第17話 錯覚

「あの、もしCDがあれば、聴きたいです。ノエルが指揮をした『くるみ割り人形』。いけませんか?」

 ノエルはしばしの沈黙ののち、大きく息をついて首を振った。

「検索すれば違法コピーやら、動画やら、いくらでも出てくるでしょうに。きみは本当に律儀ですね。一緒に行った方が良いですか? それともひとりで聴きますか?」

「僕がひとりで聴いてる間、ノエルは待てますか」

 少々意地悪な訊き方だったかもしれない。かれはぐっと言葉に詰まり、チョコレートドーナツを食べ終えてから席を立った。

 書斎へ移動する間も、尻尾は覇気なく揺れていた。獣人は尾にもこんなに感情が表れるのだと、今さらのように思い知る。

「私はね、小さい頃から、音楽が目に見えたんです。最初はメロディが『見える』だけでしたが、学ぶにつれ譜面からでも光景が立ち上がるようになりましたから、これが魔法の才能だとわかりました。私の音楽が多くの方に受け入れられたのは、私に見えていたものが誰しもが抱く普遍的なイメージだったからかもしれません。革新的と言われたことは知る限り一度もありませんが、情緒がとか表現力がとかは、たびたび評価されましたからね」

 ノエルの指揮が見たかった。指揮者による演奏の違いや楽曲に対する解釈を理解できるとは思わないが、音楽に触れ、音とたわむれるかれを見たかった。

「才能は授かりものです。もちろん私とて勉強しましたし、経験も積みましたが、それでもあの才がなければ音楽の道に進もうとは思わなかったでしょう。音楽家としての人生がいつかは終わると覚悟はしていましたが……こんなふうに終わるとは思ってもみませんでした。すべては錯覚だったんですよ。才能は私に授けられたのではなく、一時的にお借りしていただけだった」

 ずらりと並んだCDから迷いなく一枚を抜き出し、ノエルはパッケージをしげしげと眺めた。P.チャイコフスキー、ノエル・アイアソン。荘厳なオーケストラでもバレエのワンシーンでもなく、クリスマスを思わせる赤と緑を基調にしたデザインで、くるみ割り人形のイラストが描かれている。思っていたよりずいぶんカジュアルだ。

 ノエルはデスクチェアに、ジリアンは踏み台兼用のスツールに腰かけた。CDが再生されると、かれのまるく柔らかい指がリズムを刻みはじめた。いつもとは違い、止めようとはしない。くるみ割り人形の活躍を思い描き、さまざまな妖精たちの競演に身を委ね、ジリアンはぼんやりと音楽を聴く。

 かれの功績と足跡は、こうして確かなかたちで残っている。教え子だってたくさんいるだろうし、音楽を志す多くの人の標になったはずだ。ディディエのドーナツのように、音楽とは別の分野にも影響した。

 ノエルの指揮は、音楽は、もうすでに数えきれないほど多くのひとの花を咲かせている。伝わり、残り、糧となっていると考えてはいけないのだろうか。

 目を閉じて楽曲に没頭する。空想は容易におとぎの国へと羽ばたいてゆく。

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