第18話 微睡み

 おとぎの国へと先導するくるみ割り人形がふとこちらを振り返った。驚愕に息を呑むジリアンと同じ顔で、記憶にあるそのままの表情で、人形が笑む。

「久しぶり、ジリアン」

「……ル、」

 彼は人差し指を立ててジリアンの声を封じ、雪の舞う松林をぐるりと見回した。ヒュウ、と鋭い口笛に、幼い頃の思い出が堰を切って押し寄せる。

 勝てなかったチェス、上手だった口笛、絵本を半分ずつ読み合ったこと、大好きだった肉団子入りのシチュー、「スクールバスが橋の上を通る間は息を止めていないとに攫われる」ふたりだけのルール、同じタイミングで風邪をひいて寝込んだ冬の日、だんだんと一緒に遊ばなくなって、窓辺からひとり、残照を眺めたいつかの夕暮れ。

「ねえ、元気でいるの。元気だったの」

 問いかけは無粋にすぎた。心の奥底に閉じ込めて鍵をかけ、重しをしていた思い出は、長年、意識の俎上にも載せなかったのに少しも色褪せておらず、彼がはにかんだように目を細めるだけで、子ども部屋の壁紙の淡いクリーム色や、お揃いで買ってもらった自転車のフレームの輝きまで鮮明に思い出せてしまった。懐かしさと驚愕と親しみとが涙腺をもみくちゃにする。ひとつぶの涙も零れなかったのは、彼の手が幼い頃と変わらぬ温かさだったからだ。

「もちろんだよ」

 双子の兄、ルシアンは平然と頷いた。『くるみ割り人形』では、人形が実はおとぎの国の王子であると明かされる。隣を歩く彼こそが、この国の王子なのだろう。

 王子。ジリアンは小さく息をつく。学生の頃は幾度となく星を浮かべた視線を向けられ、過激な下級生から「私の王子さまになってください」と熱烈な手紙を押しつけられた。前者はやんわり受け流し、後者は丁重に断りの手紙を書いたにもかかわらず、根も葉もない噂を流されて大変な目に遭ったから、嫌な思い出しかない。

 ルシアンがおとぎの国の王子さま。それが自分の理想の押しつけでないよう、ジリアンはひたすらに祈った。

「ね、これを持っていって」

 ルシアンが胸元に留めてくれたのは、薔薇のブローチだった。甘いピンク色のそれが砂糖菓子ドラジェであると、物語の筋を知ったジリアンにはわかる。

 松林を抜け、城壁を潜り、城下町へと辿り着く。雪が舞っているのに少しも寒さを感じないところが空想の強みだ。見回せば、通りを行き交うのはお菓子の精だったり、ぬいぐるみや積み木などのおもちゃだったりした。みなルシアンを見て「王子さまだ!」「王子さまのお帰りだ!」と朗らかに声をあげ、一礼する。

「……ってわけ。僕はここでうまくやってる。心配しないで。悲しむ必要もない。道は繋がったんだ、望めばいつだってここに来られるよ、僕の魔法使い」

「待って、僕は、」

「僕たちはいつだって一緒だ。大切なものは目には見えない、だろ? 見えなくても、信じて。忘れないで、僕たちの魔法のこと。双子だってこと」

 雪が舞う。妖精たちが陽気に中空を踊る。おとぎの国が光り輝き、滲んでゆく。

「いやだ、行かないで! ルシアン!」

 ジリアンは叫んで微睡みから覚めた。右手に、つるりとなめらかな薔薇のブローチを握っている。スピーカーからは『花のワルツ』が流れていた。

「大丈夫ですか、ジリアン……?」

 大丈夫なのだろうか。空想だった、はずだ。どこからが夢で、どこからが魔法なのだろう。答えを見つけられぬまま、ジリアンは元通りスツールに腰を下ろし、手のひらで顔を覆った。ルシアンと同じおもてを。

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