大学から駅までの長い下り坂の途中だった。

《ハナさん? え、何、どうしたん?》

 驚いた庸子の返答も、思わず話し言葉のままだった。

《ちょ、ちょ、どうしたじゃないでしょ。と、ぼ、け、て!》

 ハナからのレスポンスは驚異の速度だった。

《上田さん、銀山賞取ったんでしょ!?》

「え――!」

 ハナからもたらされたその情報――賞は、これまで上田が入選してきたものとくらべて、格も知名度もはるかに高いものだった。伝統ある出版社が主催するその文学賞は、第一線で活躍している多くの作家を輩出している。

《知らない、すごい! すぐ見てみる》

 そういえば、ここひと月ほど忙しいとのことで、ろくに上田に会っていない。まさか、そのようなことになっていたとは。

 スマホを切り、胸をはずませ大学の近くの書店に駆けこむと、文芸誌のコーナーに平積みされている厚みのあるその雑誌を手にとる。発表は誌上での方針を頑固に保ちつづけている硬派の文芸誌だ。

「銀山賞受賞作品、一挙掲載!」の表紙。目次を開けば、上田斗志岐としきの名前が、真っ先に眼に入った。心臓が二倍に膨らんだような昂揚。

 我慢できずに、ページをめくる。

 上田の文体だ。彼独特の、彼にしか書けない、彼だけの文体だ。庸子が魅せられ、心から愛した上田の物語だ。

 読みすすめるうちに、膨らんでいた庸子の心臓が、突然凍りついた。

(――うそだ……そんな!?)

 あわてて他のページをめくる。

 ここも、ここも……最後の場面……ここも……どうして……?

 とまどいが胸の奥に広がる。気がつかないうちに、雑誌を閉じていた。


* * *


 小説家にあこがれる、ただの高校生だった遊佐ゆさ庸子が、初めて地元在住の作家上田斗志岐と出会ったのは彼のサイトでだった。そこは上田が主宰する、各自が持ちよった習作についての意見交換や書評をおこなう穏健なサイトで、居心地のよいサロンめいた雰囲気があった。ハナと出会ったのも、このサイトでだった。 自分より少し年長と思っていた彼女が、実はふたりの子持ちの三十代と知って、後でびっくりしたが。

 上田は若いころからいくつかの賞を受賞して、すでに作家としての地位をある程度確立しており知名度は高かった。地方紙にコラムも持っている。そしてサイト上に公開する彼の作品は、投稿された他の者の作品とくらべても、やはりずば抜けて優れていた。

 彼の小説は穏やかで淡麗で、やわらかく肌になじむ感じだ。最初は水のようになめらかに内側に入ってきて、ある瞬間に、自分の中にあふれんばかりに満ちていることに初めて気がつく。しかし同時に、上田のつむぐ物語はひどく繊細で、それが庸子に物足りなさを感じさせることがあった。

 読みすすむうちに、彼に強く魅せられていくのを感じた庸子は、その正直な感想をコメントした。彼の熱心な読者からの反論。それに対する意見、また反論。庸子も含めた幾度かのやりとりの後、上田自身のコメントが載った。


《〇〇(庸子のハンドルネーム)さんのおっしゃるとおり、小説を書くということは、それが外側にある事象をモチーフにしていても、自分の内面に取りこまれた映像を再度、外界に投影するという段階をふんでいる限り、 “自分”からは決して逃れられないと思うのです。

物語がおもしろくないのであれば、それは僕自身の心の未熟さ、未成熟さのせいです……》


 僕自身の心の未熟さ、未成熟さ…… ?

 何て危うくて、頼りなげな大人の言葉なのだろうか。

 上田の物語に魅せられていた庸子は、さらに上田という個人に惹かれていくことになる。自身の習作を投稿し、論議に加わり、庸子はそのサイトの中に段々と自分の居場所を作りあげていった。


* * *


 初めて彼と出会った日のことを、庸子は生涯忘れない。

 サイトのメンバーでのオフ会だった。夕方六時、そして予約されていた店から、アルコールが供される場であるということは充分予測できたことなのに(案内にも書かれていた)、地下へ降りる階段を前にして初めてそのことに思いいたった。どういうわけか、皆でお茶でも――という雰囲気を勝手に連想していた。実物の上田斗志岐に会えるという期待だけが、先行していたのだ。

 初めての店に、それもおそらく自分より年上の人たちの中に入りこんでいくことに、急に気後れがした。もう六時半に近い。ひょっとしたら、皆もうお酒呑んでるかもしれない。自分が未成年ということは、明らかにしていない。

 あきらめて帰るか? いや、せっかく上田斗志岐に出会えるのに。それにサイト上で話をした人たちと、顔を合わせる機会を失うのもいやだ。大体、参加って申し込んでおいて、急にキャンセルしたら迷惑をかけるんじゃ……と脚を踏みだせずにいた。

 階段の前で躊躇する庸子の脇を、一組の男女が通りすぎた。男性がちらりと庸子をみやり、階段を降りかけて脚を止めた。振りかえる。年齢は三十をいくつかすぎたくらいか。小柄でやわらかい物腰。柔和な表情、眼鏡の奥の瞳は小動物のように穏やかだ。何かを憶いだそうとするように庸子を見つめていたが、意外に確信的に訊ねた。

「ひょっとして……?」

 隣の女性が、驚いたように眼を丸くする。男性が口したその名が自分のハンドルネームだと思いいたるのに、庸子は少しだけ時間がかかった。

「はい……あ!」

 まっすぐ庸子をみすえる男性の視線に、直感した。

「……あの、もしかして、上田斗志岐さんですか?」

「ええ」

「わぁっ! すごい、はじめまして! 遊佐庸子って云います!」

 思わず声が出た。興奮して、言葉が止まらなくなってしまった。

「あ、ハンドルネームは友達の名前を借りてて、本当は遊ぶに佐藤の佐で遊佐、庸子は、中国の四書で『中庸』ってのがあるんですけど、平凡っていうような意味で…… あ、高田馬場の決闘とか忠臣蔵で有名な堀部安兵衛武庸たけつねの庸の字で……あ、あのぉ……わかりませんよねぇ……?」

「いや」上田は笑いながら「わかりますよ。堀部安兵衛ですね、十六人斬りの。伊保里いおりさんも知ってるでしょう?」

 伊保里と呼ばれた隣の小柄な女性が、にこやかにうなずく。

「そう、その庸です!」

 嬉しくって、飛びはねる。伊保里はそんな庸子の様子に、おかしそうに笑う。


* * *


 上田が庸子のものになるまで、長い時間が必要だった。彼は庸子よりはるかに大人であり、隣には将来上田伊保里となるべき女性がいたからだ。

 庸子と上田、そして伊保里の間に長い灼熱の危うい時間が流れ、彼女たちは身を焦がすこととなる。

 そのことで、庸子はいろいろなものを失うこととなった。上田が主宰するサイトもそのひとつであり、上田自身もそれを放棄せざるを得なかった。

 上田と伊保里の関係は、彼らを知る者たちの間では定められたものであり、そのふたりの間に割って入ろうとする遊佐庸子の存在は、上田を中心とした調和のとれた世界をかき乱す異物だった。とげのように刺さり、彼らの世界にひびを入れていく。非難と嫉妬が彼女に振りそそぎ、彼らの居心地のよい温室は崩壊していった。

 幸い仲のよいハナだけは、彼女の立場を賛同はできないまでも擁護してくれた。

 あのころの上田のサイトに関連していたごく一部の人々による騒動の顛末は、まだこの電脳世界の海のどこかに漂っているだろう。

 すべては上田を欲した庸子のエゴだった。過ちは自分にある。それは、自身が誰よりも理解している。醜い欲望だった。

 あきらめるべきだと、理性が何度も引きとめようとした。でも止まらなかった。

 自分でも信じられなかった。何もかも犠牲にしてでも手に入れたいものがある――しかもそれが人であり、男性であること――その想いが嵐となり、自分を巻きこんでしまうなんて、到底信じることができなかった。

 だがその嵐は、事実、庸子を襲った。

 抵抗することも、理性でもって対処することも、あきらめることも、逃げることもできなかった。

 その嵐に立ちむかい、何度も打ちのめされて、倒れ傷つき、みじめに泣き、それでも止まらなかった。

 自分の妄執があれほど強力で執拗だったとは、今でも信じられない。


* * *


 ――心の中に物語を持たない人間は、きっといない。

 上田はよくそう云っていた。

 ならば――と庸子は考える。

 物語を創造する者、小説家とは、その物語が自分の中でだけで帰結することに耐えがたい者なのではないだろうか? その想いに突き動かされて、生きていた証しとして、彼らは自分の物語を世に問うのではないだろうか?

 入った大学で文芸サークルもあったが、そこに属すことはなかった。上田を手に入れた庸子にとって、そのようなものは何の価値も見いだせなかったからだ。

 上田斗志岐という才能にもっとも近い場所にいること、彼の創造の場に立ちあうこと、そしてほんのわずかでもその物語の誕生に寄与する――これほど得がたいものがあるだろうか?

 あの時期、そのような気配を悟らせぬようにしていたが、上田が行き詰っていたことを庸子は感じていた。

 創作への情熱か探求心か、あるいは質の希求か、上田の眼がときとして絶望に近い底の見えない淵のような昏さをたたえていることを、庸子は知っていた。

 それは上田に苛立ちやとげとげしさを生ませ、ふたりの間に空疎さやすれちがいを生じさせた。

 だけど庸子は言葉をかけることはできない。

 彼女は上田のように、深く深く創作の淵に潜っていく者ではなかったからだ。彼女が言葉をかけることができる領分ではない。

 だから、寄り添うことしかできなかった。


 小説はずっと書いていたが、読むのはもう上田だけだった。上田という巣の暖かさに甘えるように、気ままに庸子は物語をつづりつづけた。

 ――殺された家族のため不思議な力と契約をし、獄死した犯人を蘇らせて、記憶を失った彼のにせの家族を演じつづけて、少しずつ犯した罪を自覚させていく者たちの復讐の物語。

 ――眠りの世界にとらわれた少女を救うために、依頼されて街を訪れた夢使いとともに、彼女の夢の世界へ跳びこむ少年の冒険。

 ――自分をみせない、隙をみせない、波風を立てたくない、週末の雀荘で常連たちと卓をかこむことだけが唯一の楽しみの三十女が体験した事件簿。

 ――衛星軌道上に突然出現した巨大な花弁状の星船で永遠の旅をする異星人たちが、旅路を共にするたったひとにぎりの地球人を選別するひと夜の幻想。

 ――滅びさった機械文明の廃墟が、魔素に満ちる地下迷宮と化した遺跡を探索する男たちの英雄譚。

 今はたったひとりの読者のためだけの物語だが、空想の世界は無限だった。

 上田は庸子の物語を読み、デビューできるよとよく笑った。庸子はその度に、そんなこと無理だよと笑った。

「人を惹きつける物語を書くってことは、技術じゃないと思う。きっとそれ以上のものが必要だ」

 それはいつの日のことだったろうか。ふと、上田はそのようなことを語りはじめた。

「文章のうまさのその先に、物語自体の輝きがある。これは習得したくても、できるものじゃない。才能なんて安っぽいものじゃない。それを持って生まれてきた者、自分の言葉として表現できる者が、本当の物語を創造する者だと思う」

「物語のきざはし、だね」

「何、それ?」

「ほら、曇り空のすきまから太陽の光が差しこんで、まっすぐな光の柱みたいになるでしょ?」

「天使の階段ってやつだ」

「うん、それを伝って、物語が天使みたいに地上に降りてくるんだよ。薄暗い曇りの日に、光が差したその場所だけは明るくって、物語が降りてきたそこに生えている樹や花は、他のものとは全然違うと思うの」

「特別な場所に生えている樹や花……?」

 とまどったように、上田はつぶやく。庸子はそんな上田の表情がおかしくって、無邪気につづける。

「うん、あたしは上田さんみたいに難しいことはわかんないけど、本当にいい物語を書くことができる人って、きっとそんな特別な樹や花の存在を感じることができて、スケッチブックに写しとることができる人のことじゃないかな?」


「こんな話考えた。ちょっと書いてみたの」

 プリントアウトした庸子の物語を、上田は食い入るように読む。

 それは――すべての人々が言語を失い、感情だけがあまたの玲瓏たる鈴の音となって鳴り響く世界に生きる少女たちの物語だった。

「……きれいな物語だ」

 ひととおり眼を通した長い沈黙の後、ほっと息を吐きながら上田は答えた。

「庸子の物語、どんどん削ぎ落とされていくね。余分なもの、冗漫なもの、いらないものが剥ぎとられていって、研磨されて、少しずつ透明になっていってる」

「砥石がいいから」

「……僕のこと?」

「そう」庸子が笑う。「上田さんが見てくれてるから」

 上田はじっと庸子を見つめる。霞の向こうの、どこか遠い場所を見るような眼をしていた。

「これは、ゆっくり読ませてもらえるかな」

「いいけど。ね、上田さん、今、どんな話書いてるの?」

「う~ん、そうだなぁ。最近は仕事も入ってくるようになったから、なかなか体が空かないな」

「でも、本当に書きたいものじゃないんでしょ? 結構、ぎちぎちしてるよ。いい話、書いてほしいな」

 上田の笑みがかすかに陰った。無神経すぎたかと庸子は思ったが、それは一瞬のことで、すぐにその陰りは消えた。

「そうだな。もう少し高いハードルにでも、挑戦してみようかな?」


 もちろん肉づけしなおされ、練りなおされてはいたが、上田が受賞した作品はまぎれもなく、そのとき庸子が彼に渡して、そのまま忘れられていたあの物語だった……


* * *


 彼のアパートにたどりつき、何度かドアを叩いたが返事はない。庸子はポケットの中の合鍵を使って、中に入った。靴を脱ぎすて部屋にあがると、まったく動かない空気を感じた。

 いない……

 よく考えたら、入賞の連絡は事前にあったはずだ。文学賞の発表の当日、入選者がのんびりと自分の部屋にいるなんて、どうして思いこんでいたんだろう? そんなこともわからないほど、自分は混乱しているんだろうか?

 部屋から出ようとして、ふとテーブルの上に置かれているノートパソコンに眼が留まった。ここから彼の物語は生まれた。そしてまだ顔も知らなかったころ、これが庸子と彼をつないでいた、唯一の糸だった。

 胸が苦しい。力なくその場に座りこんだ。膝を立て、すべての困惑を頭の外に追いだすように、顔を伏せた。

 自分の物語を彼が使ったとか、そしてそれが何らかの賞をとったとか、そんなことはどうでもよかった。庸子はただ、上田に自身の物語を描いてほしかった。それを充足させてほしかった。

 それは上田以上に、庸子の願望だった。夢だった。

 なのにどうして……どうして上田は自分の物語を、自分の言葉を、情熱を、手放してしまったのだろう? どうして? これは裏切りだ。

 窓の外では、街を行きかう人たちの歓声が聞こえる。車や単車のエンジン音、小学校のサイレン、どこかでやっている工事の騒音。

 庸子はすべてを閉ざした。小さくちぢこまることによって、自分と、上田が裏切った世界とを遮断しようとした。

 ……どれぐらいの間、そうしていただろうか。

 庸子はのろのろとポケットからスマホを取りだした。彼のアドレスを指が探す。長い呼び出し音がつづき、途切れる。はるかな空間をへだてて、彼のかすかな息遣いが伝わる。

「遊佐です」

 誰がかけたのか、相手にわからないはずはないが、庸子は名乗った。

「おめでとうございます」

 枯れた小枝のように、ぎこちなく、庸子は聞きとれないほど小さくそう伝えた。惑乱を越えて、でも信じがたいほどの薄さで、硬く純粋に結晶したような言葉。

 電話の向こうの沈黙が、かすかに揺らいだ。

 そして庸子は、静かにスマホを切る。


「誰ですか?」

 対面の担当がいぶかしげに訊ねたが、すぐに本題にもどった。

「銀山賞作家、上田斗志岐受賞後第一作ですよ。これで文壇に赫々たる地位を確立するぐらいのつもりでいきましょう」

 長い付き合いの彼も、上田の受賞に興奮気味だった。

 上田は答えずに、もう何も伝えることがない掌のスマホを、凍りついたように見つめていた。感じたことのない軽さだった。

 不思議なほどに平静だった。後悔も罪悪感もない。ただ自分が取り返しのつかないものを、失ってしまったことだけはわかった。だから何も云えなかった。

 窓の外では、宵闇だけが濃くなっていく。


* * *


 あの日、上田斗志岐が命を絶ったこの場所で、庸子と伊保里は、冬の厚い雲と風と、それ以外の冷たさに震えて耐えていた。

 色があせ、錆のういた金網。高架の下は、ひっきりなしに車が行きかっている。そのたびに脚下の舗装は不気味にうねる。吹きっさらしの高架のちょうど真ん中。いつ架けられたのかもわからないその場所は、階段を降りた左右の歩道にすら人の影はない。どうしてこのようなうら寂しい場所にたどり着いたのだろう、それが不思議だった。

 ずいぶん久しぶりに電話で話した伊保里が、この場所で会いたいと伝えてきた。

 最後に伊保里に会ったのは何年も前、上田もふくめて三人でのことだった。あれほど濃密に圧縮された剥きだしの激情の時間を、庸子は知らない。そのとき以来、彼女は上田や庸子とは袂を分かっている。

 少しやせた――と庸子は伊保里に感じたが、それ以上にどこか透徹した美しさが宿っていた。

 知名度の高い文学賞を受賞した作家が、発表のその夜に自殺したニュースは、一時世情を騒がせた。人々は彼を解体し区分し様々なレッテルを貼ることに狂奔し、存分に味わい、そして飽きて捨て、もう見向きもしなかった。 まるで上田斗志岐という人物が、はじめからどこにもいなかったような忘却ぶりだった。

 伊保里は庸子が差しだした葉書を無言で受けとると、眼を落としたまま、長い間動かなかった。

 風がふたりの髪をかき乱し、脚下が不規則にうねる。


『僕の創造した物語で、多くの人たちの心をとらえたかった。僕の物語で、ほんの少しでもこの世界を震わせ、世界のどこかに僕の名前を刻みたかった。それが僕のささやかな夢でした。

でも、僕には無理だった。

物語のきざはしの話をしたことを憶えていますか? あのときすでに、君は僕の言葉よりはるかに遠い場所にいました。僕には決して手の届かない場所です。僕がいつか、たどりつきたいと渇望していた場所です』


 庸子の元に上田からの葉書が届いていたのは、彼の死の翌々日のことだ。

 長い時間を歩きつづけて、その直前に書きのこした、彼のバッグにいつも入っている何枚かの葉書のうちの一枚につづられた、わずかな言葉の群。さよならも何もない。それだけだった。ただ最後に何かを書きかけて、消した跡だけがのこる。そこに記されるべき言葉は何だったのだろうか?

「久しぶり……彼の字ね……懐かしい」

 長い沈黙の後、葉書から眼を離さず伊保里はぎこちなくつぶやいた。

「……昔、彼、パソコンじゃうまく感じが出ないって云って、必ず手書きして、それから清書してたの。知ってた?」

「あたしは、彼が手書きしてたとこ、見たことないです」

 不思議にふたりは、上田のことを彼と呼んでいた。まるで物語の登場人物のことを評するようにだ。

「それが、私とあなたの差よ」

「でも、彼が最後に言葉を遺したのは、あたしにです」

 次の瞬間、伊保里の平手が庸子のほほを激しくぶっていた。伊保里はもう、葉書に眼を落としていなかった。燃えるような眼で庸子をにらみつけ、ぶった方の手は激しく震えていた。

「何で、あなたなんかに……」

 伊保里が庸子をぶつ。何度も、何度も。庸子はよけようともしなかった。その瞳が潤み、涙がこぼれ落ち、伊保里は手を止めた。幾粒も、幾粒も、壊れたように涙を流した。

 静かに庸子も泣いていた。顔を赤くはらせて、声もなく泣いていた。

 庸子と伊保里、人の形をした柱のように立ちすくみ、ふたりはただ涙を流しつづけていた。


* * *


 別れはあっけないほどだった。さんざん泣いた後、真っ赤な眼のまま、じゃ、と伊保里はあっさり別れの言葉を口にした。

「いつまでも付きあってられないわ、あたしはさっさと忘れてしまうことにするから」

 うそばっかりと思いながら、庸子は応じた。

「あたしは忘れません」

「忘れてしまいなさいよ、あんなずるい意気地なし。何もかもあなたのせいにして、勝手に陶酔して、絶望して、勝手に死んでしまって、ばかよ、わがままよ……あーもうっ! だいったい、何で十も年下のがきに、あたしがこんなこと云わなけゃいけないわけ?」

「十一です」

「うるさい」

 庸子を軽くにらみつけ、くしゃくしゃになった葉書を押しつけると、振り返りもせずに気高く去っていった。

 上田からの葉書は、ボールペンの文字が、庸子か伊保里かの涙でところどころにじんでいた。ポケットにしまうと、そこだけがほんのりと暖かく感じるのが嬉しい。でも何かすごく貴重なものを手渡された感じだ。

 気がつくと、あちこちの雲の切れ間から、陽の光がやわらかく降りそそいでいた。


 ……彼はあがいていたのだ。

 庸子は想う。

 疲れて、見えないところで傷つき、眼の前の一線を越えようとしても、何かが押しもどす、そんな力に挑んで。

 でも彼はその力に敗けた。いや、敗けたのではない。進むことをやめたのだ。彼は限界に達していた。だから敗北に逃げこんだ。

 自分の物語が、あのとき責めなかったことが、彼を決定的に傷つけた最後の一本の藁だったのか? 

 今ならわかる。

 庸子は彼を責めなければならなかった。

 あれは剽窃だと。人から掠めとったもので、あなたは栄誉を得たのだと。

 それをしなかった。 

 庸子は告げてしまったのだ。一言、おめでとうと。

 それは、あなたはあなたの物語の生み手ではもはやなくなったのだと、庸子は創作者である上田を見限ったのに等しかった。

 初めてのコメントで垣間見た彼の危うさ。自らを未熟、未成熟と云い、未完の自分を満たし、いつの日か完結させることを望んでいた彼。彼にもっと力強くそれを押し返す力があったら、庸子を平然と踏みつけることができる強さがあったら、彼の物語は、もっと広々とした地平に降り立つことができたかもしれない。繊細さや優しさだけでは、人は上を目指せない。そしてそのことを誰よりも感じていたのは、きっと上田自身だった。

 ――君は僕の言葉よりはるかに遠い場所にいました。僕には決して手の届かない場所です。僕がいつか、たどりつきたいと渇望していた場所です。

 そう上田は最後に書き遺した。

 だが信じられない。

 彼には見えていた何かが、彼が持っていない何かが、自分の中にあるのだろうか?

 自分が持っているものに、そんな価値があるかどうか見当もつかない。

(――ずるいよ上田さん)

 庸子は小さくつぶやいた。

(――自分の弱さ、わかってたくせに、全部あたしに押しつけて逝っちゃって)

 どうすればいいのだろう?

 彼の失ってしまった夢のかけらをつなぎ合わせて、もう一度この世界に投影するのだろうか?

 いつかそんな日がくるのだろうか?

 ……答えは出ない。

 それでも……

 庸子は歩きだす。上田斗志岐が最後に生きていたこの場所を離れ、伊保里とは逆の方向へと。

 厚い雲の間からさしこむ天上の光はきざはしとなり、まるで物語が降りてきたかのように、世界は淡い輝きにつつまれていた。


(了)

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物語のきざはし 衞藤萬里 @ethoubannri

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