第30話 塔

 ノエルに雇われてからの数ヶ月で、ジリアンは五キロほども太った。食べる量が増えたのだから当然だが、ディディエも、ミセス・マロウも、もちろんノエルも、顔色がいいとか髪の艶が良くなったとか言ってくれるから、ちっとも悪い気はしない。

 夜に眠って朝に起き、食卓につき、お腹を満たして家じゅうをぴかぴかにする。音楽を聴き、チェスを教わり、時々は丘を下りてミセス・マロウのお宅でバーベキューを楽しむ。月の輪号が近くに来ると聞けばいそいそと出かけ、特にあてもなく車を走らせる日や、ふと思いたって樹洞を見に行く日もある。

 変わりない、穏やかな日々にあって、ジリアンが為したいちばん大きな仕事は、歌う花を添えた手紙を書くことだった。宛先は「グロリア・ハーシバル様」。

 メールアドレスを添えたからか、返信はスマートフォンに届き、何度かやりとりしたのちに、会って話す段取りがついた。「斜塔」から近いわけでもないのに、わざわざ格式張ったホテルのラウンジを指定してくる母は少しも変わらないと感心する。

「今日はちゃんと女の格好なのね」

 開口一番に、彼女は言った。ジリアンは内心でため息をつく。内心で、とはいえ、萎縮するばかりではなく、呆れられるようになったのだから大きな進歩だ。

「別に、見てくれにこだわる必要もないかと思って」

 学院の寮に入って以来、五年ぶりに見る母は昔と同じくブランドもののスーツと、足首が折れないのか不安になるハイヒール、カシミアのストールとトレンチコートといった出で立ちで、皺や白髪はもちろん、五年分の老いも見当たらなかった。

 高い位置で乱れなく纏められた髪や一分の隙もない服装、嫌味でも皮肉でもなく正論を叩きつけては出入りの業者や教師らを屈服させる母が苦手だった。「優しいお母さん」に憧れ、苦手意識が余計に母を苛立たせるのだと良い子でいようとしたものの、彼女の要求はいつもジリアンの成績を凌駕していた。

 母は母なりに、良かれと思ってそうしたのだろう。『斜塔』の魔術師の子どもたちが恥をかかぬよう、謂われなき中傷に晒されぬよう、あらゆる非難と批判に立ち向かえるだけの実力をと望んだのだろう。それらが直接、彼女の評価になると自覚していたのかはわからないけれど。

 しかしルシアンは姿を消し、代わりをつとめようとしたジリアンは彼ではありえず、エリート一家と囁かれていたハーシバル家はにわかに暗雲に包まれた。誰もがそれぞれに家庭の崩壊を望んでいなかったからこそ、ルシアンの失踪からの歳月をどうにか乗り切れた。不協和音が絶えることはついぞなかったが。

「……私はルシアンの代わりではないので、意識して寄せる必要はないでしょう。着たいものを着て、好きに化粧をして、好きに生きます」

「それを言うために、わざわざ? ママと喧嘩したいの?」

 グロリアはこれ見よがしなため息をついた。昔は、その耳に輝くゴールドのピアスにさえも緊張したものだが、いまは不思議と何の感慨もない。

「とんでもない。これを渡したくて」

 ジリアンはハンカチに包んだブローチを取り出した。陶器の薔薇。一目見るなり、母が蒼白になった。さすが、『斜塔』の魔術師。

「ルシアン……なの?」

「そう。ルシアンはいます。私の……私とルシアンの第二の心臓に。だからもう、それは差し上げます。私には魔法がありますから」

 母は震える手でブローチを取り上げ、すぐにバッグにしまった。こんなにも動揺している姿は初めてだが、それだけルシアンを案じていたのだろう。今もなお。

「……何度目かしらね、子育てを失敗したと思い知らされるのは」

「べつに、珍しい話ではないですよ。どこにだって転がってる、ありふれたすれ違いでしょう。それに……そうだな、子育てが失敗かどうかは、親が判断するものじゃないように思いますが」

 ふん、とグロリアは鼻を鳴らした。気に入らない宅配業者を睨めつけるときの仕草だ。

「……送りつけてきた花はあなたなの、ジリアン?」

「そうです。私と、ルシアンと……たくさんのひとの魔法です。伝わって良かった。じゃあ、私はこれで」

「ジリアン!」

 踵を返してすぐに呼び止められる。母の眼は不可解な色に揺らめいていた。

「魔術の勉強なんてどこでだってできる。『斜塔』に来なさい」

「私の魔法は見せ物じゃない。好きに生きると言いました。……気が向けば、またお世話になるかもしれません」

 ジリアン、ジリアン。母の声には振り返らず、ラウンジを出た。路上は身を切るような冬の風が吹いていたが、体は綿雲よりも軽い。

 都会のデリでおしゃれなお惣菜を買って帰ります! と出がけに大口を叩いてしまったから、きっとノエルはお腹を空かせて待っているだろう。特急の時間までに買い物を済ませなければならない。

 メインストリートのはるか遠くに『斜塔』が見える。近くで見れば、屹立、睥睨といった形容が似合う魔法省も、ここからでは単なる背景でしかない。

「パパとママは『しゃとう』におつとめしてるんだよ」

 幼い頃はそう自慢したこともあるが、今のジリアンには少しも魅力的に映らなかった。ぼんやりと樹洞を眺めて、レモングレーズのドーナツとホットコーヒーで体を温める方が、ずっと楽しいし、向いている。

 ジリアンは『斜塔』を背に、街路をゆく。ショートブーツの踵が軽やかに鳴った。

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ノエルの花束 凪野基 @bgkaisei

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