第16話 無月

 お土産のドーナツを喜色満面で頬張るノエルに、コンサートはどうでしたかと尋ねられ、ジリアンは言葉に詰まった。演奏を聴いていたのはほんのわずかな時間だけで、しかも上の空だったから、聴いていたというのも図々しい。

「それが、ちょっと色々ありまして。ドーナツ屋の列とか、樹のうろとか」

「はあ……? だいぶ、色々あったようですね。差し支えなければ話を聞いても?」

 ジリアンはミルクスノウをフォークで切り分けつつ、先に樹のうろの話をした。ディディエに樹洞の話を聞いて、植物園に行ったこと。彼と再会して話したこと。彼が口ずさんだ『くるみ割り人形』のフレーズが蘇る。

「ディディエは、前に指揮をするノエルを見たと言ってました。課外授業で、『くるみ割り人形』の……」

「そうでしたか。昔は、そんな活動もしていたんですよ。季節の楽曲を演奏したり、キッズコンサートやワークショップを開いたり。音楽は目に見えませんし、形もありません。演奏者や指揮者、なにより聴き手によって印象はまったく違ったものになります。その儚さと、非言語的な表現であるからこその普遍性を私は愛していました。このすばらしい文化を、芸術を、伝えねば、後世に残さなければと本気で思っていたんです。音楽と向き合えるだけの気力と体力があるうちに」

 かれは紅茶のカップに視線を落とした。そこに答えがあったのかどうか、再びジリアンを見たまなざしには、諦めに似た光があった。

「遺せるものはわずかですから、遺せるなら遺したいと思ったのです。私にできる限りの音楽を。……当時の私には、音楽しかありませんでしたし、音楽にだけは見放されたくなかったんです。若い頃は、我こそが音楽界の至宝とさえ思っていましたからね、そりゃあ鼻持ちならない犬っころでしたよ。音楽に浸り、生き甲斐にするばかりで、他を見下げ、蔑ろにして。でも、音楽の神さまはそんな私の傲慢と増長をちゃあんと見ていて、ついには天罰を下しました」

「天罰……?」

「幼い頃から見えていた、音にまつわる光景が、突然、まったく見えなくなりました。音楽に対して心が動かなくなった、というのが近いです。音は聞こえます。聞こえるけれど、それだけです。演奏も指揮もできません。祈ろうが縋ろうが、だめでした」

 体の記憶を頼りに、形ばかりの指揮はできた。だが、マエストロの致命的な変化を看破する者は早晩現れるだろう。それだけの目に晒されているのだから。

 ノエルは恐れ、恥じた。悔い、涙し、あらゆるセラピーを試し、すべてが無駄だと判明するや、健康上の理由、ともっともなお題目を掲げて引退を宣言し、人目を避けて田舎に移り住んだ。音楽の封じられた家に。

「満ちた月もいつかは細る。そのくらいは承知していたつもりでした。ですが……至宝たる自分だけは才能の枯渇を免れるのではないかと、若さゆえの無根拠な自信に溺れ、視野狭窄に陥っていたのです。だいいち、細るのを待たずとも、雲が月を隠すのは不思議でも何でもありません。それをすっかり失念していたんです」

 ジリアンは手元の皿を見遣った。ドーナツは食欲によって引き裂かれ、ココア生地がぱらぱらと散っている。

 自らのキッチンカーに、月の輪と名をつけたディディエを想った。輪、はドーナツを指すとしても、月はなんの比喩なのだろう。

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